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第8話
「兄ちゃん、お会計間違ってるけど」
「えっ、」
かけられた言葉に、涼真はレジ画面を二度見した。バーコードを二重に読み込んでいる商品がいくつかあったようで、合計金額が割増しになっていた。涼真はすぐに取り消し操作をし、客に頭を下げる。こういったミスは、今日が初めてではなかった。
「原田、お前最近どうしたんだ」
「すんません・・・」
会計間違い、発注ミス、商品破損。
涼真はここ最近、バイト先で失敗を繰り返していた。以前なら出来ていた作業も、ここのところ失敗続きだ。今までの涼真を知っている店長は、彼を叱ることもそこそこにため息を吐いた。
「ここんとこおかしいぞ。何か理由があるんじゃないのか?」
「いや・・・すんません、ちょっと寝不足で」
「寝不足ってお前・・・。そんなんじゃ他のパートさんも心配するぞ」
「すんません・・・」
「ったく、しばらく休むか?大学が忙しいなら・・・」
「大丈夫です。迷惑かけてすんません。ちゃんと仕事するんで、いさせてください」
涼真は深々と頭を下げた。店長は驚きながら、クビにするわけではないと慌てて涼真に頭を上げさせる。
「お前が真面目なのは知ってるよ。わざとじゃないってのは分かってる。けど、体調が悪かったりするなら・・・」
「体調が悪いわけじゃないんです。ほんとに、寝不足なだけで・・・」
「はあ・・・分かった。無理はするなよ」
「っす。ありがとうございます」
「まあ、とりあえず今日は上がれ。帰って寝ろ」
「・・・はい」
店長に諭され、のろのろと帰り支度をする涼真。夕方に出勤して夜中まで働くのがいつものシフトだから、ほんの2時間ほどしか働いていないのは何だか変な気分だ。更衣室でごそごそと着替えていると、男性の同僚が「おつかれ~」と声をかけてくる。それに覇気のない声で返しながら、更衣室を後にした。裏口から外に出ると、ちょうどコンビニの出入り口からひらりとコートを揺らめかせて出てきた客が見えた。
「っ、みず・・・っ、」
思わず声を出しかけて、やめる。彼ではなかったからだ。こんなことも、もう何回目になるだろう。涼真はぐしゃりと前髪を掻き上げた。
「・・・来るわけねえか」
徒歩10分の帰路が、遠く遠く感じる。
瑞稀と連絡が取れなくなってから、1ヶ月が過ぎようとしていた。
最初は、忙しいんだろうと思っていた。元々、メッセージを送っても数日返ってこないことはあったから。だが彼は、隙間を見つけて「返事が遅れてごめんね」と必ず返事を送ってくれていた。だから、数日経てば彼からの返信があるとばかり思っていた。
『昨日は寝ちゃってごめん。片づけありがとな!昨日の埋め合わせしたいから、また空いてる日教えてほしい』
そう送った言葉に、返事がくることはなかった。3日経っても、1週間経っても、10日経っても。既読もつかなければ、着信もない。どうしたのかと追加でメッセージを送っても、同じことだった。まるで今までのやり取りなど嘘のように。
「どうしたんだろう」という疑問は、涼真の中でいつの間にか不安へと変わっていった。何か怒らせてしまったのか、気に障ることをしてしまったのか。思い当たることがないだけに、焦りだけがどんどんと募っていく。それと同時に、瑞稀に会いたいという気持ちも日に日に膨らんでいった。けれど、会いたいという言葉はメッセージにできなかった。この言葉にすら返事が来なかったら、本当の本当に打ちのめされてしまう。それが怖かったのだ。
だが彼を忘れることなど、涼真にはできなかった。会えないのなら待っていようと、彼はコンビニでのバイトを続けて、瑞稀が自動ドアをくぐってやってくるのを待ち望んだ。しかし待てど暮らせど、瑞稀がコンビニに訪れることもなかった。そこでようやく、涼真は現実を理解したのだ。
―――瑞稀さんは、もうオレに会いたくないのか。
