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Chapter5-8

 それから家に着くまでの十数分間の間、車内にはナビの無機質な声だけが流れた。その空気感に早苗が耐えきれなくなりそうになる前に、車は早苗の住んでいる社宅の前に到着した。  車外に出ようとして、先程のようにドアに阻まれるかと思ったが、今度は内側からもドアを開けることが出来た。チャイルドロックは解除されていたらしい。  車を降りて一息吐こうとするとリッカに呼び止められた。 「逢沢さん、そのまま建物に入るのはまずいと思うからこれ使って」  そういって差し出されたのは市販の消臭スプレーだった。自分ではそんなところまで気が回らなかったが、早苗の衣服には店の香りが染みていたのだろう。  ああいった場所の香りを、オメガの利用する公共施設に持ち込むのはタブーである。リッカがいなければ、早苗はうっかりでそんなタブーを犯してしまうところだった。  早苗はリッカからスプレーを受け取り満遍なく浴びる。色んな香りを嗅ぎ過ぎていたせいで、正直なところ自分の嗅覚に自信が持てなかったが、衣類も頭髪も何となくしっとりしていたので大丈夫だろうと、今度こそ2人に別れを告げた。  テンパードアを開けると慣れ親しんだミントの香りが鼻腔を擽る。ようやく現実に戻ってこられたような気がした。  自分の部屋のドアを開く頃には、先程までの出来事が夢だったのでは無いかとすら思えたが、ジャケットを脱いだ時に微かにムスクが香る。それはまるで、先程までの出来事が現実であるということを証明しているかのようだった。  シャワーを浴びる前に、カバンに入れたままになっていた携帯を取りだし着信などがないかを確認すると、普段見なれない数の通知が届いていて、そのほとんどは京介からのものであった。  会社の前で誘拐よろしく連れ去られた早苗の姿を目撃していたらしく、ずっと早苗の安否を確認するような内容のメッセージを送ってきていた。  直前に届いたメッセージに【返信が無いようなら警察に連絡をする】とあったので、早苗は慌ててメッセージを返した。 【早苗か?】  早苗からの返信を、携帯を持ったままずっと待っていたのだろう。早苗が返信をする前に、さらにメッセージが届いた。  途中まで入力していた文章を消して、【はい】と短く送ると直ぐに既読が付いた。 【心配をかけてしまいすみません。今家に帰りました】 【ガラの悪い男に連れ去られるのを見て、心臓が止まるかと思った。怪我はしてないか?】  珍しく誤字をするほど京介が焦っているようだ。早苗はなんだか驚きと罪悪感が混ざったような変な気分になった。 【怪我もないです】 【声を聞いて安心したい】  そんなメッセージが届いて直ぐに電話がきた。いつもの癖で直ぐに通話ボタンを押してしまい早苗は後悔する。今、俊哉と番ってしまったという後ろめたさがあったので、京介と直接話すのは気が重かった。 『早苗』 「はい」 『心配した』 「すみません」 『怖い思いもしていないか?』 「はい、大丈夫です」 『本当に……よかった』  そう何度もつぶやく京介の声は震えていた。早苗は今まで京介が動揺した姿を見たことはほとんどなかった。仮にそんな素振りを見せることがあったとしても、その心配の相手は早苗ではなかったのは確かだった。彼を裏切っている今、こんなにも心配されてしまって、早苗は殊更罪悪感を覚えた。 『早苗』  いつものように早苗が話せずにいると、京介が低く落ち着いた声色で早苗の名を呼んだ。こんな優しい声で名前を呼ばれたのはいつ以来だろうか。 『早苗。俊哉から話は聞いた』 「――っ」  ぼんやりと考え事をしていた早苗は突然、冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。俊哉から何を聞いたというのだ。――そんなのは分かりきっている。早苗が京介を裏切って俊哉と番ったという話だろう。 『安心して欲しい。俺は早苗がそんな選択をしてしまったことを責めたりしない。むしろ、自分を傷つけるような選択をさせてしまったことを謝りたいくらいなんだ……』 「そんな……! 決めたのはオレです……ごめんなさい」 『それでも、早苗を思い詰めさせたのは俺なんだろう。だから謝る必要は無い』 「…………」 『早苗はこれからどうしたい』 「え……」 『俊哉の番として生きていくのか?』 「それは……分かりません」 『そうか。俺とやり直す選択肢はあるのか?』 「……すみません」 『……そうか』  京介は早苗の選択が受け入れ難かったのだろう。電話の向こうで歯を噛み締める気配を感じた。 「京介さんと初めて話した日、オメガだからと言ってやりたいことを諦める必要は無いと言って貰えた時本当に嬉しかったです」 『早苗……』 「好きになってくださってありがとうございました。こんな別れ方になってしまって、ごめんなさい」 『いいんだ。俺の方こそすまない。早苗に理想を押し付けすぎた。いくら芯がしっかりしているからと言って、寂しくないわけないのにそれに気がつけなかった……』 「…………」 『もしこれから、何か困ったことがあれば頼って欲しい。俺にはそうするしか償う術がない』 「……はい」 『今までありがとう』 「こちらこそ、ありがとうございました」  電話を終えて、急いで浴室に向かう。まだ冷たい水を頭から被っていると、早苗の頬を暖かい液体が流れていった。

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