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第16話

「こらこら、走ったら転びますよ」 ボトムの寒空の下、炊き出し広場には人いきれが立ち込めていた。ところどころ母親におぶわれた赤子の泣き声が上がり、空の中心へ吸い込まれていく。 「元気があるのは結構だけどありすぎるのは困りものね」 「シスターゼシカも今頃苦労してるでしょうよ、一人でわんぱくたちの相手は大変だもの」 「もうひとり位残してきたほうがよかったんじゃ?」 「大丈夫っていうんだから信用しましょ」 「近頃物騒なのに……東区の孤児院に人さらいが出たって聞いた?」 「痛ましい話ね……無事に見付かるといいけれど」 「ターゲットは人間の子供でしょ?」 「シスターゼシカはいい子だけど、気負い過ぎなのが玉に瑕ね」 「その点無責任なシスターアデリナとは違いますわね」 「今なんておっしゃったのシスターコーデリア、よく聞こえなかったんでもういちどお願いしますわ」 片頬を包んだシスターコーデリアの独白にシスターアデリナが気取って返し、仮設テントに集った一同笑いを誘われる。饒舌な会話を不吉な風が吹き散らし、どこか遠くへ運んでいく。 「あるところに一人の男の子がいました。彼は神様が大嫌いでした」 神父は昔語りをはじめた。 ピジョンは一瞬あっけにとられるも、心して耳を澄ます。 「男の子は神の家で育てられました。が、そこに神様はいません。どこをさがしてもいません。キャンドルをどけて説教台の空洞を覗いても、美しいレリーフを施した柱の後ろに回り込んでも、礼拝堂に座すマリア様の袂をうろうろしても、彼の呼びかけにこたえてくれるものはどこにもいませんでした。神父を名乗る人物は神様は天にいるのだと説きます。我らが全能なる主は常に地上を見張っていて、いい子にだけ天国の門が開かれるのだと」 口の端をほんのかすか皮肉に歪める。冷えた諦観を沈めた韜晦の笑み。 「それを聞いて彼はいい子になろうとしました。神父を名乗る人物の言うことをよく聞き、決して逆らわず、勉強も頑張りました。ですがちっとも報われません。遂に男の子は神様を信じるのをやめ、家をとびだしました。どんなに祈り縋っても腰を上げない、怠け者の神様に愛想を尽かしたのです」 祈りが報われず飛び出した男の子の行方に胸が痛む。 トレーラーハウスが巡る先々で体験した辛い日々。 地元の子供たちに石もて追われ、大人たちに陰口を叩かれ、母の馴染みに殴られた時。 どうして自分ばかりがと理不尽な仕打ちを呪い、どんなに祈り縋っても何もしてくれない神様を恨んだ。 自分は決して神父やシスターたちが言うようないい子ではない。 人並みに神に縋れば呪いもする、平凡でちっぽけな人間なのだ。 いくらピジョンが鈍感でも、男の子が誰をさすかは察しが付く。 神父の生い立ちは決して恵まれたものではなかった。 少なくともピジョンには母と弟がいた、祈りを天に託さずとも縋れる大好きな人たちがそばにいたのだ。 「あー」とぐずる赤ん坊の尻を「よしよし」と叩き、横目で師を観察する。 「男の子はどうなったんですか?」 「賞金稼ぎになりました」 瞼の奥の|紫の瞳《パープルアイズ》が、絶望を苗床にした厭世を秘める。 祈りの為に組んだ手をほどき、十字架を銃に持ち替えた無神論者の横顔。 「少し大きくなった彼は、もう神様なんてまったくこれっぽっちも信じていませんでした。男の子の友達も同感です。もし神様が実在するなら、この世界がゴミ溜めになっている説明が付きません。この世界が醜くて汚いのは神様がいないからだと思っていた方が、彼らにとっては楽だったのです」 友達と聞き、蛇の無頼漢の顔が浮かぶ。 