そう思い至った瞬間、涼真は足元が崩れていくような感覚だった。
1人で浮かれて、部屋に招いたあの日が、最後だったのだ。
それに気づいてからは、何も手につかなくなってしまった。かろうじて大学には通い、バイトにも出勤しているが、涼真には何もかもが色褪せて見えていた。
「・・・・・はあ・・・」
涼真は玄関のドアを開け、体を引きずりながら真っ暗な部屋に入る。適当に電気をつけると、洗濯物やカップヌードルの空容器が散乱した部屋が明るく映し出された。掃除くらいしなければとどこか冷静な自分は理解しているけれど、体が重くてどうにも気が向かない。掃除なんてしなくても、どうせ誰も来ないのだ。以前なら友人たちが騒ぎにくることもあったが、今は彼らも忙しくしているため声をかけづらい。何より、瑞稀のことを話していないのにこんな荒れた様を見せて追及されるのが辛いのである。結局、涼真は荒れた部屋で独り過ごすしかなかった。
「はは、きったねー部屋・・・」
涼真は自嘲的に笑いながら、背負っていたリュックを放り投げた。そして窓際の床にペタンと座り、夜空を見上げる。星も何も見えない、どんよりとした空。今の涼真と同じようだった。涼真は一つ息を吐いた後、ポケットから煙草の箱を取り出して、机の上に置いてある安物のライターを手に取る。彼が取り出したのは、瑞稀がいつも買っていた銘柄の煙草だった。瑞稀がしていたのと同じように煙草を咥え、火をつける。ひゅっと息を吸い込むと、灰の中に一気に煙が入ってきてせき込んだ。
「げほっ、ごほっ、うえっ・・・」
何度やっても、彼のように上手くは吸えない。ただただ苦しくて、苦いだけ。それでも涼真は、煙草に火をつけることを止められないでいた。あの日鼻をくすぐった甘いバニラの香りが、瑞稀との最後の思い出だからだ。
あの日、部屋に招かず普通に出かけていたら。
あの日、欲を出して彼にキスをしなかったら。
あの日、眠気に負けないで彼を見送れていたら。
後悔ばかりが煙と一緒に浮かんでは消えていく。彼の煙草を買ってから毎日続けているこの行為にも、意味なんてない。ただ彼との思い出を忘れたくなくて、ずっと覚えていたくて。この香りが記憶にあるうちは、瑞稀との繋がりが消えない気がしているのだ。すべて、ただの自己満足だけれど。
「・・・何で、あの日に限って吸ったんだよ・・・」
いつもは涼真を気遣って喫煙する姿なんて見せていなかった瑞稀が、なぜあの日だけそれを曲げたのか。それは今も分からない。彼に直接聞かない限り、一生分からないだろう。しかし残り香とは、よく言ったものだ。どこにでも売っている、少し高い煙草の香り。それひとつが、涼真の心をこんなにも乱して、掴んで、離れることを許さない。会いたいと望む気持ちを消させてくれない。涼真はどうしたらいいのか、もう分からなくなっていた。
「・・・・・」
涼真が窓から外に漂っていく煙をぼーっと眺めて、どれくらい経っただろうか。静かな部屋に、唐突に軽快な音楽が鳴り響いた。涼真のスマートフォンが、着信を知らせる音だ。涼真は反射的にスマートフォンをリュックから引っ張り出して、画面を見た。しかしそこに映っていた文字は、彼が望んでいた名前ではなかった。
『姉ちゃん』
涼真に電話をかけてきたのは、涼真の姉・原田 涼香 だった。涼真は落胆のため息を吐いて、スマートフォンを放り出す。だが一向に音が鳴り止む気配はなかった。しばらく待っても着信が止まらなかったので、涼真はしぶしぶ通話ボタンをタップする。
「はいもしも・・・」
『ちょっと、もうちょい早く出なさいよ!』
「うるせえな・・・」
1秒で聞こえてきた文句に、耳をふさぎたくなる。だが姉とは、弟にとって絶対君主のような存在だ。涼香も例にもれず、弟の文句など聞こえてなかったように話を続ける。
『あんた最近生きてんの?』
「は?」
『こないだのビデオ通話で元気がなさそうだったって、ばあちゃんが心配してたんだってば。生きてんの?』
