1 / 9

第1話(side大和)

 吐き出した息が白く変わり始めた、十一月中旬。夜の色を残した空の下を駅へと歩く。イヤフォンから伝わる振動が愛しい声を作る。 「大和って朝練だけは遅刻しないよね」 「だけって」  反論しかけたものの、視界に入った公園に、そこで蘇った光景に言葉が続かなくなる。見えていないとわかっているのに、思わず首に巻いているマフラーに顎を埋める。 「俺との待ち合わせはいつも遅刻だったのに」  怒りでも呆れでもなく、伝わってきたのは寂しさを孕んだ懐かしさ。機械を通じて響く伊織の声は記憶にあるものと少しだけ異なる。その差異に埋められない寂しさを感じることもあるが、比べることができるという事実に、ふたりで過ごした時間が薄れていないことを実感して安堵する。ちゃんと覚えている、と耳よりも胸が温かくなる。 「それは」  目の前の信号が赤に変わる。思わず腕時計に視線を落とすが、早めに家を出ているので余裕がある。朝の冷たい空気に馴染み始めていた体を止め、足を揃える。信号の隣に立つ桜の樹がその葉を緑一色から変えている。体感では秋というより冬に近い。一気に気温が下がったせいで寒さが厳しく感じられた。伊織がいるところはもっと寒いのだろうか。 「それは?」  うっかり飛び出た言葉を拾われ、外気に冷やされているはずの肌が熱を持つ。 「なんていうか」  目の前を過ぎていく車もこの時間はまだ少ない。いっそ声を掻き消してくれればいいのにと思ったが、伊織がそんなことで引き下がるとは思えず、仕方なく言葉を繋ぐ。 「伊織なら許してくれるってわかってるから」  だから甘えていた、と続けるハズだった言葉は急激に温度を下げた伊織の声に遮られる。 「それひどくない?」  え、と返す間もなく 「要は俺なら許してくれるって、俺のこと軽んじてるのと一緒じゃん」  そうじゃない。そうじゃないけどそもそもが甘えであることは自覚しているのでうまく反論できない。 「相手のことを大事に思ってたら早く来るのが普通だろ」  伊織だからいいや、ということではない。相手が伊織だからできること。何が違うのかと言われれば国語が苦手な俺にはうまく説明できない。決して伊織のことを大事に思っていないということはではない。  ふっと空気が動いたことで、信号が青になったことに気づく。周りから一呼吸遅れて歩き出す。体は自然と駅への道を進むが、意識は繋いだままの会話に向いている。 「それもあるとは思うけど、でも」 「やっぱそうなんじゃん」  八時間の時差を埋めるわずかなひととき。一日たった数分。その大事な時間をこんなケンカみたいなことで使いたくない。だけど、この会話のリズムが少しだけ心地良いとも思ってしまう。物理的な距離なんて関係ないくらいにいつも通りの自分たちにそっと息が漏れる。駅前のロータリーに入る。駅舎の中まではあと数メートル。電車に乗るまではあと数分。 「大体、大和はいつも」  トゲトゲした伊織の声もいいけど、このまま途切れてしまうのはやっぱりちょっと避けたい。 「……ごめん」  素直に謝れば、俺への文句を用意していた伊織の呼吸が途切れる。 「大事に思ってないとかそんなんじゃないけど、伊織に甘えてたのは確かだから」  駅構内のざわめきが膨らみ、自然と声が小さくなる。誰も聞いていないとは思うけど、大切な宝物を自分から見せる気にはならない。 「これからは俺も気をつけるから……ん?」  自分で言いながら気づく。そういえば伊織は絶対に待ち合わせに遅れないよな、と。それは決して俺に対してだけではないことはわかっているが、直前に放たれた言葉が再生され、じわりと胸の奥から熱が滲みていく。  ――相手のことを大事に思ってたら早く来るのが普通だろ。 「大和?」  途切れた声を不審に思ったのか、伊織の声が硬くなる。 「いや、伊織は俺との待ち合わせに遅れたことないなって」  敢えて「俺との」と入れる。返ってくる言葉がどんなものでもその答えが俺だけのものになるように。はあ、と間近で吐き出された息。直接触れることはないのに、耳の奥までくすぐられる。 「当然だろ。俺は大和と違って……なんでもない」  勢いよく放たれていた声が急速に縮む。言葉はない。表情も見えない。それなのに伊織が自分の言動を思い出しているのが手に取るように伝わってくる。耳の奥だけでなく胸の中までくすぐったくなる。形にしなくても通じ合う。それはとても嬉しいことではあったけど、同時にどうしようもない愛しさを引っ張り出した。こんなに想い合っていても飛び越えられない距離にもどかしくなる。声だけじゃ足りない。もっと近くで伊織を感じたい。愛しさは腹の底で抑えている願いを、欲を掬い上げる。  改札を抜け、階段を下りながらそっと息を吸う。 「伊織」  ざわめきに掻き消されそうなほど小さくても、伊織にはきっと届く。当たり前にそう信じている自分がいる。 「……会いたいな」  伊織が日本を離れてから三か月と少し。大人に言わせれば「まだ」とか「たった」とか付けられるような期間。でも俺にとっては「もう三か月」で「三か月も」でしかない。名前を呼べば振り返ってくれる、手を伸ばせば触れられる、そんな距離が当たり前だったのだから。  電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。 「――は、遅刻するなよ」  伊織の声が入ってきた電車の風に攫われる。聞き返す間もなく 「電車来たんだろ? じゃあな」  と素っ気なく切られる。素直な気持ちを口にした恋人にそんなのあり? と恥ずかしさよりも怒りが込み上げてくる。伊織が素直じゃないのは知ってるけど。朝のざわめきで満ちるこんな場所で同じように返されたらひとり顔が熱くなることも、学校に着くまで顔がにやけ続けることも予想できるけど。それはそれですごく困るけど。でも、もっと、なんか……。  車内はラッシュというほどではないが適度に混みあっている。反対のドア際に陣取り、イヤフォンを外す。ブレザーのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を確かめる前に振動が手の中で響く。 『年末、そっち帰る』 「えっ」  通知の吹き出しに並んだ文字を見た俺は、電車内であることも忘れて声を跳ねさせた。

ともだちにシェアしよう!