「どうして」 「神様がいることで救われる人間もいればいないことで救われる人間もいます」 虚無に冷えた瞳を伏せ、カソックにたれた銀のロザリオを手繰る。 「彼らはたまたまそちら側でした。神様がいないから自分たちはツイてないのだと思った方がまだ救われます」 ピジョンには少しわかる気がした。スワローがそうだからだ。 弟は神様を信じてない。神様がいるならどうしてこの世の不幸の埋め合わせをしないのか疑っている。 「ところが、男の子は出会ってしまったのです」 「誰とですか」 「天使とです」 関節と長さが黄金律で調和した指が十字架に触れ、至福の余韻を噛み締める。 なにかの比喩だろうか? 現実に天使が存在するわけない、それ位ピジョンでもわかる。 否、相手は神父だ。本当に奇跡体験をしたのかも…… 「天使って本物の……?」 「ご想像におまかせします」 「とぼけるのはずるいですよ、気になるじゃないですか」 むきになる弟子にこの上なく優しい眼差しを注ぎ、眼鏡の位置を微調整。 「彼にとっての天使なら本物だろうが偽物だろうがどうでもいいじゃないですか」 たとえ翼のないまがいものでも、本人が天使と信じたならそれは天使なのだ。 「せめて髪と瞳の色くらいサービスで」 ミーハー全開で質問責めにしかけたピジョンの背中で、赤子が発作的に泣きだす。 「わっ、ちょ、さっきまでご機嫌だったのに」 次の瞬間、じわりとコートの背中が濡れ広がる。 「まさか」 慌てて紐をほどいて赤子を抱き上げたところ、股間に染みができていた。 「やっちゃったかー……」 「小なのが不幸中の幸いですね」 神父がのんびり言い、「貸してください」と赤子を抱きとっておしめを剥く。孤児院の長をしているだけあって実に手慣れている。 赤ん坊のおしっこが染みたコートは脱ぎ、近くの枝に干しておく。 「コートは受難ですね」 「あとでよく洗っときます」 「あまたの試練をくぐりぬけた聖遺物として召し上げられるのでは?」 「中身が伴ってません」 「ならば列聖申請しましょうか、聖ピジョンはいかがですか」 「リトル・ピジョンのほうがまだマシです」 軽口を飛ばしながら赤子の尻を拭き、手分けしておしめを替える。 「すっきりしましたね」 「だあ」 赤子を高い高いする神父を見詰め、ピジョンは反省する。例の日記の記述を思い出したのだ。 元気よく暴れる赤子を頭上に捧げ、神父が昔話を再開する。 「神様はいないかもしれない。でも天使はいる。そして男の子は天使に救われたのです」 「天使は?どんな人ですか」 「朗らかで優しくて天然で空気が読めません。少しだけ君に似ています」 「すいません」 「後半は無視してください、口が滑りました」 「俺と似てるってことは食わず嫌いしなかったんですね」 思いがけぬ指摘に困惑、次いではにかむピジョン。 ピンクゴールドの髪とセピアレッドの瞳が輝く笑顔の眩さに、神父は我知らず見とれてしまった。 胸の内に動揺を折り畳み、|腕《かいな》に抱いた赤子の澄んだ瞳を覗く。 「……天使は言いました。神様はいないかもしれないけれど、いると信じることで救われる人間は沢山いると。男の子もまた、彼女が信じるものを信じることにしたのです」 「天使」はもういないのかもしれない。 バードバベルを襲った惨劇。 火と硫黄の|禍《わざわ》いが降りかかり街がまるごと滅んだのなら、神父の天使も巻き込まれて灰燼に帰したのではないか。 故人の思い出は聖域だ。 それを蒸し返し古傷を抉るのは本意ではない。 好奇心が先駆けた詮索を恥じ、絶妙のタイミングで話を妨げた赤子に目配せで感謝しておく。 沈黙の分、ピジョンは想像を働かせる。 神父を志したのは天使への手向けか。 死者の信仰をかわりに引き継ぎ広めるのが愛情表現なのだろうか。 「愛していたのでしょうかね。よくわかりません」 ピジョンの疑問を目の色で汲み取り、初恋を忘れられない少年さながら面映ゆそうにする。 