「あー・・・ごめん」
1週間に1回近況報告をしている祖母にも、涼真の様子がおかしいことはバレていたらしい。努めて明るく振舞ったつもりだったが、優しい祖母の目は誤魔化せなかったようだ。心配をかけているのは素直に申し訳なかったので、涼真は姉の言葉に逆らわず謝った。するとそれが意外だったのか、姉は電話越しに驚きの声をあげる。
『え、何?マジで死んでんの?体調悪いわけ?』
「や、そんなんじゃねえよ。寝不足なだけ」
『そんな声には聞こえないんだけど。マジで何があったの?』
「何もねえって。ばあちゃんにも心配しないでって言っといて」
『あんたねえ・・・。ばあちゃんはともかく、私のこと誤魔化せるとでも思ってんの?』
「・・・・・ほっとけよ」
『あんたがそれ言うときはロクな事ないのよ。まったく・・・じゃあ、焼肉でも奢ってあげるから出てきな。肉食べたら元気出るでしょ、あんた』
「・・・・・」
焼肉。
以前の涼真ならコンマ5秒で食いついた単語だ。だが今の彼にとっては、その2文字すら呪いのようだった。どうしたって、彼の姿を思い浮かべてしまうのだ。
「・・・いや、いい」
『え?』
「今は肉の気分じゃねえし、いい」
『・・・えっ!?嘘でしょ!?焼肉行ったら店の肉全部食い尽くす勢いで食べてるあんたが!?肉の気分じゃない!?何それ!!』
「うるせえな、そういうときだってあるよ」
『いやないでしょ!?』
「もう肉は卒業したんだよ」
『あんたが肉卒業できるわけないでしょ!永遠に留年してるくせに!本当に、何があってそんな・・・』
「今は外に食いに行く気分じゃねえんだって。姉貴だって忙しいだろ?別に・・・」
『分かった、外じゃなかったらいいわけね』
「は?」
『待ってなさい』
「えっ、ちょ・・・」
ブツっ。
涼真の返事を待たずして、涼香との通話が切れた。何だったんだ、と涼真は首をかしげる。待ってなさいとは、どういうことなのだろうか。彼の疑問は、数十分後に解決することになった。
「涼真!」
「・・・は?」
インターフォンの音も鳴らずに、玄関のドアがいきなり開いて先ほどまで電話越しに話していた声が聞こえてきた。涼真が戸惑っている間に足音がどんどんと近づいてくる。
「姉ちゃんが来たんだから出迎えくらい・・・ってうわ!?何この部屋!?」
「は?え?何で来たんだよ姉貴!」
無遠慮に上がり込んできたのは、涼香だった。彼女は手に提げていたスーパーの袋を床におろし、部屋の惨状を見て声を荒げる。涼真は慌てて立ち上がって彼女の前に立ちふさがった。
「あんた、こんな片付けできない男だったっけ!?」
「いや何しに来たんだって聞いてんだろ!」
「死にかけてる弟を心配してきてやったんです~!ちょっ、煙草臭いし!あんた煙草なんていつから吸い始めたわけ!?」
「いや、これは・・・」
「とりあえず掃除!あんた邪魔だからベッドに上がって!」
「うわっ、ちょ、姉貴、」
「やったげるから転がってなさい!!」
自分より一回りも二回りも小さい体に圧倒されて、涼真は言われるままベッドの上にすごすごと上がる。涼香は勝手知ったるといった様子で部屋に散らばっている洗濯物をかき集め、洗濯機に突っ込んだ。そしてゴミ袋を片手にゴミを回収し、掃除機をかけ始める。涼真はその様子をただただ見つめるだけ。1人暮らしの長い姉の手にかかれば、荒れた部屋はものの30分ほどで綺麗にさっぱりと片付いた。
「ほら、髭も剃れ!あんたそんな顔でバイト行ってんの!?」
「バイトではマスクしてるからバレねえし・・・」
「そういう問題じゃないでしょうが!清潔感!」
「へーへー・・・」
涼真は姉に言われるまま、数日ぶりに洗面所に立って髭剃りを手に取った。以前までは毎朝剃っていた髭も、最近では惰性で数日に1回手入れをするだけ。しかもずいぶん適当に。髭を剃り終わった顔を鏡で見ると、自分でも酷いものだと笑ってしまった。最近の乱れた食生活が祟っているのか、肌荒れも酷い。髪もボサボサで、まるで生気がなかった。これは確かに、周りに心配をかけてしまうレベルだ。
