9 / 12
第9話
……最初に覚醒したのは耳だった。
少し離れた場所からガブの声がする。
「……老師しかいなくてよかった。芸術院はオメガが多いけど、教師や学生にはアルファだっています。場合によっては、セオは襲われていたかもしれないんですよ?」
「これほど早く変化するとは……思わなかったんだ」
ガブの近くにエイダンもいるらしい。低い声は意気消沈しているように聞こえた。
体が石のように重い。
ようやくまぶたを持ち上げると、そこは白いカーテンが幾重にも重なる部屋だった。
白いふとんをかけられて、寝台にひとり寝ている。俺はたしか芸術院にいたはずだが、ここは……?
天井がやけに高い。造りからして王宮に近い建物ではないかと見当をつけた。
どうやら寝台のまわりを取り囲むカーテンを隔てて、ガブとエイダンが話しているらしい。
……知らぬ間にずいぶん二人は打ち解けたんだな。
俺だけ仲間はずれにされたようで、いじけた気持ちが湧いてくる。
「気づけずにいたのは僕の不徳だ。相互理解が足りていなかった」
「同居までしておいて理解が足りない? なんなんですか、そのザマは。それでもアルファですか? あなたが小難しいこと言ってるから何も進展しないんでしょうが! セオはね、竹を割ったようになんでも明快にしなきゃ分かってくれないんだよ!」
ガブがぷりぷりと怒っている。
その言いようだと、俺のこと「ばか」だってけなしているみたいに聞こえるんだが。
なんにせよ、ぶち切れているガブはめずらしい。でも言い方……もうちょっと優しくできんのかい。
「セオは、セオはずっと……苦労してきたんだから!」
ガブの剣幕に、エイダンは小さく呻いている。ガブにやり込められたエイダンの姿を見てみたくなった。
俺はゆっくり身じろぎした。
「う、んん……」
「セオ!?」
「目が覚めたの!?」
ガブとエイダンが一瞬沈黙し、シャッとカーテンを引いた。二人と目が合って、力なく笑いかける。
二人ともわなわなと頬を震わせていた。
なにか言おうとするその前に、医官が俺の腕をとって脈をたしかめる。
ほっとした表情で医官が頷いたのを見て、ガブが一歩、身を引いた。
「……僕は外に出てるよ」
「ガブ……?」
「セオ。なにかあったら、いつでも僕を呼ぶんだよ。いいね? 絶対だよ?」
いつになく強い瞳のガブに手を取られ、力強く握られる。
「う、うん」
カーテンの隙間から身を滑らせ、ガブの姿が消えた。医官もそのあとに続いて出ていく。
エイダンだけが寝台のそばに残った。背もたれのない小さな椅子に腰を下ろす。
「セオ、話があるんだ。どうか聞いてほしい」
「話って……」
話があるって、それ、別れ話をするときの常套句じゃないか。
いやだ、と思った。こわい、と思った。衝動的に目を瞑る。
神託は大外れ。神様の勘違い。
まぶたを震わせていると、そっと額に大きな手が降りてきた。
エイダンの手。触れられるだけで肌がびりびりと甘く痺れる。変な感覚だ。熱がまだ高い。
「……熱いな。風邪を引いたと言っていたそうだな?」
風邪を引くベータなんて自己管理がなっていない。まさかそれを別れる理由にするのか。
俺がすん、と鼻をすすると、それを答えと捉えたのか、エイダンが口を開いた。
「それは風邪じゃない。発情の兆しだ。君は、目覚めたばかりのオメガなんだよ」
「っ…………え?」
別れ話、ではない?