「なんでわからないんですか」 「うまく言えません。愛している、というには少々込み入った間柄でしたから。お互い面倒くさい年頃だったんですよ、なまじ最初に体を繋いでしまったせいで線引きがむずかしく……失敬、聖職者としてあるまじき発言でした」 耳たぶをほんのり染める。 ピジョンは「あ、いえ、ですよねそうですよね先生だって先生になる前はそーゆー経験してたっておかしくないですよね」と早口で取り繕うも、内心敬愛する師が非童貞だと知らされショックだ。 ……ていうか、最初に体を繋いでしまったってどんな状況だかさっぱり。レイプ?まさか、先生に限ってありえない!いやでも神父になる前は荒れてたとか……待て待てさっき言ってた忘れられない人と天使が同一人物なら娼婦を買いに行ったのか?先生が??そもそもこの人に性欲なんてあったのか、やることやってるところが想像できないぞ。 「自傷行為はいけませんよ」 「ちょっと頭蓋骨の強度を確かめていただけです」 こめかみを小突いて不敬な考えを追い出す。 弟子の奇行に一瞬不審な顔を見せるもすぐ微笑を取り戻し、正面を向く。 「彼女との出会いが転機となりました」 「大事な人だったんですね」 「……にもかかわらず、十数年たてばぼんやりとしか顔と声を思い出せません」 「え?」 「薄情だとお思いですか?でも事実です。心が冷たいからかもしれません」 「先生に限って絶対ないです」 「忘れっぽい男の子の話ですよ」 「訂正します、忘れんぼの男の子はちっとも悪くありません。天使と会ったのは随分昔でしょ、少なくとも十年以上前。だったら記憶が薄れたったおかしくないです、まめに会ってるなら別だけど。俺だって母さんの馴染みの顔いちいち覚えてません、よっぽどインパクトある人は別ですよデカ鼻ホプキンさんとか。チョコとか飴くれた人ならなんとかイケるけど名前覚えてるのだって一握りだし」 神父のおもてが複雑そうな色に染まる。 「君は遠く離れた母君や弟くんの顔をすぐ思い出せますか」 「当たり前です」 「声も?癖も?全部ですか」 「ちゃんと全部って言われたら困るけど、母さんとスワローに関係することなら大体全部忘れられません」 まっすぐ訴えるピジョンの方は見ず、神父が老いた息を吐く。 「覚えていることで救われる人間もいれば、忘れることで救われる人間もまたいるのです」 バードバベルはフェニクスに焼き滅ぼされた。 神父は一体どんな形で天使と引き裂かれたのだろうか。 嘗て神様はいないと信じることで救われた子供は、天使の面影を忘れることで救われた男へ。 「他者に死者の面影を見出すのは独りよがりな感傷にすぎず、実際は全く似てなどないのかもしれません。人は自分の信じたいものを信じるものです」 ピジョンはなんとも言えない。 彼は天使を知らない。 神父の記憶の中の天使が本当に自分と顔貌を似せているのか、判断する材料を持ってないのだ。 「記憶は絶対ではありません。どんなに大事なことでも委細漏らさず覚え続けているのは不可能です。人の心は記憶の重荷に耐えられるようにできていないから、忘却が慈悲として働くのではありませんか」 しんみりした空気を払拭、仕切り直す。 「君は弟くんの稼ぎ名を忘れていたと自分を責めますが、普段使いの愛称でないならそれは仕方ありません。私の知り合いにもいますよ、稼ぎ名を転売した猛者が」 「て、転売って?」 「ある程度知れ渡ったところで売りにだすんです、無名の賞金稼ぎは肩書に箔を付けたがりますからね」 ちなみに稼ぎ名とは賞金稼ぎの通り名のスラングだ。 「これだけ賞金稼ぎがいるのに、稼ぎ名かぶりがないのを不思議に思いませんか」 「早いもの勝ちでは?」 「とんでもない、稼ぎ名かぶりが起きたら話し合いで譲るか力ずくで奪うかの二択が業界の常識です。