「剃った?」
「一応・・・」
「よし。じゃあ座ってて。姉ちゃんがご飯作ってあげる」
「え?いや別に・・・」
「どうせロクなもん食べてないんでしょ。味噌汁とかだけでも飲みなさいよ」
「・・・うん」
どうやら涼香が提げていたスーパーの袋に入っていたのは、食料品だったらしい。電話のやり取りで涼真が荒れた生活をしているのだろうと判断した彼女は、涼真の部屋で料理を作ろうとやってきてくれたのだ。涼真は姉の言う通り座って待ちながら、そういえば誰かとまともにしゃべったのは久しぶりだなとぼんやり考えていた。
「味噌汁だけでいい?」
「・・・生姜焼き、」
「え?」
「生姜焼き、食いたい」
「あんた、さっきは肉の気分じゃないって言ってたくせに」
「いいじゃん、別に」
「はいはい。言うと思って肉買ってきてるから。待ってなさい」
涼香はてきぱきと調理をして、あっという間に生姜焼きと味噌汁を作った。ご飯も炊けて、テーブルの上にはあの日と同じようなメニューが並ぶ。涼真はそれらを眺めた後、無言で箸を手に取った。そのまま、口を大きく開けて生姜焼きを一口で食べる。無言でもごもごと食事を続ける弟に、涼香は何も言わなかった。
「・・・うまい」
「そ?まあよかった。それで、何でここまで荒れてたわけ?就活に失敗したとかじゃないんでしょ」
「オレ就活してねえもん」
「あーそうだったっけ。実家戻るのか。それなら何?彼女にフラれた?」
「・・・・・」
無言になった涼真に、涼香は「当たりか」とため息を吐く。涼真はゆるく首を振った。他の誰に言えなくても、姉になら言える気がした。
「・・・彼女、じゃない」
「彼女じゃない?」
「おとこ、のひと・・・だから」
「!・・・あー、なるほど」
涼香は多少驚いたそぶりを見せたが、思ったより反応は薄かった。涼真は思わず彼女の方を見る。
「男同士だけど、何も言わねえの?」
「別に、今どき同性カップルくらいどこにでもいるでしょ。あんたが誰を好きだろうとそこに興味ないもん」
そうだ。姉はこういう人間だった。いい意味でも悪い意味でも、さっぱりとしている。やはり、一生頭は上がらなさそうだ。
「それで?そのお相手に手酷くフラれて、こんな子どもみたいな拗ね方したの?」
「・・・フラれたかどうかも、分かんねえんだ」
「どういうこと?」
「急に連絡、取れなくなって」
涼真は、ぽつりぽつりと今までの出来事を話した。先ほどまで口うるさかった涼香は、彼の話が終わるまで黙って聞いてくれた。
「そういうこと・・・。ほんとに心当たりないの?」
「色々考えたけど、全然分かんねえ・・・」
「まあ、聞いてる限りではあんたがしくじったわけではなさそうだけど・・・。事故に遭ったとか、そういうのではなくて?」
「それならたぶん、事後報告でも瑞稀さんの秘書さんから連絡が来ると思う。一応、オレの番号は教えてたから」
「あー、じゃあ違うか。そうなると、まあ・・・」
その先はさすがに言いづらかったのか、涼香も口を閉ざした。少しだけ明るくなっていた涼真の表情が、また沈む。姉として彼の恋愛事情はそれなりに知っている涼香だが、連絡が取れないというだけで弟がここまで変わるほどの相手は、今までいなかった。どちらかといえば来るもの拒まずで、それに加えて人が好くて優しい性格が災いして長続きしない。今までの涼真はそんな感じだったのだ。それがどうだろう、今の有様は。それだけ彼が、本気だったということだ。本気で、その「瑞稀さん」という人が好きだったんだろう。
「・・・ほんとに、もう会えないの?」
「え・・・・・」
「会いに行く手段とか、スマホ以外の連絡手段は?」
「いや・・・たぶんない・・・」
「じゃあ、諦めるの?」
「・・・!!」
涼香の鋭い声が響く。涼真は思わずたじろいだ。
「あんたは、諦めていいの?」
「っ・・・でも、実際どうしようもねえし・・・!」
