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Chapter5-7

「剣崎を呼んだから来るまでここで待ってろ」  話を終えた剣崎はそう言うと、そう言うとロッカーからノートパソコンを取り出し、早苗の目の前で仕事をし始めた。  することも無くなった早苗は、目の前のマグカップに手を伸ばす。散々警戒していたそれは、中身はなんてことのないただの冷たくなってしまったミントティーだった。緊張していたこともあり自分では気が付かない程度に匂い酔いをしていたようで、そのミントティーを嚥下すると胸の当たりがスッとした。  余裕が出てきたので、チョコレートの方にも手を伸ばす。ここに来たばかりの時はあった警戒心も、いつの間にかなくなっていた。チョコレートを舌に乗せると、口腔内の温度でゆっくりと溶けていく。想像していたよりも甘味は強くなく心地よい苦味とナッツの香ばしさが口の中に広がった。舌触りもいつも口にするような市販のチョコレートとは違い、まるでシルクを舌の上で転がしているのではないかと錯覚するほどに滑らかであった。  2粒目のチョコレートに手を伸ばしかけたところで扉がノックされる。扉を開けたのは蛇池が呼んだ剣崎であった。 「お待たせしてしまってすみません。あ、チョコ食べてからで全然いいっすからね」  早苗がチョコレートに手を伸ばしていたことに目敏く気がついた剣崎がそう言ったが、早苗は子供扱いされたようで顔から火が出るほど恥ずかしかった。  しかし、1粒数百円のチョコレートを残していくのは勿体ないので口に押し込み急いで咀嚼する。チョコレートを飲み込で、向かいの椅子に置かれていた荷物を持って早苗は剣崎の待つ扉の方へ歩いていった。 「お世話になりました」  入り口で振り返った早苗が蛇池に向かってそう言葉を発すると、蛇池はパソコンに顔を向けたまま「おう」と短い返事をよこした。  剣崎に促されるまま、先ほどの道のりを逆に進む。緊張が解けていたせいで、先ほどよりも廊下に漂うムスクの匂いを濃く感じた。先ほど無理矢理押し込まれたシルバーカラーのスポーツカーの後部座席のドアを開ける。すると、先客がいることに気がついた。 「あ、さっきの……」 「お疲れ様、逢沢さん。僕はこれから出張なんです。ご一緒させてもらいますね」  先に剣崎の車に乗っていたのはリッカだった。驚いた早苗がドアを開けたまま固まっていると、リッカは自分の隣をポンポンと叩いて、早苗を乗車するように促す。  早苗が彼に従って隣に腰を下ろすと、上品な薔薇に似た甘い香りを感じた。同性だが思わずドキドキしてしまうくらい官能的であると感じた。 「それじゃあ、出発しますね。逢沢さんの家ってどこです? アパートとかなら建物名だけでも大丈夫すよ」  運転席に乗り込んだ剣崎が早苗に問う。 「カーサ・アリビオです」 「カーサ、アリビオっすね」  ナビに建物名を入力すると、1件の検索結果が表示された。 「ここすか?」  住所を確認して早苗が頷くと、経路を確認した剣崎は「逢沢さん家が先っすね」と言ってから車を走らせ始めた。  車内には先程とは違った緊張感が流れていた。  早苗が座っているのは運転席の後ろ。街灯の明かりで先程自分が付けたであろう、蹴った跡を見つけて早苗がソワソワと居心地悪そうにしているとリッカが話しかけてきた。 「蛇池にいじめられませんでしたか?」 「え? あ、はい」 「それなら良かったです。言葉崩していいですか?」 「どうぞ」 「良かった。逢沢さんって小松俊哉とはどんな関係なの? 付き合ってるとか?」 「えっと……」  早苗が言い淀んでいると、リッカは『俊哉とはいつ出会ったのか』『小松伊織という厄介な弟がいることは知っていたのか』『どうして付き合おうと思ったのか』とまくし立てるように矢継ぎ早に質問をしてきた。 「リッカさん、そんなにどんどん質問されても逢沢さんが答えられないっすよ」  答えることが出来ずタジタジなっている早苗を見かねて、剣崎はリッカにストップをかけた。 「ごめんね。ついつい、気になっちゃって……」  はた……と理性を取り戻したかのようにリッカは早苗に謝る。 「いえ……リッカさんも俊哉先輩のことを知っているんですか? さっき伊織先輩のことも知っていそうでしたし」 「あれ、蛇池から聞いてない? 僕が小松俊哉の元恋人って話」 「あ、アレってリッカさんの話だったんですか?!」  蛇池から聞かされた悲惨な体験をした俊哉の恋人が、まさかリッカだとは思っていなかった早苗は慄いた。 「どの程度聞かされたかは知らないけど、小松伊織に嵌められて見知らぬアルファと番わされたかと思えば、薬を一服盛られて人生詰んだオメガの話を聞いたんだったら、それは僕の話だね」  あっけらかんと言い切るリッカに早苗はなんと返せばいいのかわからずに困惑する。 「そんなにあっさりと重い身の上話を聞かされても逢沢さんが困惑するだけっすよ」  剣崎の言葉に同意するように早苗が激しく首を縦に振ると、リッカさんは参ったように頬を掻いた。 「僕の中ではケリのついたことだから、つい……。それに、逢沢さんがもし小松俊哉と付き合ってるならそういう危険があるんだってことを伝えたかっただけなんだけど……」 「にしたって事情知ってる人ならともかく、初対面でそんなこと聞かされても返答に困るだけっすよ。リッカさんの自虐ネタは聞いてる方のメンタル抉ってくるんすから」  リッカがそんな話を切り出したのは、どうやら早苗を思ってのことだったらしい。 「なんか、さっきからごめん。逢沢さんのこと困らせてばかりだね」 「い、いえ。オレのこと心配してくださったんですよね。ご自分も大変な思いをしたのに、他人を思いやれるのってすごいと思います」 「……そんなこと言われたの初めてだな。前にもね、似たようなことがあってさ。その当時の俊哉の恋人に話した事があるんだけど、余計なお世話だって言われちゃったんだよね。元カレがしゃしゃってきてウザイみたいに言われちゃったんだ」 「そう考える人は少なくないかもしれないですね」  確かに、俊哉のことが本当に好きで恋人になったならリッカの忠告は余計なお世話と言いたくなる気持ちもわからなく無い。早苗も、京介の元恋人が現れてリッカと同じようなことを言ったなら言葉にはしなくてもその元恋人のことを疎ましく思ったかもしれない。 「逢沢さんもこんなこと言われて本当は余計なお世話って思うよね、ははっ……ごめん。僕は俊哉が原因で傷付く人をこれ以上増やしたくないんだ」 「いえ。そんなことないですよ。それにオレの場合、事情がちょっと違ってくるので……」  早苗は言葉を濁し気味に答えた。何処か物悲しそうにしているのを見て、リッカはまだ、俊哉に未練があるのかもしれないと思ったからである。

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