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Children at night

ランプの儚い光が床の木目と壁を照らす。 床板の軋みをたてぬよう爪先から全体へ、慎重に体重を移す。 手元に持ったランプが投げかける淡い光は、行く手に押し被さる暗闇を払いのけるにはあまりに頼りない。壁や床の不安定な影の揺らぎがかえって不気味だ。 やがて質素な扉が見えてくる。 抜き足差し足忍び足、ゆっくりとノブを捻る。 扉の隙間から差し入れた一条の光が壁をなめ、温かみあるオレンジの帯が床を刷く。 「入るよ」 軽いノックで断り薄暗い部屋の中へ。 扉の向こうにはベッドを二列詰めこんだ大部屋が広がっていた。大抵の子どもは熟睡している。 大人しくベッドにおさまってる子は稀で、殆どが毛布をはだけて寝相の悪さを競っているのが微笑ましい。夢の中でもわんぱく坊主とおてんば娘だ。 「遊びの続きもほどほどにね」 無邪気な寝顔に自然と頬が緩む。昼間はいたずら盛りの小悪魔だけど、寝ている時は天使だ。 部屋の中は片付いてる。 橙の光を投じるランプを掲げて見回せば、手前のベッドに小さな影が蹲っている。 名前は……|诗涵《シーハン》。 「どうしたの。眠れない?」 「……」 「怖い夢見たとか」 「……」 俯き加減に黙りこくる。図星だ。顔に鱗のある幼い少女は、不安げな面持ちでこっちを見詰めている。大粒の涙で潤んだ琥珀の瞳が光を反射、神経質な瞬きをくりかえす。 見回りの途中に立ち寄ってよかった。俺はベッドの端を指す。 「座ってもいい?」 こくん、顎先だけで頷く。お許しがでたので腰掛け、サイドテーブルにランプをおく。 純白のパジャマを着たシーハンは、恥ずかしそうに俯いて毛布をいじくる。 大人が来たことに驚いて嗚咽が引っ込んだのか、シーハンはおどおどと俺の横顔を盗み見、ベッドの端っこににじりよって席を譲ってくれる。 気まずい沈黙が漂うなか、俺はリラックスした風情で腰掛け、膝の上で組んだ手をひねくりまわす。 「……どんな夢見たか聞かないの?」 「聞いた方がいい?」 シーハンが小さく首を振る。 俺は少し笑い、なんでもないことのように続ける。 「話したくないなら無理に言わなくていい」 人に言えない夢もある。 俺はふと思い出す。 「シーハンは蛇いちごが好きなの?」 「……うん。なんで?」 「昼間中庭で摘んでたろ?」 「……たくさんなってたから。鳥さんも食べにくるよ、甘酸っぱくておいしいの。時々酸っぱいのもあるけど」 「見分け方わかる?」 「食べてみなきゃわかんない」 シーハンが横に首を振り、くすりと微笑む。 「ハリーがね、食べ過ぎてお腹壊したことあるよ。食いしん坊なの」 「あはは、そうなんだ」 「欲張ってひとりじめするからだよ。嘘吐いたってすぐバレるんだから、口のまわり真っ赤だもん。鳥さんのぶん残しといてあげてっておねがいしたのに」 「育ち盛りだからね。オヤツだけじゃ足りないだろ?俺もむかしはそうだったよ、お腹がすくと落ちてるもの拾って食べた」 「豆?」 「鳩だからね」 「石?」 「歯が欠けるね」 「何が好きなの?」 「なんでも。好き嫌いはしない主義。あ、でも炭酸は苦手かな……舌がピリピリする」 「私も」 「じゃあ仲間だ」 唇の前に人さし指をたて、身を乗り出す。 「俺が炭酸ニガテって、みんなには秘密だよ」 「なんで?」 「大の男がコーラも飲めないなんてかっこ悪いだろ」 「悪くないよ全然、私もたまねぎニガテだもん」 一生懸命庇ってくれる姿に心温まる。 「ありがとう。でも、他のみんなには黙っといてくれると嬉しいかな」 「どうして?コーラ飲めなくてもみんな嫌いになったりしないよ」 「大人には建前があるのさ」 「タテマエって?」 