「ほんとに?ちゃんと全部考えた?その瑞稀さんって人に会いに行く方法」
「・・・・・!」
「向こうが会いたくないって思ってたとしても、あんたが会いたいと思うなら1回くらい会いに行きなさいよ。何で会いたくないのか、聞きに行く権利くらいはあるでしょ」
涼香の言葉を受けて、今まで回っていなかった涼真の頭が急速に回転する。
瑞稀に会いに行く方法。瑞稀と会う方法。今まで考えたようで、考えていなかった。どうして連絡が取れないのか、会えないのか。考えていたのは、そんな事ばかりだった。涼真は必死に考えて、考えて、考える。どうしたら瑞稀に会えるだろう。
「・・・・・めいし、」
「?」
ぽん、と涼真の頭に浮かんだのは、瑞稀と初めて会った日に拾った、小さなカード。それは、一般的に「名刺」と呼ばれているものだった。勤めている会社や役職名と、持ち主の名前が書かれていて。場合によっては、所属している会社の電話番号や、住所が書かれている。そう、会社の住所が書かれている。涼真はそこまで思い至って、勢いよく立ち上がった。
「うわっ!?なに!?」
「名刺!!」
「はっ?」
「瑞稀さんに名刺もらったんだよ!!」
涼真は転がっていたリュックの中から財布を引っ張り出し、乱暴に開ける。瑞稀が焼肉に連れて行ってくれたあの日、彼は確か名刺を渡してくれたはず。せっかくなら、ともらった名刺は財布に入れたのだ。涼真の記憶は正しく、カードポケットの一角にその名刺は入っていた。彼の名前と、彼の会社名と、役職と。そして右隅の方に、会社の所在地が書かれていた。
「名刺って、その瑞稀さんって人の?」
「そう!これ、会社の住所だよな!?」
「・・・ほんとだ。当たりだよ」
「!じゃあ、ここに行けば・・・」
「普通はアポ取って行かないと門前払いだろうけどね。警察呼ばれるようなことだけはしないでよ」
「なんだよ、それ」
「暴れ回ったりとか」
「しねえよ!!」
「会社の近くをうろうろしてストーカーみたいに付け回すとか」
「もっとしねえっての!!」
「警察に呼び出されたら私からお母さんにチクるから」
「止めろって!!」
「はは、調子出てきたじゃん」
今までの沈みようが嘘のように、涼真の表情に生気が戻る。涼香にとっては生意気でムカつく弟だが、こうでなければ張り合いがないというものだ。
「・・・ありがとな、姉貴」
「貸し1つね。出世払いでいいから」
「何倍返しにさせる気だよ」
「ま、期待しないで待っといてあげる。とりあえず、当たって砕けてきなさいよ」
「おう」
涼真は名刺の真ん中にある愛しい名前を、指でなぞった。
―――・・・・・。
「ここ、だよな・・・」
スマートフォンと目の前のビルを交互に見て、涼真はごくりとツバを飲み込んだ。瑞稀の名刺に書かれた住所をスマートフォンに打ち込んで、辿り着いたのが目の前のビル。オフィス街の一角に建っていて、1階のエントランスからはスーツ姿の会社員と思しき人々が出入りしている。涼真の今の格好では、一発で部外者だと摘み出されてしまいそうな雰囲気だった。だが、当たって砕けるしかない。涼真は一度深呼吸をして、エントランスへと向かった。近くまで行くと、強面の警備員が2人立っているのが見える。知らない顔で通り過ぎようとしたけれど、案の定声をかけられてしまった。
「当ビルに御用の方ですか?」
「あ・・・その、この会社の社長さんに会いたくて・・・」
馬鹿正直に答えた涼真の顔をじっと見て、警備員は彼を押し戻すように前に出る。
「申し訳ありませんが、社長との面会はアポイントメントが必要となります」
「っ・・・・・」
涼真は姉の言葉を思い出す。普通、こういった会社で社長に会うとなるとアポが必要だと。社会人経験のない涼真にだって、それくらいは何となくわかっている。ここで怪しまれてしまえば、警察を呼ばれてもおかしくはない。だが、諦めきれなかった。涼真は恐る恐る、警備員に尋ねる。
