瞼をひらくと、ローエンが左目を下にして眠っていた。 　愛し合ったというより、貪られたといったほうがちかい。朝の温かな陽射しが銀に輝く髪を透かして、長い睫毛がかすかに動くたびに寝息がリオの鼻をくすぐる。 　やっと会えたと思ったのに、まともに話すことすらできずに抱き合うことに没頭してしまっていた。いや、お互いを求め合うというより、本能的に動いていた気がする。 　……こうしてみると、自分よりも大人びて見える。 　こっちでは十年も経っているのだ。ローエンの眉間の皺は前よりも深く刻まれ、鬱屈した表情で寝ている。眼帯の奥は深く窪んで、その痛々しさにリオの胸がツキンと痛んだ。 　 「ローエン……」 　額にかかった髪を上げようとしたが、リオは手を引っ込め、そろそろと起き上がった。いつのまにか用意されていたのか、そばにきちんと用意されていた衣類が目に入った。 　従僕か、執事のエドウィンが置いていったのだと知り、リオの耳たぶが熱くなる。 　淫らに乱れた自分の声を聞かれていまいか、いまさらながら恥ずかしくなった。服を手にとると、絹の生地で、手ざわりは滑らかで柔らかい。 　ライラック色のシャツに洋袴がきちんと畳まれていて、袖を通すと、サイズもピッタリだった。新品の靴も履き心地もよくて、歩きやすい。 　ただの男娼に、こんなにも礼を尽くすのか。リオはなんとなく不思議に思った。 　いや、ローエンはだれにでもあわれみ深く接する人なのかもしれない。この世界に初めてきたときも、そうだった。それだからローエンに惹かれて、恋をしたのも自分のほうだった……。 「……ッ……ユー……」 　ふと、リオは呼ばれたような声がして、後ろを振りむいた。苦しげなうめき声をあげて、ローエンの額には汗が浮かんでいた。 「……どうしよう、なんだか変だ」 　すぐにベッドに駆け寄って身体を揺らそうとするが、ローエンは起きそうにない。身体が重くてビクともしないし、眉間の皺はますます深くなり、ローエンの顔は険しくなるばかりだ。 「……うっ……っ……」 　よく見ると、左目の目元がおかしい。黒い鱗がざわめいたように動いて見えた。 　エドウィンを呼んで、助けを求めよう。そう思って、リオはそっと寝室をでた。すぐにだれかいるだろうと思ったが、キョロキョロと見渡しても、探しても、誰もいなかった。 　長い廊下にも、使用人たちが使う通路にも、だれ一人見当たらない。リオは一階の厨房にいこうと決めて、玄関につながる階段を降りようとしたそのとき、やっと通用口で案内をしてくれた従僕を見つけた。 「お帰りでしょうか？」 「あ、あの、ロー……だんなさまが、あの、うなされて……」 「かしこまりました。旦那さまにはお水を差し上げにむかいましょう」 「あ……、はい。それと……」 「なにか？」 　男娼ごときが自分に話しかけてくるなという顔をされた。その目つきは侮蔑が混じったものを感じる。 「ゆ、指輪を。か、返していただきたくて……」 「申し訳ございません。身につけていた衣類や宝飾品はこちらで処分するように取り決めがございます。以前、旦那さまに取り入れられようと魅力の石をつけていたかたがございまして、そのような決まりになっております」 　従僕はとってつけた物言いでしゃべった。その謝罪が心からのものあっても、リオは足元が凍りつき、身動きできなくなった。 「そ、そんな……」 「では、馬車を手配いたします。下でお待ちください」 　従僕はすぐに通用口にリオを押しやり、待っていた馬車に乗らせようとした。抵抗することもできずに、そのまま座席に転がるように押し込められた。バタンと閉じられた扉に、馬がいなないて、走り出す。離れてちいさくなっていく屋敷に目をやった。 　しまったと思ったときにはもう遅い。屋敷は遥か彼方に遠ざかっていく。 　大事なシルシである、リングを返してもらっていない。 　どうしよう……、このままじゃ、ローエンから離れてしまう。 　ガタガタという揺れる荷馬車の幌にすがりながら、リオは御者にむかって叫んだ。 「あ、あのっ！　止まって！　この馬車を止めて！」 「坊主、だめだ。この馬車は一旦お屋敷をでたら戻らねぇ決まりになってんだ。」 　御者は馬に鞭をふるって、止まることなく、ものすごい勢いで道を突っ切った。屋敷はどんどんと小さくなっていく。逃げようとしようとしても、防御魔法が幌にかけられていた。 「そ、そんな……。ど、どうしよう」 　ポロポロと涙が頬を伝って流れ落ちた。 　涙を拭っても、次から次へとあふれて落ちてくる。せっかく異世界に戻ったのに、このままではチャンスすらつかめない。膝から崩れるように座り込み、リオは遠ざかっていく邸宅に目をやった。 　とにかく店に戻ったら、逃げよう。そう決めて、売春宿に着くと、店の女がすぐに出てきてリオを頭ごなしに怒鳴った。 「ちょっと帰ってくるのが早いじゃないか。まさか追い出されたとかじゃないでしょうね。まあ、いいわ。昼から客を取るから、この水を飲んで寝てまっていな！」 　吐き捨てるように言われて、女はリオに水を飲ませて、腕輪を左腕にはめた。魔法石が埋め込まれたもので、拘束器具によく使われるものだった。脱走すると、石のように動きを固められてしまう。 「徹底的に稼いでもらうからね。逃げたら承知しないからねっ」 　バタンと乱暴にドアが閉じ、マーリンに呼び戻された元きた場所の部屋に押し込められた。