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第5話

 これは持論だが、音楽は夜に属すものだ。  空に黒い帳が降り、街が静けさに包まれたあと、弦の響きはそっと人の胸に忍び込む。  ウードは半世紀前、西の大陸にある砂漠の国で流行った楽器だ。  嘘か本当か知らないが、死んだ恋人の骨からつくられたのが始まりだったと言い伝えられている。生を祝福し、喪失を慰める。俺の母国の楽器。……俺が唯一、砂漠から手放さずに持ってきたものだ。  男爵様の葬儀でも爪弾いた。泣いていては男爵様が浮かばれないと言われたので、歯を食いしばり、代わりにウードに気持ちを語らせた。  居間の椅子に腰をかけ、丸い共鳴胴をそっと撫でる。 「繊細な弦だな」 「羊の腸を使うんだ」  びぃんと弾いてみせると、エイダンは鳶色の瞳をまんまるく瞠った。こんな顔もするんだな。子供のようで微笑ましい。  ウードを俺に教えてくれたのは、流れ楽士だった俺の兄だ。奏法や手入れはすべて兄が授けてくれた。  兄とは砂嵐で死に別れ、俺はこの国の男爵である養父に拾われた。  養父は貴族といっても一代限りの男爵位を持つ商人だった。洪水で荒廃した国境近くの地方都市復興に尽力した、優しい人だった。  老衰で養父が逝くと、俺にはもったいないほどの財産が残された。ところが、信頼して財産管理を任せた人間に騙されて、最終的に養父と一緒に暮らしていた館まで掠め取られてしまった。  文無しで追い出された俺は、流れ楽士に戻った。  人間不信になっていたし、男爵様亡き後の村に俺を受け入れてくれる寛容さがあるとは思えなかった。  変化があったのはそれから一年後だ。  この話を知った地方領主が王に訴えて、俺はひとまず保護された。養父の功績には近隣の貴族も助けられたという。  なにもなしていない俺が叙勲されることはなかったが、国からの温情で、王都にある王立芸術院勤めの調律師となった。ちょうど、成人年齢の十八を迎えたばかりだった。  ……そんな話をしながら、俺は足の下に小さな台を置き、高さをつけた腿の上に、ウードの丸い胴を載せた。胸元のポケットから薄い木でつくった撥を取り出して、右手に構える。 「その細長い爪のようなもので弦を弾くのか?」 「リーシャっていうんだ。これは自作する。楽士はみな、自分の音色へのこだわりがあるから」  ためしに弦を爪弾いては糸巻きをねじり、望む音に近づくまで調律を繰り返す。 「この音色は君が丹精してきたものなんだな」 「楽士にはそれぞれ、理想とする音があるからな。……なあ、エイダン。あんたは砂漠を見たことあるか?」 「砂漠? ないな。砂漠地帯は大国との戦争で不毛の地と化した。今やオアシスも枯れ果てて久しいと聞く」 「……そうか。じゃあ、砂漠の景色を見せてやろう」  楽器を手にすると、魂が震える。心が沸き立つ。  いたずらっこのような顔をした俺に驚いたのか、エイダンが目を見開いた。  刻むのは、ゆったりとした十拍子。  奏でるのは独特な音階だ。  この国の人々にとっては異国情緒に満ちたメロディ。俺にとっては懐かしい音。記憶の中に眠る歌詞を引き出して、夜風に溶けるように囁いた。   渇きを癒す緑陰の街   西の砂漠に陽が沈む   月はやさしく砂粒に   星を宿らせ夜を縫う   銀の砂と我らは眠り   黄金の朝が戸を叩く……  弦の震えが体内に浸透し、心の奥深くまで響きをつたえていく。  瞳を閉じれば、まなうらに蘇る。熱風うずまく砂漠。兄と手をつないで旅をした日々。数えきれぬ星々が瞬く夜。  幻が浮かんでは消えていく。シャボン玉みたいだ。  この旋律をたどれば今すぐ戻れるんじゃないか。けれど幻影に手を伸ばせば旋律は止み、メロディにはいつか終わりが訪れる。 「……これで終わり。どうだった?」  沈黙が降りた。エイダンは口を抑えてうつむいたまま、微動だにしない。  素朴な楽器の独奏など、この国の貴族にとっては退屈だったろうか。悲しいような、もどかしいような。やるせない気持ちがあふれそうになる。 「音楽ってのは好みだから、合う合わないは当然ある。……無理やり聴かせちまって、悪かったな」 「そうじゃない!」  弾かれたようにエイダンが顔を上げた。  瞳はうるみ、眼の奥に小さな炎が爆ぜたようにきらめいている。 「うまく言葉にできない……初めて知ったんだ、こんなに美しい音楽がこの世界にあることを。今のこの胸の内をどう言えば伝えられる? ああ……セオ」 「ん?」 「触っても……いいか?」  エイダンが、リーシャを持つ俺の手を指差した。  リーシャは細い木の枝をさらに薄く削いでつくるのだ。そのぺらぺらの撥の先端を指で差し出す。 「もちろん。どうぞ」  けれど、エイダンがそっと触れたのは、俺の手だった。 「…………」  喉が震えて、小さく息を呑んだ。  