「あの、オレ・・・原田涼真っていうんですけど、前からみず・・・竜田さんにお世話になってて。竜田さんから、オレの名前を聞いたこととかありませんか?」
「原田涼真さん、ですか?」
「はい」
「失礼ですが、そういったお名前は存じ上げませんね」
「そう、っすよね・・・」
涼真は肩を落とした。無駄な質問だとは分かっていたが、実際に現実を突きつけられると辛いものがある。たかが警備員に、社長の交友関係など伝わっているはずはないのに。
ここまで来て、ダメなのか。
涼真は視界が滲みそうになるのを堪えて、声を絞り出した。
「あの、もしできたらでいいんですけど・・・」
「何でしょうか」
「竜田さんに、原田涼真が会いたがってたって・・・伝えてもらえないっすか」
何を言っているんだ、という顔をされると思っていた。だが涼真の言葉を聞いた警備員は、彼の真剣な気持ちを理解したのか、しっかりと頷いてくれた。
「かしこまりました。社長に伝えておきます」
「・・・!あ、ありがとうございます!!」
涼真はガバっと頭を下げた。そして急ぎ足でその場を離れる。これ以上ここにいると、涙が落ちてしまいそうだったのだ。
「ははっ・・・やっぱダメかぁ・・・」
ビルを離れ、とぼとぼとオフィス街を歩く。そう簡単にいくとは思わなかったが、それでも落胆せずにはいられない。瑞稀の会社を訪ねることが、涼真に残された唯一の方法である気がしていたからだ。
「・・・どーすっかなぁ・・・」
涼真はポケットから瑞稀の名刺を取り出した。見つめても、何かを思いつくわけではない。どうしたらいいんだろう、と涼真はもう1度呟いて名刺をポケットに入れ直そうとした。
その時、ぶわっといきなりビル風が吹いた。
「っ、わ、」
思わず目を瞑った涼真の手から、小さな紙がするっと抜けて飛んでいく。
「あっ!!」
涼真は慌てて手を伸ばしたが、あと一歩のところで名刺は風に乗ってしまった。あれが無くなってしまったら、瑞稀との繋がりを今度こそ失ってしまう気がした。涼真は必死に追いかけたが、ひらひらと不規則に舞っていく名刺にはなかなか追いつけない。ビル街の雑踏の中、ついに見失ってしまった。
「っ、くそっ・・・!」
涼真は人目も気にせず、地面に目を凝らして名刺を探し続けた。しかし小さな紙1つをこのコンクリートジャングルで探すのは、困難を極める。誰かに踏まれて破れてしまったかもしれないし、植え込みの隙間に入ってしまったかもしれない。だが諦めたくはなかった。涼真は必死に探し続ける。
「なあ、ちょっと」
「・・・・・」
「おーい、そこの兄ちゃん」
「・・・え?」
屈んで植え込みに手を突っ込んでいた涼真の上から、声が降ってくる。最初は自分に声をかけられていると気づかなかった涼真だが、2回目の言葉で思わず振り返った。自分の後ろに立っていた男を見て、涼真は思わず叫びそうになる。
「みず、きさん・・・!?」
男は、髪色こそ違うが顔立ちや纏う雰囲気が瑞稀によく似ていた。瑞稀をもっと鋭くした感じだろうか。金髪で、両耳にいくつもピアスをつけていて、目つきが野性的だ。瑞稀とは違う意味で、迫力がある。
「あーやっぱり。もしかして、これ探してた?」
「えっ、」
「さっきそこで拾ったんだよ。これ探してたんじゃねーの?」
男が差し出したのは、涼真が落とした名刺だった。
「あ・・・ありがとうございます!!これっす!!」
「名刺探すなんて珍しーな。その会社に就職でもすんの?」
「いや・・・まあちょっといろいろあって・・・」
「ふーん。オレもその名前見てびっくりしたんだよ。それ、兄貴だから」
「・・・え?」
「そこの社長、オレの兄貴なんだよ」
涼真は男の言葉を聞いて、ずいぶん前の記憶を引っ張り出した。
確か、瑞稀は弟がいると言っていた。4つ離れていて、喧嘩して、それっきりの。
「兄ちゃん、名前は?」
「あ、え、原田涼真っす・・・」
「じゃあ原田くん、もしかして兄貴と知り合いだったりすんの?さっきオレのこと瑞稀って言ってたけど」