想定外の展開に、何度も瞬きする。
「君の真のダイナミクスはオメガだ。これは僕の推察にすぎないが、セオには兄上がいたと言ったね。おそらく君の兄上は砂漠の民に伝わる幻術を使って、君のダイナミクスにプロテクトを施したんだ。君がオメガだと分からないように。君の身を……守るために」
繊細な唐草紋様のように施された術は、容易に解けないよう複雑に編み込まれていたが、俺の成長と共にそこに綻びが生まれた。
エイダンはそう推察した。
「俺が、オメガ……?」
「君が弾く旋律には、護符のように強力な、癒しと守りの力が流れている」
音楽にまつわるものはすべて、兄から享受した遺産だ。これはなんだ、あれはなんだ、と言葉で教えられたわけじゃない。生きる術として音楽を与えられた。それだけだ。
体の芯から震えが走って止まらない。
これは、自分が知らなかった事実を知る怖さだ。
「君の体にかけられていたのは、砂漠の音楽――楽器を使った呪術だ。僕が眠っている間、疲労を癒してくれたのも君だね?」
「……気づいてたのか」
「君と暮らすようになって、明らかに調子が変わった。気の通り道を調整してくれたんだな」
「……ごめん。勝手な真似をして」
「嬉しかった」
エイダンが微笑む。
「君の不調は、オメガ性が目覚めて体がびっくりしているせいだ。我が国でこういう例は他にないから、詳細な具体的なメカニズムは分からない。ただし君のフェロモンのあふれ方から見て、すぐにでも本格的な発情が始まる。俺も医官も、そう診ている」
「発情って……フェロモンって……俺……ほんとにオメガ……?」
「そうだ」
「いま……フォロモン出してる?」
「高貴なバラのような、いい匂いがするよ」
エイダンがすごく優しい顔になる。エイダンからも甘い蜜のような香りがした。
「その意味では、キャマハド神の見立ては正しかったんだ」
神は正しかった?
冷たい水をぶっかけられた気がした。
「……嘘だ」
「セオ。ダイナミクスの変化は受け入れがたいものだと思う。だけど嘘ではない。信じてくれ」
「でも、だって、あんたは……っ」
肘をついて、怠い体を起こす。
俺が気になっているのは。
胸が焼け爛れそうなほど、切なくて苦しいのは――。
「昇進のこと、言ってくれなかったじゃないかっ!」
喉元で押さえていたものが、俺の意志を裏切って口からこぼれた。みっともなく声が震えた。目頭がじんじんと熱くなる。
エイダンは呑まれたように目を瞠ったが、いつになく真剣なまなざしになり、俺を見つめた。
「セオ」
「……なんでだよ? 昇進のこと、ガブから聞くまで知らなかった。そのとき俺がどんな気持ちだったか……分かるか? あんたの人生に関わらせてもらえない俺は、なんて惨めなんだろうって……。番にもなれない、番えないやつがパートナーになる意味なんかないのに……神様って酷だよな。ずっと苦しかった。……それを、それをおまえはオメガだって? 神は正しかったって?」
地母神キャマハドよ。あなたの導きは正しかった。健康なオメガをありがとう、って?
所詮アルファってのは選民意識のかたまりか。
「……ダイナミクスじゃなくて、俺を……俺自身を見てくれた日は、なかったのかよ……?」
自分自身を抱き込むように、自分で自分の肩を抱いた。
「セオ! どうして君は……僕の気持ちから逃げていくんだ!」
エイダンが喉の奥から絞りだすように叫んだ。
「じゃあどうしろっていうんだよ! 俺がオメガでよかったねって? 感謝の祈りを捧げろとでも!?」
肩を抱かれ、ぎゅっと強く体を包み込まれる。エイダンの胸に抱かれたら、また、ふわりと甘い匂いが香った。甘くて優しい、悲しみを忘れさせてくれるような香りがする。
「ふざけるなっ……このっ……離せよ……!」
心地よさに逆らうようにエイダンの腕に爪を立てる。けれども、エイダンは揺らがない。
「昇進のことは……すまなかった。当然、話すつもりでいた」
「俺と番になる気はないから、後回しにしたんだろ!?」
それは違うと首を振る。
「時と場所を整えようとした。……僕の悪癖だな。格好つけすぎたんだ」
エイダンは苦しげに目をふせた。
「出世の打診を受けたのは、君との時間をつくるためだ。分隊長は管理業務が多くて……いや、そんな話は不要だな。僕ら二人でゆっくりできる時間をつくって、今後の生活について話し合っていきたかった。庭はどうする? 犬は飼う? 部屋は今のままでいい? 話すことはいくらでもある。セオに関わってほしくないなんて思ったことはない。むしろ、もっとグイグイ来てほしい!」
