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第6話

 気づくと、頭痛はきれいに消えていた。クロウも熱いスープを啜り、ほっと息を吐く。 「……役に立ちたいと言ったな」  バラウルが手に持ったスープを見つめながら訊いた。 「はい。僕にできることがあればなんでもします。それほど多くはできないかもしれませんが……」  役目をくれるのなら、まっとうしたい。彼のために、尽くしたい。  これほどまでにだれかの命令を渇望するのは、初めてだ。相手が神竜だからだろうか。それともまた別の理由があるのだろうか。自分にはわからない。  そわそわと身体中の細胞が騒ぎ出し、彼の命を待つ。スープの皿を持つ手に、ぎゅっと力が入る。  もう一口スープを飲んでから、バラウルは静かに言った。 「これから毎日、俺の分も人間の食事を作ってくれないか」  意外なリクエストに、クロウは「え?」と瞬きを繰り返した。 「そんなことでお怒りが収まるんですか?」 「人間の食事は久しぶりだが、悪くないと思ってな。自分で作るのは面倒でも、おまえが作るのなら大歓迎だ。……しかし、俺の怒りがどうとか言っているが、そもそも俺ははじめから怒ってなどいないぞ」 「ええっ?」  今度は明確に、クロウは目を見開いて驚いた。 「だったら、最近の天候の悪さは何なんですか? まさか、バラウル様とは無関係で、別の神様が怒っていらっしゃるとか……?」  だが確かに、先程の雷雨はバラウルの感情と連動していたように思う。起きたら目のまえに不審者(クロウのことだ)がいて、警戒するのと同時に土砂降りになった。彼が神竜だとわかった今、あれが偶然だとはとても言えない。 「天候の乱れの原因は俺だ。だが、怒りのせいではない」  バラウルの表情が、わずかに曇った。 「別の原因が……? まさか、バラウル様に怪我を負わせた者と闘っておられる、とか?」  大きな爪痕を思い出し、クロウは顔をしかめて周囲を警戒する。今はなんの気配もないが、突然襲ってきたりするのだろうか。  しかし、「そんなものはいない」とバラウルはきっぱりと否定した。 「あの傷は自分でつけたものだ」 「そんな、どうして」  あれほどの傷、自分でつけるなど狂気の沙汰だ。人間であれば、下手をしたら腕が一生使いものにならなくなってしまうほどのものだった。 「久々に気分のいい日だったから街に下りようと思っていたら、また天操が狂って大雨を降らせそうになってな。別のことに意識を逸らそうとした結果があれだ」 「だからあんなところで気絶していたんですね」  はあ、とクロウがため息をつくと、バラウルは不服そうに顔を歪めた。 「気絶はしていない。休んでいただけだ」  クロウがほんの傍まで近寄ったのにも気づかなかったのに? と言いかけて、クロウはやめた。言ったところで認めはしないだろう。その代わり、じとっとした目で、クロウは言った。 「もう自分で自分を傷つけるなんてこと、やめてくださいね」  そしてふと、この説教じみた言葉に懐かしさを覚えた。もう一年以上前だ。無理をして働きに出ようとする母に、クロウはよく言っていた。  ――具合が悪いんだったら休んでなよ、母さん。無理は禁物だよ。  母が働かなければ家計は立ちゆかないというのに、つらいのを我慢して「大丈夫よ」と気丈に笑う母に、傲慢にも自分は説教をしていた。家事でしか母を支えられなかったという情けなさが、胸に蘇る。  途端、クロウの顔から表情が抜け落ちた。それを不審に思ったのか、バラウルが顔を覗き込んでくる。端整な顔が急に目のまえに迫り、クロウは「わっ」と驚きに声を上げた。 「おまえがするなと言うのなら、もうしない」  バラウルが言い、小指を差し出した。どういう意味があるのだろうとクロウが戸惑っていると、同じように小指を出すように彼は言った。そして小指同士を絡めたかと思えば、「指切りだ」と繋いだまま上下に手を振る。 「人間は、約束事をするとき、こうすると聞いた」 「指切り……」  クロウの知らない行為だ。もしかしたらアレスの文化ではないのかもしれない。花火といい指切りといい、バラウルはいろいろなことを知っている。確かに、彼の言うとおり外の世界は思ったよりも広いのかもしれないなと、少しだけ実感する。 「じゃあ僕も、約束。