1 / 6

第1話

Prologue 「いいかい、バラウル。おまえの役目は、ここアレスを豊かにすることにある。それは神から与えられた使命でもあり、我々の生きる意義でもある。それを逸したとき、おまえはその身を邪悪に落とすことになるだろう。努々、忘れることのないように」  だんだんと弱っていく声に、バラウルは静かに頷く。 「心得ている」  彼らの身体は金色の鱗に覆われており、尾は長く、その背には巨大な翼が生えていた。瞳はルビーのごとく赤く輝き、鰐のような顎門からは鋭利な牙が覗いている。  ――霊脈イオナドの神竜。  人間たちから、彼らはそう呼ばれている。 「もし身体に異変があるときは、必ず番を見つけなさい。きっとその番はおまえを癒し、さらなる力をおまえに与えるはずだ。そして何より、……おまえは愛を知りなさい」 「愛?」  長い首を傾げたバラウルに、臥せった竜――ファヴニルはゆっくりと、だが力強く答える。 「そうだ。それがあればこの地も今よりさらに豊かになるだろう。そして……」  息を吸ったかと思うと、ファヴニルの口元が、ふっと緩んだ。これが最期の言葉になるだろうと察し、バラウルは聞き洩らさないよう、耳を欹てた。 「――おまえもきっと幸せな生をまっとうできる」  掠れる声でそう言い終えたあと、ファヴニルの大きな黄金の身体は、一度大きく震えて、くったりと動かなくなった。  やがて、光の粒がファヴニルを覆い、すうっと山の空気に溶けていくように、彼の身体ごと霧散した。 「……ファヴニル」  小さくつぶやいた名前に、もう二度と返事はない。 *** 「おまえももうすぐ十八になるな」  しわがれた声で、目のまえの老人が言った。しかし決して目が合うことはなく、視線はクロウの右斜め下に注がれている。 「はい。水の月で、やっと十八です」  村の人間は、普段クロウをいないものとして扱っている。目が合うと呪われると忌み嫌う者までいて、だからだれかと話すのは、一年前に母親が亡くなって以来だ。  彼はこのガルズ村の長で、名をヴィシといった。長らしく、村に伝わる赤と金色の刺繍が施された絹の伝統衣装を着ており、首や腕にはジャラジャラと宝石が埋め込まれた装飾品を着けている。だが決して派手な印象はなく、彼の周りには静かな威厳が満ちていた。  一方のクロウは、未晒し綿の長丈の簡素な上衣と、チルと呼ばれる股下のゆったりとした黒色の下衣を着ている。これが一般的な村の服の形だが、普通はこれに各々の家庭で引き継がれる刺繍がある。刺繍も何もないクロウの服はとりわけ地味だ。  男であるクロウはやらなくていいからと、刺繍のやり方は教わっていない。この家の刺繍は、両親の代で途絶えてしまった。 「頭痛や倦怠感はあるか?」  ヴィシが訊いた。頭痛のことは母親にしか話していなかったが、どうしてヴィシが知っているのだろう。母親がだれかに話したのだろうか。 「頭痛は、あります」  疑問に思いながらも、クロウは素直に頷いた。するとヴィシは、重そうに垂れ下がったまぶたを持ち上げ、ぎょろりと青色の目でクロウを見た。  久しぶりに、人間と目が合う。それに怯んでクロウが俯くと、そのつむじにヴィシの声が降ってくる。 「……呪われたおまえがようやくこの村の役に立つときが来たようだ」 「え……?」  どういう意味だ。顔を上げたクロウをじっと見つめ、ヴィシが小枝のような指を差して、言う。 「喜べ、クロウ。おまえはイオナドの神竜様の生贄としてたった今選ばれた」 「いけ、にえ……?」  その言葉の意味を理解できず瞬きを繰り返すクロウを置いて、ヴィシはつらつらと話を進める。  クロウたちの住むこのアレス地方には、魔力が溢れ出す霊脈がある。それがアレスの中心にあるイオナド山の頂だ。特に、山々に隔絶された北の麓にあるガルズ村には山頂から溢れた魔力が流れ込みやすく、その恩恵を受け、村に生まれた人間は成長とともに魔法が使えるようになる。