「うーん……『こんな自分になりたい』って理想像、かな」 「私がお嫁さんになりたいっていうのとおなじ?」 「そうそう」 シーハンの眼がふと翳り、パジャマの袖をためらいがちに捲る。 「……これが消えてほしいっていうのとおなじ?」 外気にさらされた右手首は、薄緑の鱗に覆われている。ミュータントの血が入った証。 痛みに胸を刺し貫かれ、言葉をなくす。 ミュータントは……特に爬虫類の特徴を持ったミュータントは、その異端な外見から忌み嫌われる。まだほんの子どものシーハンですら、自分の血筋にコンプレックスを持っている。 頭で考えるより早く体が動いていた。 引っ込められる前にと素早く手を伸ばし、シーハンの右手を検める。シーハンの顔に驚きと怯えが走り、表情が凍り付く。俺は静かに聞く。 「なんで消えてほしいの」 「……気持ち悪いもん」 口にした途端抑え込んだ感情がこみ上げてきたのか、悔しげに歪んだ瞳がみるみる潤み、消え入るような声をしぼりだす。 「……消えてくれなきゃ、お嫁さんになれないもん」 「だれがそんなこと言ったの」 「ハリー」 シーハンの右手首の鱗をやさしくなで、呟く。 「綺麗だよ。緑色にきらきら光って宝石みたい」 「…………嘘」 「本当。えーと、ちょっと待って」 おもむろに腰を上げて本棚へ急ぎ、分厚い図鑑を手にもどってくる。 セロテープで補強されたページをめくり、目的の写真をさがす。 緑の鉱石の項目で手をとめ、シーハンによく見えるようさしだす。 「ごらん」 「……緑の石?」 「鉱石だよ。緑柱石、孔雀石、透閃石、緑簾石、いろいろある」 図鑑には鉱石のカラー写真がたくさん載っていた。 なかでも滑らかで深みのある光沢帯びた翠の鉱石を指し、ランプの暖色にきらめくシーハンの鱗と並べて比べてみせる。 「よく似てるだろ?」 「……こんな綺麗じゃない。ぴかぴか光ってないもん」 「俺は似てると思うけどな。お日さまの下でぴかぴか光ってすっごく綺麗だ」 隠す必要なんかないくらいに。 シーハンに寄り添いページをめくる。 「この鉱石は|緑蚤白石《グリーンオパール》……通称ドラゴンアイってよばれてる」 「ドラゴン?|蛇《スネイク》じゃないの?」 「蛇がもっと強く大きくなったのがドラゴンさ、火を吐いて空も飛べる。ほら、ここに説明が書いてある。古代の人々の間ではこの石に魔力があると信じられ、その輝きから希望を象徴して幸せを招くお守りとして崇拝されてきたんだって。みんなが欲しがる幸運の石だ」 「私の鱗もドラゴンアイでできてるの?」 「シーハンはドラゴンガールだね」 「ドラゴンてどんな生き物?」 シーハンが興味津々身を乗り出し、俺は「えーと……口で説明するのは難しいな、いま描く」と、チェストの抽斗からメモ用紙とペンを取り出す。 卓上のメモ用紙にくねくね曲がる胴体を描き、たてがみと角を生やす。 シーハンがメモをガン見、急速に目が死んで表情が漂白されていく。 「……ミミズ?」 「え?ドラゴンだよ」 「ドラゴンておっきいミミズさん?」 「どっちかっていうとでっかい蛇に近い。でも翼が生えてて空を飛ぶんだ、東洋じゃ神聖な生き物って言われてる。顎の下に逆鱗っていう逆さの鱗があって、ここをさわられるとすごい怒る」 メモを見せて熱心に説明すれば、シーハンがおそるおそる自らの下顎にさわって鱗の有無を確かめる。 核心部分がいまいち伝わらないのがもどかしく、再び本棚に飛んで行き絵本を持参。 「これがドラゴン」 見開きに跨って描かれた勇ましいドラゴンを見て、シーハンの顔が紅潮する。 「かっこいい……」 「だろ?」 巨大な翼をはばたかせ空飛ぶドラゴンの挿絵にすっかり魅せられたシーハンの人さし指を握り、エメラルドグリーンの鱗を一枚一枚なぞっていく。 「Strong、Clever、Brave、Cool」 強く、賢く、勇敢で、かっこいい。 