「ぐいぐい……?」
「パートナーになる意味などないと君は言ったな? 番えもしないのにパートナーになる意味などないと。僕は……君がいるだけで嬉しいんだ。アルファとオメガであれば幸せが保障されるのか? 違う。オメガ嫌いのアルファなんてざらにいる。世の恋人たちは子を成せるから番うのか? それも違う。他ならぬ君という人と共に過ごす日々が、僕は嬉しかった。オメガやベータじゃなくて……セオ、君だからだ。美しくて素晴らしい、僕の愛しい人。僕は君と人生を歩みたい。傍にいてほしい」
エイダンが背中に腕を回した。
「お、俺が、オメガじゃなくても……すきになれた?」
問いかける声が涙で震える。ずっと訊くのが怖かった。
鳶色の目を細めて、エイダンが頷く。
「なれたよ。僕は君だから好きなんだ。僕は君が好きだよ、セオ」
「……これ……夢か?」
「まいったな。今までもちゃんと伝えてきたつもりなんだけど。後宮のオメガに一歩も引かなかったり、楽器がうまかったり、ソファで寝ても怒らなかったり、僕のつくる朝ごはんを美味しそうに食べてくれたり。そういう君が大好きだよ。セオ、愛してる」
「あ、あい……?」
一気にいろいろ言われて、目の前がぐるぐるする。しかも「愛」なんて……口に出すことなど一生ないと思っていた言葉だ。
「少し休むかい?」
ふいに額に熱い息がかかった。
エイダンがおでこにキスをしたのだ。
俺をなだめるように頬や耳を撫でてから、エイダンが話を戻した。俺がオメガだという話の続きを。
砂に埋もれた国の王族には、オメガが多く生まれたという。それも、とびきり優秀なアルファを産むオメガが。
「……その生き残りが君なんだ、セオ。おそらくガブも気づいていたはず。君はベータに見えるが、その芯にオメガ性を抱えていると」
砂漠の国は「蛮族から守ってやる代わりに王族のオメガを献上せよ」と、大国に不平等な条約を結ぶよう強要され、侵略の果てに滅んだ。王家の人々は散り散りになり、ほとんどは死ぬか、奴隷になるか。あるいは放浪の末、砂嵐に巻き込まれて命を落とした。
「……ガブは俺のこと、気づいてた?」
エイダンは目で俺の問いを肯定した。
「彼は良い目をしているな。あれを文官にしておくのはもったいない。武術を仕込めば優秀な情報将校になるぞ」
「もったいないとか、そんなの……」
友の話をされて、かっと頭が熱くなる。胸の中で覚えのない感情がぶわりと膨らんで、弾けた。
「いやだ。エイダン、エイダァンっ……! ガブじゃなくて、俺をみろよぉ……!」
俺からぶつけられた独占欲。
それが嬉しかったのか、エイダンは満足そうに笑み崩れた。
「もちろんだよ、セオ。いや、シャヒム……愛しい人。僕ももう我慢の限界だ。君が、欲しい」
果樹園の実がいっせいに熟れたように、エイダンから漂う甘い匂いがぐっと濃さを増す。
互いに噛みつくような勢いで唇を重ねた。
俺を抱えたエイダンが、治療院の扉を蹴倒すように開けた。
すぐにガブが駆け寄ってくる。けれど俺は息をするのがやっとで、潤んだ瞳で親友を見つめ返すことしかできない。
「番が発情期に入った。申し訳ないが、家に帰る。休暇は七日間申請する」
「……承知しました」
ガブがきゅっと唇を引き結ぶのが見えた。
こんな姿を見せてごめん。そんな俺の気持ちを察したのか、優しき友は「僕は大丈夫」というように頷いてくれた。
「老師にもセオは大丈夫って伝えたよ。安心して……休んできてね」
そうだ。老師にも心配をかけてしまった。申し訳なさが募る。
「発情期が明けたら、いちばんに君に連絡しよう。そのときは老師にも伝えてくれ」
「分かりました。エイダン様、セオを……よろしくお願いします」
ガブがむっつりと額にしわを寄せ、口をへの字に曲げる。認めたくないが、許してやるよ、という顔だ。
「身が引き締まる思いだな」
エイダンは顎をあげ、喉をそらすように笑って、俺を抱きかかえて歩いていく。
「ちっとも引き締まってない顔でそう言われても……あーくそっ、でろんでろんじゃないか!」
俺たちを見送ったガブが「当てられちゃったなー」とこぼすのが聞こえた気がした。
ともだちにシェアしよう!