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第6話
なんだか今日は、細々とした用事が多くて慌ただしい。
職場のおつかいで文書館に立ち寄ったら、ガブに会った。
幼馴染はいつもより少し距離を置いて立ち止まるや否や、口を手で覆い、くぐもった声で「うう…」と呻いている。
「ガブ、おまえ体調不良か?」
「……原因は君だ。セオ、匂いづけされてるぞ!」
「匂い? それなら朝食のベーコンの匂いだろ。エイダンのやつ、焦がしちゃって」
「じゃなくて、エイダン様の匂い! いい匂いだけど、なんか小刀みたいな棘も混ざってるっていうか。えげつな……」
「な、なんでエイダンの匂いがおまえに分かるんだよ!」
「鼻には自信があるからね」
どこか憎らしい顔をしてひくひくと鼻を動かすガブには、小動物らしい可愛さがある。
「匂いづけっていうけど、香水だって数分隣にいるだけで匂いが移るだろ? 同じ家に住んでんだし、俺からエイダンの匂いがするのなんて当たり前じゃね?」
「ちっがーう! ばかセオ! 全然ちがうよ!」
「ばかって言われた……ガブに……ばかって」
普段温厚なガブリエルが怒ると、ショックで頭が真っ白になる。俺ってばかなの、と問えば、ガブが気まずそうに眉を下げた。
「ご、ごめん……。でもね、匂いってのは、アルファが出すフェロモンだよ? フェロモンは、人の行動を促したり、変化させたりするんだ。たとえば不埒なアルファが君に近づかないよう、ブロックしたりとかね。今のセオからは、嗅いだら脳にビビビってくるような、それはもうヤバい匂いが……あッ!」
ガブが急に言葉を途切れさせた。
顔色が青い。両手を宙に浮かせて静止している。たとえるなら、まるでヘビに睨まれたカエルだ。
「なんだよ、途中で切り上げるなよ。思わせぶりだぞ、そういうの」
「う、うし……」
「牛? 話が見えねえよ」
「うしろっ!」
びしっとガブが指を差したが、時すでに遅しだった。
「――やあ。こんなところで会えるなんて嬉しいよ、セオ! そちらはお友達かな?」
振り返るより先に、両肩に大きな手が乗せられた。それだけで圧力を感じる。悪いことはしていないのに、後ろめたい気持ちになる。
「あ、うん。幼馴染のガブリエルだ。この国に帰化してすぐ、養父が紹介してくれた。貴重な友人なんだ」
「それはそれは……僕はエイダン。パートナーのセオとは同居している。どうぞよろしく」
「か、閣下! お目にかかれて光栄です、ガブリエルと申します。文書館勤めの役人をしていま……わわっ」
エイダンはやや性急にガブの手を握り、ぶんぶんと上下に振った。二人とも、妙に力強い握手を交わしている。
それを見ていた俺は「あっ!」と叫んだ。エイダンとガブが何事かと身構える。
「やっべ、調律頼まれてたんだ。クラスが始まる前に終わらせないと……悪い、先に行くな」
残念だけど、のんびりおしゃべりを楽しむ暇はないのだ。
俺の背中に向かって、エイダンが心配そうに声をかける。
「セオ! ちゃんとランチは食べたのか?」
「あとで食べるー!」
今朝も弁当箱にいろいろ詰めてもらったから、空き時間ができたら食べよう。今日はそんな時間、ないかもだけど……。
その場に二人を残して、俺は職場にむかって駆け出した。
◇◇◇────◇◇◇
「……行っちゃいましたね」
ガブとエイダンは互いに向き合ったまま、相手の動向を探っていた。
「まいったな。セオはすぐ食を蔑ろにする。パンを一枚くわえていれば、食事はそれで済むと思っているんだ」
「たしかにセオはそういうところがありますね。自分に頓着しないんです。そこが可愛いんですけど」
共通点皆無の二人は、ここにいない人間の話題を続けてしまう。
「君はセオをよく知っているようだね?」
「幼馴染ですから。二年前、僕が文官になって上京し、王都で再会しました」
――だから、あなたが知らないセオのことを、僕はたくさん知っている。
ガブは暗にそう匂わせた。
「……そうだ。僕、あなたに訊きたいことがあったんです」
エイダンの瞳に冷たい光が宿り、ガブの声からは愛想がかき消えた。両者の視線が交錯し、見えない火花が散る。
「セオの匂いが変わってきましたね。エイダン様には、お心当たりがあるのでは?」
ガブの言葉に、エイダンは片頬だけで微笑む。
「僕がどれほど彼を求めているか、君には到底理解できないだろう」
棘を含んだ言い方に、ガブは顔をしかめた。
「ガブリエル。君はベータだね」
エイダンと二人だけで対峙すると気圧されるような圧迫感を感じる。けれど退けない。
ガブは震えそうな膝に力を入れ、その場に踏みとどまった。
「……エイダン様ともあろうお方が、面と向かって、人にダイナミクスをお尋ねになるのですか?」
「訊いたつもりはない。釘を刺しただけだよ。その勘の良さは、君の命取りになりそうだなと思ってね」
「脅しですか? 僕の質問に答える気はないと? だったらせめて……セオにひどいことはしないと約束してください」
「プライベートなことを話す義理はないが……君の勘は正しい、と告げておこうか」
「――っ!」
「約束するよ。セオにひどいことはしない。ちゃんと番になって、一生守り続ける。そのつもりで僕は付き合っている」
覚悟を語るアルファに対峙してしまったら、ガブにはもう何も言えなかった。
多少鼻が良くても、所詮ベータはベータ。
アルファの代わりを買って出ることなどできない。ガブではセオを守ってやれないのだ。
エイダンの大きな背中を見送りながら、ガブは深いため息をついた。
「セオ……」
ガブは文書館の片隅で、麗しい友のことを想った。
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