「君のチャームポイントだよ。嫌わないであげて」 「……消えなくてもお嫁さんになれる?」 「世界一のね」 安堵して表情を緩めるシーハンにぐっと近付き、わざと声を落とす。 「コーラの件はくれぐれも内密に」 「……わかった、秘密ね。私も……ハリーがお腹壊したってバラしたの、言っちゃだめだよ」 「じゃあ共犯だ」 絵本を閉じたシーハンがにっこり笑って頷き、小指同士を絡める。 名前が出たことに反応したのか、三台向こうのベッドで高鼾をかくハリーのしっぽが鉤字に曲がり、顔を見合わせて吹きだす。 「さあ、もう遅いからおやすみ」 「……行っちゃうの?」 「寝るまでいるよ、安心して」 やがて安らかな寝息を立てはじめたのを確認後、腰を浮かそうとして…… 「|妈妈《マーマー》」 中途半端な姿勢で固まる。 眠りに落ちたシーハンの目尻を一筋涙が伝い枕をぬらす。 人さし指でその涙をぬぐい、ずれた毛布を引き上げる。 ランプを消そうと手を伸ばし、やっぱりやめる。 誰だって暗闇の中で目覚めるのは怖いから。 ランプの灯を絞り、最後にもう一度シーハンの頭をなでて静かに立ち去る。序でに寝相が悪い子の毛布を掛け直し、蹴り出された脚をベッドにしまって廊下へ出、後ろ手にドアを閉ざす。 「…………はあ」 自然とため息が出る。 子どもは好きだ。だからこそ、何もできないのが辛い。ここは好きだけど、時々いたたまれなくなる。 しばらく扉によりかかって落ち込んでいると、磨き抜かれた床板を軋ませて足音が近付いてくる。 ランプの優しい光に導かれて顔を上げれば、よく見慣れた人がいた。 「どうかしたんですか?」 「先生……」 燃えるような赤毛を撫で付けた、年齢不詳の柔和な顔立ち。深夜だというのに折り目正しくカソックに身を包み、心配そうにこっちを見詰めている。 「先生こそどうして……見回りですか」 「まあそんなところです。眠れないので子どもたちの様子を見てこようかと……先越されちゃいましたかね?本日の当直はシスターリリーのはずですが」 「シスターリリーは体調が優れないので俺が代わったんです。最近寝付きが悪いしちょうどいいかなって……明日の準備もあるし」 「シスターたちに信頼されてるんですね」 「そんなことは……貴重な男手なんで頼ってもらえたら嬉しいですけど」 見回りの交代は俺から言い出した案件だ。 本来当直のシスターリリーは風邪をひいて休んでるし、他のシスターも礼拝で朝が早い。 スナイパーライフルの手入れやなんやかんやで夜更かししてる俺なら子どもたちの夜泣きやおねしょにも迅速に対処できるし、何かあればシスターを起こしに行けばいい。 先生が廊下に立ち、ちらりと扉を一瞥する。 「子どもたちの様子はどうでした?何か変わったことは」 「シーハンがうなされてたけど今は落ち着きました」 「それはよかった」 先生はシーハンの過去を知ってる。彼女が見た悪い夢の内容も知ってるかもしれない。 でも、本人をさしおいてそれを聞くのは気が咎める。 俺の内心を見透かすようにランプを掲げ、先生がおっとり微笑む。 「立ち話もなんですし、よければ私の部屋にきませんか。お茶でもご馳走しますよ」 「いいんですか?」 断る理由はない。 暗い廊下を先生に付いて歩き、部屋に招かれる。先生の部屋に入るのは初めてじゃないけど、夜に訪ねるのは初めてで緊張する。質素な本棚と机、寝具とクローゼットの他は何もない部屋だ。 「どうぞお座りなさい」 「お言葉に甘えて……」 椅子を引いて座る。先生が白磁のティーポットからカップに紅茶を注ぎ、俺にさしだす。 「いただきます」 ふーふーと吐息を吹きかけて冷まし、一口嚥下。ちょっとぬるいけどおいしい。先生は俺の対面に腰かけ、カップを両手で包んでいる。 