そしてそんな神秘の地には、古より脈々と受け継がれる伝承があった。  霊脈イオナドの神竜についての話だ。  イオナド山には、昔から守り神の竜がいる。その黄金色の神竜は、空を操り雨を降らせ、土地を豊かにし、人々に恵みをもたらす。だが数百年に一度、突然怒り狂い、大水を降らせ土地をめちゃくちゃにするという。そこでガルズ村の人々は神竜の怒りを収めるために山頂に生贄を捧げた。その結果、神竜は正気に戻り、アレスには再び豊かさがもたらされた。  ……ここまでは、この村に住む者ならだれでも知っている話だ。小さい頃、親の言うことを聞かない子どもはよく「神竜様に食べさせるぞ」と脅されたものだ。かく言うクロウも、勝手に家から出ようとしては、父によくそう言われて叱られた。  そして最近、山の天気が乱れており、人々が皆口をそろえて「神竜様がお怒りだ」と言っているのも、知っている。  つまりそれを収めるための生贄に、クロウが選ばれたというわけか。 「神竜様は、本当にいらっしゃるのですか?」  クロウが訊くと、ヴィシは深く頷いた。 「実在する。わしはこの目で見たことがある。大岩ほどの大きさで、金色の鱗の竜だ。その目は紅玉のごとく赤く、まさに神のようだった」  その姿を思い出しているのか、ヴィシの身体がぶるりと震えた。  そして、この伝承には、代々村の長にしか教えられていない、とある秘密があるという。  ヴィシは「決して口外してはならぬ」と前置きして、クロウに告げた。 「神竜様のお怒りを鎮めるための生贄には、条件があるのだ」 「条件……?」  首を傾げたクロウに、ヴィシは言う。 「十八の歳になる頃まで純潔であること、そしてもうひとつは、身体が大人になるのに合わせて、頭痛や倦怠感などの不調が現れる者だ」 「あ……」  だから先程、頭痛があるかと訊いたのか。 「水の月の末、おまえはアレスの中心地、イオナド山の頂に捧げられる。それまでの時間、悔いのないよう生きよ」  それではクロウに死ねと言っているようなものだ。だが、従わなくてはならないことも、クロウは重々承知していた。クロウを庇ってくれる人間は、この村にはもういない。 「……はい。御心のままに」  クロウは頭を下げると、目のまえが真っ暗になっていくのを感じながら、静かに唇を噛みしめた。  呪われた子。  それはクロウが生まれてすぐに、大人たちからつけられた呼び名だった。  ガルズ村に住む人々の多くは、美しい銀色の髪に青い瞳をしている。クロウの両親も例に漏れず、銀髪に青い瞳だった。そして三歳頃から、霊脈の魔力を得て、生活に必要な火や水、風の魔法をだれもが使えるようになる。  だが、そんなふたりの血を受け継いだはずなのに、クロウは真っ黒な髪に、それと同じ夜空のような黒い瞳を持って生まれてきた。  凶兆だ、とだれもが口をそろえて言った。  しかも三歳を過ぎても、クロウは魔法を使えなかった。  母は不貞を疑われ、はじめは母を庇っていた父はやがて酒に溺れた。物心ついたときにはクロウはほとんど家から出ない生活を強いられていて、窓から眺める世界がすべてだった。  やっと魔法が使えるようになったのは、六歳を過ぎてからだ。しかし、皆が使える魔法は一切使えず、クロウにできたのは、ちょっとした怪我を治す、治癒の魔法だけだった。  父が仕事中の崩落事故で亡くなったあとしばらくして、ようやく母はクロウが村を歩き回るのを許してくれた。  しかし、クロウが外に出て人に話しかけようとしても、だれもが目を逸らし、クロウをいないものとして扱った。それがなぜなのか、理解するのにそう時間はかからなかった。  同じ年頃の子どもたちが、クロウに向かって石を投げながら、「呪われた黒髪の出来損ないだ」と教えてくれたからだ。

ともだちにシェアしよう!