ライオンに虎、狼に鷹、強くてメジャーなものほど争奪戦は激しいでしょうね。まれに自分の稼ぎ名をオークションに掛けるものもいます」 「実体がないのに?」 「壊れて消える物より形なき価値を重んじて。虚栄心は人の業、名誉欲は人の|性《さが》。賞金首関連アイテムほど映えないせいで大っぴらに騒がれてはおりませんが……ということで、実質的には三択です。お恥ずかしながら勘定を間違えました」 神父が三本目の指を折る。 話し合いで譲るか力ずくで奪うか売って儲けるか。なるほどわかりやすい、この世は弱肉強食だ。 「そ、そうだったんだ……」 「知らなくても無理ありません」 「ですよね、鳩なんて誰も欲しがらないですもんね」 「私は可愛くて好きですよ」 「慰めてくれなくていいです」 ピジョンは拗ねて卑下する。 スワローも俺の知らない所で稼ぎ名を賭けた決闘を挑まれているのだろうか。 もしアイツが俺と分かち合った名前を、否、俺とアイツと母さんの三位一体の誓いを守るために挑戦者を下し続けているのだとしたら…… 「稼ぎ名をその程度に考えている輩も多いということです」 「でもスワローは」 「弟さんはちがうでしょうね」 「…………はい」 「一度口に出してしまった過ちは消えません、ですが君は十分後悔している。真実の懺悔には赦しが与えられるべきです」 「もうまちがえません。絶対に」 ピジョンはスワローをやっかんだ。 バンチにひっぱりだこのスワローを羨んで、あてこすった。 「……自分でも気付かないうちに嫉妬が漏れたのかもしれません」 お前にはストレイ・スワローの方がお似合いだ。 一人でもやってけるんだから。 俺はお荷物なんだから。 大空を自由自在に飛んでくツバメに、グズでノロマな鳩のおまけはいらない。 普段は意識しないように努め半ば成功している、ピジョンの心の底に澱む劣等感が、本来間違えるはずのない名前を|過《あやま》たせたのなら…… ぐっと拳を握り込み、意志を鍛え上げた眼差しで誓いを立てる。 「俺、もっと頑張ります。今まで以上にすごい頑張って、音速でかっとぶヤング・スワローに追い付きます」 「その意気ですよ」 「すいません、遅くなりました」 赤子の母親が駆けてくる。 「ごめんなさい、大変だったでしょ」 「「いえ、とってもいい子でしたよ」」 ピジョンと神父の声が綺麗に揃った。 同時に顔を見合わせ照れ笑いする師弟が面白いのか、母親に抱きとられた赤子がきゃっきゃっ喜ぶ。 「本当に助かりました……ほら、神父さまとお弟子さんにお別れは?」 「あだー」 「またね」 「お達者で。余談ですがうちの礼拝堂にはおしめを替えるのに大変理想的な長椅子がありますので、洗礼の儀がお済みでないならぜひご一考を」 母親に促され握りこぶしを掲げる赤子に、ピジョンと神父は並んで手を振る。 「お弟子さんですって」 ゆっくり手をおろしながらくすぐったげに呟き、神父の目を見て誇らしげな笑みを結ぶピジョン。 見返す眼差しがまどやかに凪ぎ、糸目の奥の|紫の瞳《パープルアイ》に父性が滲む。 「なんなら新しいカソックを誂えますよ、シスターたちが喜んで採寸してくれます」 「勘弁してください」 「だいぶ刷けましたね。そろそろ撤収しましょうか」 「了解しました、シスターたちに言ってきます」 「シスターゼシカに良いお土産話ができましたね」 「コートの染みの事はナイショにしててください」 気付けば広場の人出は減っていた。 シスターたちへ報告へ行くピジョンを見送り、微笑みを薄めた神父は手の中のロザリオを見下ろす。 「……愛してるなんて言えませんよ」 守れもしなかったのに。

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