とぼとぼと頼りない足取りで歩いて、ベッドの上にしょんぼりと腰かける。緊張と疲労がどっとあふれでて、座ってしまったことにわずかながら後悔した。 　室内は湿気がこもったジメジメとしていて、ベッドと棚という必要最低限のものしかなかった。棚の上には避妊具とローションが入った小瓶が置いてあり、逃げ出そうにも高窓には手が届きそうにない。 　……指輪、捨てられたかもしれない。 「どうしよう……」 　それにローエン、つらそうだったな。 　絞りだすような苦し気な声がいまだに頭にこびりついて忘れられない。それにリングも失ってしまった。名前と顔も変えて、証明するものがなにひとつない。このままではローエンに近づくことすらできない。 「……ここを出て、いろいろと考えなければ……」 　飲まされた水に魔法薬が入っていたのか、急に眠気が押し寄せてきた。はやくこの店をでて、ローエンの元へ戻らないと……。そう思いながらも、重くなっていく瞼を閉じ、リオはベッドの上でうとうとと眠りに落ちた。 　ガタガタと音がして、乱暴に樫木の扉が開く音が響いた。どのくらい眠っていたのだおるか。リオは物々しい音ではっと目を見開いて身体を起こし、ベッドの隅に身を隠した。 「おまえさんが新人ねぇ、うまそうだなぁ」 　開いた木扉の前に、中年の男が両手を揉んで、舌なめずりをしながら、リオを値踏みするように眺めていた。頭の髪がうすく、でっぷりと腹がでて、貴族服がはち切れそうになっている。品のない顔に下卑た笑みを浮かべて、吐き気がこみ上げそうになった。 「へぇ。フツーの男だな。まあ、若いから尻の締まりはいいんだろう。もう金は払ったんだし、すこしはこちらも融通を利かせて我慢してやろう」 　状況把握できずにいると、男の背後から、店の女が顔をだした。 「リオ！　さっさと起きな！　このかたはあんたの客だよ！」 「え……、そ、そんな……」 　まさかと思った。この男の相手をしろということなのだろうか。 　固まっているリオを無視して、女は男を部屋に通すと、バタンと固く閉じた音がした。すぐに鍵がかかり、錠が下りる音にリオは絶望を感じた。 「初物じゃねぇっていってたな。まあいい。たっぷりと尻の中までかわいがってやるよ」 　にやにやしながら、脂ぎった顔に汗が大粒の汗をみせて近づいてくる。気持ち悪い。いやだ。この男の相手なんてしたくない。リオは毛布をかぶって、ベッドの端まで逃げた。声すらひきつってでない。 「おやおや。こわいのか。震えてるじゃねぇか。そういうのも悪くねぇな」 「……、い、い、いやだ……」 　だめだ。ここは売春宿だ。逃げ場なんてない。男の饐えた匂いが鼻をついて、近寄ってくるのがわかった。リオの背中が土壁にぺたりと張りついて、毛布の中で小さく身体を丸めた。 　隙間から男が見えるが、どんどんとこっちにくる。 「へへっ。ちゃんと金も払っているんだ。観念してこっちにきな」 　下卑た笑いが聞こえ、じりじりとこっちに近づいてくるのがわかった。太くて毛が生えた指が顎に触れようとした。そのときだった。ガツンとした衝撃音が部屋を轟かせ、勢いよく扉が開いた。 「悪いが、そのものに手を出さないでくれないか。朝方、すでに私が買い受けたんだ」 　ローエンの声が聞こえたと思った。わずかな隙間から、隻眼の男とでっぷり男が尻餅をついておろおろと上を見上げている光景しかみえない。 「おいおい、悪いがこいつはわしが買ったんじゃよ。金も払っているんだ……ぎえッ」 　ゴツッと鈍い音と、情けない男のだみ声が聞こえてリオは耳をそばだてた。 「金ならこちらもすでに払っている。足りければ、これを持っていけばいい」 「ちぇっ、しょうがねぇや。これで我慢してやるよ」 　袋の間口から金貨がバラバラと落ちた音が響き、金貨をすべて拾い、部屋を出ていく足音がした。静けさが戻る。しんと静まり返った部屋に、コツコツと革靴が踏み鳴らす音が聞こえた。 「あ、あの……」 　 　リオはあっけにとられて、言葉が浮かなかった。頭上から毛布を剝ぎ取られ、視界がぱっと明るくなる。 「マーリン卿から使い魔がきて、知っていたのに……。申し訳ない。きみを迎えにきた」 　目の前にローエンがいた。リオを見下ろして、にこりともしないで仏頂面をむけてる。 「え、え……」 「手違いで、こんな店に戻してすまなかった。マーリン卿から使い魔が届いて、わかった。きみはユー……、いや名前を呼んではいけないのか。あの世界から戻ってきた。そうだろう？」 　ローエンはそう言って、リオを引き上げて腕の中に抱きかかえた。こくこくとうなずくと、腕の力がつよくなりぎゅうっと圧迫するように抱きしめられた。 「そ、そうです……」 「そうか。戻ってきたのか……」 　感慨深くつぶやいて、ぽたりとリオの頬に涙が落ちるのを感じた。もしかして泣いているのか、そう思って見上げると、目元に涙をうっすらとためて、ローエンは天井を見上げていた。 「ロ、ローエン……、は、話したいことがいっぱい、あ、あるんだ」 「そうだったな。きみに涙をみせている場合じゃない。すぐに屋敷に戻ろう」 　ローエンはほのかに赤くなった目をむけて、顔をほころばせた。その情けない顔に、リオは泣きそうになった。 「とにかく、家に戻ろう。きみは腕の中にいなさい」 　やさしく諭すように言われ、ローエンの腕の中に収まったまま、階段を降りて、売春宿をでた。待機していた従僕が馬車の扉を開き、おんぼろの切妻屋根がリオたちを見送った。