「ここでの生活には慣れましたか」 「はい、なんとか……最初は戸惑いましたけど」 「子どもの夜泣きとか」 図星だ。 返事に迷って数呼吸黙れば、先生が静かな口調で説明しだす。 「……ご存知の通り、この院ではほかの施設に断られたミュータントの子を積極的に受け入れてます。彼らは想像を絶する過酷な体験をしている。親に捨てられた子はもちろん、虐待を受けた子や売買された子もいる」 「売買?」 「人身売買です」 糸目の奥の眼差しが透明になり、口元だけの微笑がやや薄らぐ。 「ミュータントの子は高く売れる。アンデッドエンドの常識です」 「そんな……」 カップで手をぬくめて動揺する俺に対し、泰然と落ち着き払った先生がしみじみ呟く。 「君は実によくやってくれています。修行以外の面でも、その献身には頭が下がる思いです」 「居候として当然のことをやってるだけです。年下の面倒見るのは慣れてるし」 「弟さん、ですか」 「それもだけど、小遣い稼ぎに子守りしてたんです。こっちに来て暫くは家賃払うだけでてんてこまいで、ご近所さんの赤ん坊のオムツを代えて生活費の足しに……」 「子どもが好きなんですね」 「はい」 即答した。赤ん坊の世話は大変だったけど今じゃいい思い出だ。 背中を濡らされた当時を微笑んで懐かしんでいたら、顔に視線を感じて目を上げる。 正面の先生が、カップに口を付けてまじまじと俺を見る。 「目の下に隈があります。眠れてないんですか」 「……ええと」 ごまかすか正直にいうか一瞬迷うも、先生に嘘は通じないと悟り素直に答える。 「……はい」 「日中しごきすぎましたかね。体が疲れすぎると頭が冴えてしまいますし」 「先生のせいじゃありません。おかげ様でスナイパーライフルの組み立てもマスターしたし、ヘッドショットだって十中八九こなせるようになりました。感謝してるんです本当に、こんな俺を鍛えてくれて」 「『こんな』とは」 「え?」 「『こんな俺』とはどんな君ですか」 「こんな……未熟で軟弱で馬鹿で世間知らずで、青二才な俺を……」 自分で言ってて、情けなさに語尾が萎む。 スワローの言う通り、俺は馬鹿で世間知らずで、アイツに比べたらいやになるほど凡人だ。 今のところ唯一の取り柄の狙撃だって、その他大勢の同業者に比べ突出した腕前とはとてもいえず、せいぜいが少しマシな程度だ。 のぼせあがっていた。 思い上がっていた。 自分にはこれしかないなんて、その程度の分際でどの口で言えたんだ? 弱々しい自嘲の笑みを浮かべてカップの中を覗き込む。 「……賞金稼ぎがたんなる憧れだった頃はおめでたい勘違いをしていられたんです。狙撃の腕前だけならだれにも負けないなんて……アンデッドエンドに出てきて思い知りしました。世の中すごい人がいっぱいいる、俺より優秀な狙撃手なんてそこらじゅうごろごろいる」 その筆頭が目の前のこの人だ。 「ホントのところ、まだスタートラインにも立ってなかった」 スリングショットが多少できるから、それがなんだ? 手作りのスリングショットで小石を飛ばすのと、スナイパーライフルで標的を撃ち抜くのは全く別物だ。スリングショットに引き金はない、弾詰まりもない、スコープもない。 当たり前だ、アレは人を殺す道具じゃない。 「こんな俺……、」 人を殺す覚悟もない俺が賞金稼ぎとしてやってけるのか。 スワローはとっくに覚悟できてるのに。 「『そんな君』だからこそ弟子にとったんですよ」 先生が椅子を引き、本棚から一冊の雑誌をとって戻ってくる。 「弟さんが載ってました。今年度のルーキー部門トップだそうです」 卓上に開かれたページには、スワローのピンボケ写真がでかでかと掲載されていた。シャッターを切る瞬間にカメラを押しやったらしい。 何も言わず雑誌を借り受け目を通す。 「…………俺には一生無縁だな、きっと」 バンチに載るなんて夢のまた夢だ。 