明日からバラウル様のお食事を、誠心誠意作ります」 「そうしてくれ」  真面目な顔で頷いた彼に、クロウの口角がふっと解れて持ち上がる。それを見て、バラウルの表情も緩んだ。 「とにかく、原因は怒りではないから安心しろ。それに本当はおまえが何かしなくたっている――……」  そこまで言って、バラウルは突然はっとしたように口を噤んだ。 「……?」  続きは言わないのかとクロウは首を傾けた。だが、バラウルはしばし考え込み、結局何も言わないまま、スープの残りを口にした。 「……食べたいものがあれば、なんでも言ってくださいね」  あまりに親しみやすかったため、ついつい気安げに話していたが、ただの人間である自分が、神竜である彼にあれこれ質問するのは失礼だったと、今さらのようにクロウは反省した。自分にだって、人に話したくないことのひとつやふたつ、ある。  彼が言いたいなら聞くが、言わないのなら追及しない。  その方針は守ろうと、クロウはそっと心に決めた。 「いろいろ食べたことはあっても、料理の名前も作り方もろくに知らないからな。作るものはおまえに任せる」 「がんばります」 「料理に必要なものがあれば、俺が用意してやる」 「ありがとうございます」  その後、クロウの家では何を使っていたか、どういう暮らしをしていたか、バラウルは聞きたがった。人間に興味があるが、天操がうまくいかなくなったここ数年は山に引き籠もっていたため、会話する機会がなかったそうだ。祠に置いてあった木彫りの人形なども、供え物ではなく、バラウルがいろいろな国を回って集めてきたものらしい。 「人間は、面白い。ほかの動物と違ってかなり知恵がある。こうして俺と会話できるくらいにな」 「言葉が通じる神様で本当によかったです」 「おまえたちの言葉は生まれてすぐにファヴニルが教えてくれた」 「ファヴニル?」  知らない名前に、クロウは問い返した。 「先代の神竜だ。数十年前に寿命が来て今はもういないが」 「そうだったんですか……。お悔やみ申し上げます」 「神竜と呼ばれてはいても、神ではないからな。神託を得た竜が神竜だ」  神竜に寿命が来るものとは知らなかった。永遠の時を生きるのだと勝手に思い込んでいたが、バラウルも自分と同じように死という別れを経験しているのだと思うと、胸が痛んだ。 「数十年ひとりきりだなんて、考えただけでもつらいです」  もしかしたら、自分に待っていた未来だったかもしれないのだ。こうして生贄にされたことにより、バラウルという神竜に仕えることができたが、もしあのまま生きていれば、やがて心が完全に死んでいただろう。 「僕、バラウル様のところに来られて幸運です。これからはバラウル様が寂しくないように、話し相手でもなんにでもなりますから」  畏れ多くも、しかしクロウはバラウルに親近感を抱きはじめていた。ぐっと両手のこぶしを握り、胸のまえに掲げる。 「おまえは本当に変わったやつだな」  バラウルが苦笑したのに、クロウは「そうでしょうか」と少しだけ気後れしてこぶしを下ろす。 「いい意味で、だ。人間は竜を見ると大抵は恐がるか、敵意を剥き出しにするものだからな。だからおまえが俺を見て逃げなかったこと、……俺は嬉しかった」  はっきりとわかりやすく肯定され、クロウの心がふわっと浮き立つ。 「……はい。バラウル様は恐くなんかありません! 綺麗で美しくて、かっこいい神竜です」  そして力いっぱい頷いた。ははっとバラウルが声を上げて笑い、それから夜はのどかに過ぎていった。  眠るまえになると、バラウルは竜の姿に戻り、クロウを囲むように横たわった。炎の玉をひとつ傍に置き、布団代わりに羽を真上に被せてくれる。  雨も風もなく、やわらかな炎の熱に身体の力が抜け、心地のよい眠気がやって来た。  今日あった出来事を思い返しながら、クロウはまぶたを閉じる。  人生で幸せなことなどないと思っていたのに、これほどの幸運に巡り合えるとは、まだまだ捨てたものではない。  ――いつかあなたを愛してくれる人がきっと現れるわ。  ふいに母の声がして、クロウは目を開けた。だが実際は夢だということも、わかっている。母はもうこの世にいない。けれど、母がやさしい目でにっこりと微笑んだのを、クロウは確かに見たのだった。

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