エイダンの手は大きい。熱くて、分厚い手が俺の手を包み、ゆるく曲げた指を開いていく。 「君のこの手が、あの愛しい旋律を生むんだな」  そのまま俺の手をとって口元へ引き寄せ、手のひらのやわらかな部分に口づけた。  びっくりしすぎて、握っていたリーシャを、からんと床に取り落とした。 「っ、なにを……」  そのままエイダンの唇は俺の手をたどり、指先にも口づけを落とした。 「手のひらにするキスは、求愛。指先にするのは、賞賛だ。言葉では伝えきれないから、触れたいと思った」  エイダンの鳶色の瞳の奥で、ちろちろと炎のような光が揺れる。じっと視線を注がれてその熱を浴びていると、自分がなんだか分からなくなるような、熱に浮かされた気持ちになっていく。  たまらず視線を逸らして、うつむいた。 「……話したいことがあるんだ。エイダン。聞いてくれるか?」 「ん?」  指に唇を這わせていたエイダンが、顔を上げた。獲物を狙うような鳶色の眼。  抗わなくては――直感的にそう感じる。この男に絡めとられるぞ、逃げろ、と頭の中でかすかに警鐘が鳴る。それでも。  ウードを奏でた夜は、心が開いて、饒舌になる。 「俺の……ほんとうの名前は、別にある」 「そのほうが良いと、勧められたか?」 「男爵様の養子になるとき、この国の人からいらぬ詮索をされないように『セオドア』と名付けてもらった。男爵様の、夭折したご長男の名前だ」 「……真の名を名乗れないのは、つらかった?」 「いいや。全然」  つらいことは、みんな砂漠に置いてきた。  砂嵐が止んでようやく見つけた、兄の骨と皮ばかりになった体も、そのとき一緒に手放した。……砂漠の砂の一部になれるなら、兄はもう、ひとりで頑張らなくてもいい。そう思ったから。 「……シャヒムっていうんだ」  気づいたら名乗っていた。  置き去りにして捨ててきた、手放してしまった、自分の一部だったものを。 「あんたには教えておかないと、と思って……」 「そうか。ありがとう、シャヒム」  エイダンが、とびきり優しい笑顔になった。蕩けそうに目を細めて、握ったままの俺の手を自分の胸に引き寄せる。 「……なんだか眠くなってきた。ここで一緒に休まないか?」 「えっ?」  話が飛翔して、びくんと肩が跳ねた。  ひょっとしてこれ、閨に誘われてる? 「そ、そういうのはさ、いきなり言われても」 「こんな巨体と一緒で申し訳ないが……君と、もっと仲良く、なりた……」  何か続けて言いかけたけれど、エイダンはそのまま「すう……」と寝入ってしまった。 「えぇ? このタイミングで?」  まじまじと寝顔を見れば、目の下に濃い隈ができていることに気づいた。疲れていたのに俺に付き合ってくれたのか。  エイダンの疲労の濃さに心配が募る。  ソファに横たわったエイダンの手から自分の手を抜き、寝室から毛布を運んできて重ねてやった。  くかー、と規則正しく呼吸する寝顔は、精悍さよりもあどけなさが表に出ていて、親しみが湧く。  さすがに同じソファを使うことは忍びなくて、クッションと薄い毛布を借り、絨毯に寝そべった。この家の絨毯はふかふかで、官舎の薄いマットレスより数倍は快適だ。 「……おやすみ、エイダン。良い夢を」  胸が高鳴って寝付けない。  でも、とてもいい夜だった。  砂漠で暮らしていたころ、兄が言った。 「おまえは特別なんだよ」 「特別って、商隊の用心棒みたいに強くなれるってことか? お宝がたくさん手に入る?」 「……そういうんじゃない」 「なんだぁ。つまんねーの」  不貞腐れた俺はテントの中にごろんと寝転がった。  テントといってもボロ布でつくっただけの、どうにか風と砂をしのげる程度のものだ。兄が数日間働いて、ようやく買えた。 「それでも、他の人とは違う。おまえは特別な体をしているんだ」 「よく分かんなーい」  どうでもよさそうに俺が返すと、兄はしょうがないなといって苦笑した。 「分からなくてもいいよ。でも、おまえを守るために、おれはおまえに魔法をかける」 「魔法! にいちゃんが?」 「そうさ」 「すっげー! にいちゃん、魔法なんて使えたのか!」 「いつも使ってるじゃないか。砂漠の魔法は、音楽の中に秘められているんだ」 「それってどんなの? 見せてくれよ!」  兄は痩せた足を組み、ウードを構えた。宵闇に、ぼろろんと低い音がこだまする。 「……今夜はこのままお眠り。シャヒム」  歌うように兄が呟くと、まぶたがとろとろと重たくなった。 「にいちゃ……の、まほう……みたい……」 「いつかおまえが真に愛する人と出会えたら――おれのかけた封印は解ける。だからそれまで」  すべて忘れて眠りなさい。  兄の奏でる旋律は、砂漠をわたる夜風のように、ひそやかに俺の体を変えていった。  ウードを奏でた日は兄の夢を見る。  なんだか意味深な、謎かけのようなことを兄が語っていたのだが、朝起きるとすぐに忘れてしまった。  