「知り合いっていうか・・・えーと・・・めちゃくちゃ世話になってて・・・」
まさか「恋人です」とはいえず、涼真は曖昧にごまかす。瑞稀の弟だと名乗った彼は、さほど興味がなさそうに頷いた。
「へーなるほど。あ、名乗ってなかったか。オレは竜田翔流。よろしくなー」
「あ、よろしくおねしゃす」
「兄貴と紛らわしいし、オレも名前で呼んでくれていいぜ。こんな感じで会ったのも何かの縁だし、どっかでゆっくり話さね?」
「え?」
「実はさー、オレ兄貴と喧嘩して家出たっきりでもう6年も帰ってねーんだよ。兄貴から聞いてるかもしんねーけど。6年も会ってねーからさすがに兄貴の近況とか気になるし、教えてよ」
翔流はニッと笑った。どこか有無を言わさない雰囲気だが、悪い人間ではなさそうだ。確かに彼の言う通り、これも何かの縁かもしれない。もしかしたら、瑞稀に会う方法だって見つかる可能性がある。涼真は彼の提案に頷いた。
「実はその、オレも聞きたい事があって」
「お、そうなの?じゃあちょうどいいじゃん。そこのファミレスでいい?」
「はい」
近くにあったファミレスに入り、2人は向かい合わせに座った。適当にドリンクだけのオーダーを済ませ、さっそく本題に入る。
「原田くん、若そうだけど大学生?」
「あ、そうっす。今3年で、もうすぐ4年になる感じっすね」
「へー。じゃあ兄貴とはめっちゃ離れてんじゃん。何で知り合いなの?」
「あー・・・えっと、オレがバイトしてるコンビニで瑞稀さんが買い物して、たまたま話す機会があって、って感じっすね。そこから世話になってるっていうか・・・」
「なるほどなー。ぶっちゃけ、兄貴って今元気なの?」
「・・・オレも、知らないんです」
「え?」
「その・・・最近、連絡が取れなくなって」
涼真は、ここ最近の出来事を怪しまれない程度にカモフラージュしながら、翔流に伝えた。涼真の話を聞いた翔流は、目をぱちぱちと瞬かせる。
「え、何それ?兄貴何やってんの?」
「それが・・・分かんなくて。翔流さんが瑞稀さんに会える方法知ってるなら、教えてほしいくらいで・・・」
「あ~そういうこと。聞きてーっつってたのはそれ?」
「はい」
「いや~、オレは兄貴に家追い出された身だからな~。会える方法はねーかも」
「そう・・・っすか・・・」
涼真は唇を噛んでうつ向く。今度こそ、今度こそすべての道を絶たれた。これ以上はもう、ダメだ。もう何も思いつかない。だが、明らかに落胆する涼真を見て何か思うところがあったらしい翔流は、少し考えて「あ!」と声をあげた。
「兄貴んち連れてってやろーか?」
「・・・え・・・?」
「兄貴んちってか実家だけど。たぶん今も実家に住んでるだろうし、待ってりゃ帰ってくるっしょ。オレは入れなくても、原田くんなら入れんじゃね?」
「え、けど、翔流さんは・・・」
「追い出されてるのに大丈夫かって?」
「あ、まあ・・・はい・・・」
「ん~・・・。あ、じゃあ実家連れてってやる代わりに、オレに協力してよ」
「協力?」
聞き返した涼真に、翔流はピッと人差し指を立てて「そう!」と頷いた。
「兄貴とオレが仲直りするのに協力してってこと。もうさすがにさ?6年も喧嘩しっぱなしってのは大人としてどうかなーって思うわけよ。けど、ここまで引っ張ったらどうすりゃいいかも分かんねーし」
「けど、協力って何したらいいんすか?」
「間に入ってほしーんだよ。オレも兄貴も、割と早く手が出るタイプだからさ。言い合いになったら「まーまー」って言ってほしいわけ。たぶん兄貴も、オレより原田くんの言うこと聞きそうだし」
「それは・・・分かんねえっすけど・・・。でも、瑞稀さんに会えるなら何でもするっす」
「お、いいねいいね。若いねー。じゃあ決まりってことで!行こーぜ」
「え、今からっすか?」
「善は急げって言うじゃん?タクればわりと近いし。いつも使ってるタクシー呼べばすぐ来るからさ」