「バンチにスクープされたんだからもうちょい愛想よくすればいいのに。カメラ弁償させられてないかな」 「写真は苦手で?」 「じっとしてるのが苦手なんです、親元出る時に撮った写真も一人だけそっぽ向いてます」 「それは見てみたいですね」 「大人しく撮らせてくれただけ上出来かな、母さんのおねだりには弱いから」 「いるならお譲りしますが」 「間に合ってます」 「というと?」 いたずらっぽく片眉をはねあげる先生に「しまった」と悔やむも遅い。 雑誌を向こうに押しやってから突っ伏して頭を抱え、再び引き寄せてしぶしぶ白状する。 「……アイツの記事は一枚残らずとってあります」 スワローの名前が出た記事は、どんなに小さくてもスクラップしてある。 先生が鷹揚に微笑み、促す。 「会いに行くなら止めませんよ」 「今はいいです」 未練を断ち切るように雑誌を閉じて返却、深く眼を閉じて心のさざなみを均す。 スワローに会いたい気持ちを見返したい気持ちで封じ込め、口端を不敵に上げる。 椅子を引いて立った拍子にちゃらりとドッグタグの鎖が鳴り、それを片手で掴んで力強く宣言。 「会いに行くのは自分へのご褒美にとっとくんです。その方が燃えるでしょ?」 先生が一瞬あぜんとするも、すぐに俯いて額を覆い、こらえきれずに笑いだす。 「まったく君ときたら……見かけによらず負けず嫌いといいますか根性あるといいますか」 「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫、今が頑張り時だってわかってるから」 「一応言っときますけど、|砂男《サンドマン》が仕事をサボった夜は遠慮せず頼ってくれていいんですよ。夜行性ですからね、私は。茶飲み話は大歓迎です」 孤児院の廊下に甲高い泣き声が響く。また悪い夢を見て飛び起きた子がいるらしい。 先生がランプを持って立ち上がり、俺は矢も楯もたまらず懇願する。 「一緒に行きます」 「もう遅いから君は部屋に」 「行きます」 「……しかたない子ですね」 根負けした先生が柔らかく苦笑いし、ランプに仄明るく照らされた俺の頬へ手を添える。 「では、悪い夢を追い払いにいきますか」 「まかせてください」 俺はいまでも夢を見る。 その夢を打ち明けるにはとても勇気がいる。 どんなに信頼する相手にも気軽に話せないたぐいの夢……傷付くのが俺だけなら別にいい、傷付くのは慣れっこだ。 でも、この夢はそうじゃない。 だから言えない。 俺は先生が大好きだから、同じく大好きな母さんのことを、夢の中で犯され泣き叫ぶ|被害者《ヴィクテム》として話したくない。 母さんが娼婦の仕事にプライドを持ってるなら尚更、俺が勝手に見る夢の中で誰とも知れぬ男に犯されるのは不本意なはずで、その事を他人にばらされたら傷付くはず。 だから俺は、母さんの名誉のために口を噤む。 ……心が弱っているときは誘惑に負けてしまいそうになるけれど。 先生がくれる優しさによろめいて、人としての誠意にほだされて、すがりたくなってしまうけれど。 頬を包む手のぬくもりに弱気がぶり返し、失礼にならない程度の強さで剥がす。 「……俺はもう大人だよ、先生」 「これは失礼。気に障りましたか」 「ううん……いいえ。先生にならしかたない子って叱ってもらうのも悪くないかな」 「どうしてか聞いても?」 「先生の『しかたない子』はなんか……許されてる感じがする」 母さんと同じで。 俺が帰りたがってる、懐かしいぬくもりを思い出させるから。 先生のぬくもりを名残惜しげに手放し、夜の静寂の中、俺たちを待ってる子どものもとへ急ぐ。 俺たちは夜の子どもだ。

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