顔を洗って服を着替え、階下へ降りる。エイダンが食器を並べていた。 「おはよう、セオ」 「おはよ、エイダン」 「よく眠れたか?」 「うん。そっちは?」 「朝までぐっすりだったよ。君と暮らし始めてから、なんだか調子がいい」  食卓いっぱいに用意された朝飯は、相変わらず豪勢だった。  食べきれないぶんは俺の昼食になる。ランチボックスを持っていかないとエイダンが憂鬱そうな顔をするのだ。 「君が仕事中倒れるんじゃないかと思うと、剣の研鑽に身が入らない。誤って同僚を斬ってしまいそうだ」などと言う。無論、冗談だが、エイダンが真面目な顔で言うと真に迫って聞こえるから、始末が悪い。 「今朝はスープを頼んだよ。野菜とハーブの出汁がうまい具合にマッチしている。さあ、どうぞ」  スプーンで掬って口に運ぶ。細かに刻まれたナスと豆類が入っていて美味しい。  ほんのりハーブが薫る。初夏にぴったりのスープだ。 「味付けは藻塩なんだ。塩気がいつもよりやわらかいだろう?」 「……うん、すごく美味しい。エイダンは料理が好きなんだな」  そういうとガタガタっと音がして、エイダンがずっこけた。なにもない床でつまづいたらしい。  カトラリー類がからんからんと床に散らばる。 「大丈夫か?」  スプーンを置いて席を立ち、落ちているカトラリーを拾い集める。 「あ、あああ……すまない。格好悪いところを見せてしまって」 「かっこ悪いだのかっこ良いだの、いちいち考えねーよ」  フォローのつもりで言ったのだが、エイダンは頬の線をわずかに硬くする。挙げ句の果てに、持っていたナプキンでさっと顔を隠してしまった。 「料理が好きだからって恥じることじゃないだろ? いいじゃないか、貴族の男が料理したって」 「……なぜ、僕がつくったと分かった?」 「味付けに使う塩までは、料理人本人じゃなきゃ知らねえだろ」  この家には、通いの料理人などいない。  最初からずっとエイダンが食事を用意してくれていたのだ。 「こんなに美味しいものつくれるんだから、特技は料理ですって堂々としてりゃいーんだよ」 「調理人を派遣させようかと両親が打診してくれたんだが……君と二人だけで暮らしたいと思って、断ったんだ」  伯爵家のタウンハウスといっても比較的小さな家なので、元から使用人は置いていなかった。神託がきっかけで、同居する家を王都で探すことになり、ようやくこの家の存在を思い出したのだ――。やや照れながら、ぽつぽつとエイダンは語った。 「そうだったのか。使用人さんがいたら俺、緊張して落ち着けなかったと思うから……二人暮らしで安心した」 「セオ……」  エイダンの精悍な顔を引き立てる直線眉が、嬉しそうに下がる。  しかしエイダンは生まれついての貴族であり、地位も名誉もある騎士だ。この暮らしを続けるのは負担でしかないと思う。 「あのさ。しんどいようなら、俺に遠慮しないで、今からでも誰か呼んだらどうだ?」 「必要ない。セオと二人暮らしがいいんだ。僕の負担など気にするな」 「でも、仕事だって忙しいだろ? 無理しないでほしいんだよ」 「いくら貴族の坊々でも、長年騎士団にいれば、生活力は嫌でも身に付く。セオが心配することじゃない」  王都に来てからはもっぱら寮暮らし。新兵時代は床掃除から叩き込まれたという。  エイダンは「家のことは自分がやる」と、きっぱり言った。それほど強いこだわりがあるならば、居候の俺にはなにも言えない。 「僕の料理趣味は、一種の執念なんだ。子供の頃、甘いものを食べさせてもらえなかった。虫歯になる可能性がある食べ物は許さないと……母の強い希望でね。早く大人になって、好きなものを好きなだけ食べる。それが僕の夢だった」  エイダンはふうと息を吹き、拾い上げたカトラリーやトングをまとめて流しに置いた。 「食べることが大好きだ。レストランにも行くし、買い食いもする。それが高じて料理も好きになった。だけど君と出会って、歯止めが効かなくなった」 「ん?」 「君の体に入るものを他の人間に作らせるなんて、耐えられない! そう思ったら早朝、調理場に立って野菜を刻んでいた……」 「えっ、そんな理由!?」 「そんなって言わないでくれ。僕は食事をつくれても、君の体はつくれないんだぞ!」 「なんていうか……エイダンは、母性が強いんだな」 「からかわないでくれ。僕は君のことが……セオが大事なんだよ」  最後の言葉は、ぼそりと照れたように口にした。  俺は異国出身のベータで、あんたみたいな立派な人の隣にはそぐわないのに。  卑屈な考え方が染みついている俺には、エイダンが向けるまっすぐな愛情はこそばゆくて、少し重くて……なんとなく、煙たい匂いがする気がした。 「……ベーコン、焼き過ぎじゃない?」 「あっ! しまった!」

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