翔流は涼真の返事を待たずに、スマートフォンを取り出してどこかに電話をかけ始めた。そのタクシー会社とやらにかけているようだ。急展開すぎてついていけていないのが正直なところだが、自分で道が拓けない以上涼真は彼に頼るしかなかった。
「10分くらいで来るって。とりあえず行って待ってよーぜ」
「あ、あざっす。じゃあ、よろしくお願いします」
「こっちこそよろしくー」
翔流の言ったとおり、タクシーは10分もしないうちにファミレスの前に停まった。タクシーというより、いわゆるハイヤーと呼ばれるような類の車種だ。もしかしたら、翔流も裕福な生活をしている人間なのかもしれない。
「どーぞ乗って乗って」
「あ、おじゃまします」
「んじゃー出して」
後部座席に2人が乗り込んだのを確認してから、運転手はアクセルを踏んだ。しばし無言が続いたが、窓の外を眺めていた翔流が唐突に涼真に声をかける。
「原田くんと兄貴って、何話すの?」
「え?」
「けっこう歳離れてるけど、話合うのかなって思ってさ。ぶっちゃけ、兄貴くらいの歳のやつとかもうおっさんじゃね?」
「いや、瑞稀さんは全然そんな感じしねえし・・・。けっこう色々話したっすよ」
「へー。何か意外だわ」
「そうなんすか?あ、でも・・・オレが話して、瑞稀さんが聞くってことが多かったかも」
「ふーん」
翔流はそこでいったん黙る。しかし少し間を開けて、淡々と話し始めた。
「・・・オレ、兄貴とは腹違いでさ」
「!腹違いってことは・・・」
「親父が一緒で、お袋がちげーってヤツ。まあ色々あって。オレのお袋が、親父の愛人ってヤツだったんだよ」
「な、なるほど・・・愛人・・・」
聞きなれない単語に、涼真はオウムのように返すことしかできなかった。そんな彼の様子は気にも留めず、翔流は続ける。
「ちっせー頃にお袋が死んで、親父のとこに引き取られたんだよな。そんで、オレを育ててくれたのが兄貴の母親でさ。親父も、自分が責任取るっつって面倒見てくれて。それから・・・半分しか血が繋がってねーけど、兄貴も普通に弟として接してくれたんだよ」
「・・・!」
「お袋がいなくなって、子ども心にオレどうなっちまうんだろって思ってたんだけどさ。兄貴がいてくれて、親父と母さんがいてくれたからどうにかなったって感じで」
「そうだったんすか・・・」
「だから、喧嘩して出てきちまったけど・・・ほんとは、どっかで後悔してたんだよ」
軽い口調の裏側に、翔流の本心が見え隠れしている気がした。涼真は彼と一緒になって、しんみりと返事をする。瑞稀も、あまり多くは語らなかったけれど、本当は翔流のことを憎く思っていたわけではないのだろう。
「じゃあ、今回で仲直りできるといいっすね」
「だな。そのためにもよろしく頼むぜ?」
「オレで何か役に立てるといいっすけど・・・」
「大丈夫だって。・・・さっき、何でもやるって言ってたろ?」
「え?」
翔流の声が、数段低くなる。すると突然、涼真の肌にビリビリと悪寒のようなものが走った。思わず翔流の方を見ると、彼の表情は先ほどまでとは違っていた。獰猛に口端を吊り上げる翔流。なぜかは分からないが、涼真の本能がマズいと警鐘を鳴らした。
「っ、翔流、さん・・・!?」
逃げ場がないと分かっていても、涼真は翔流から距離を取ろうと後ずさりをした。だが翔流はニヤリと笑ったまま、足元から何かを取り出す。それは、スタンガンだった。
「知らねーヤツにはついて来ちゃダメって、お母さんに教わらなかったか?」
「は・・・!?なに、っ!!」
抵抗する間もなく、バチバチと大きな音を立てるスタンガンを首に押し当てられる。涼真は痛みに呻く間もないほどすぐに、気を失った。
「エサにしちゃ図体がデカくてめんどくせーけど、まあしょうがねーか」
翔流はガクンと倒れ込んだ涼真を見下ろして、下卑た笑みを浮かべた。
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