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第9話

「ふ、はあ、っ──」 体の力が抜ける。 そのまま潰れると海袮(あまね)に全体重が掛かるので、横に転がろうとするのにこいつが離れやしない。 「おい離せ。疲れたんだよ」 「いいよ、俺の上に倒れて」 「あーっそ」 腕も我慢の限界だった。良いと言うなら遠慮なくのしかかる。うぐ、という声が聞こえたが知るか。 「ねえ秋良──俺すごい嬉しい」 そりゃ良かったなとか処女喪失がかとか、頭に浮かんだが口には出さなかった。出せないほど、真摯な声だった。 「……一目惚れだったんだよ」 俺に潰されて下から抱きつきながら、海袮は肩に額をすり寄せる。 「あー聞いた聞いた」 けれど分からない。暗がりでたまたま出遭った男、しかも言いたかないがこんなおっさんに、若い子供が一目惚れするか? もうお互い賢者タイムのはずだ。さっきまでの、熱に浮かされて正常な判断がつかないような状態じゃねえだろ。なのにまだそんなこと言うのか。 俺の疑問は顔に出ていたんだろう。不思議な微笑みを浮かべて海袮は言った。 「俺が秋良に一目惚れしたのは、一年以上前だよ」 「──は?」 「△△線、前から二両目。八時、○□学園前──」 なんだそりゃ。俺の通勤時に使う路線に乗る車両、降りる時間と駅……。 「はあぁ?」 「去年の四月十一日だよ。俺と秋良が初めて会ったの。秋良は俺の定期を拾ってくれた」 待て待て待て。なんのことだ。去年?定期? (──朝のラッシュ時。駅の改札を抜けた先で、目の前の学生が、鞄にしまい損ねた定期ケースを落とした。気付かない彼は足早に歩いて行く。それを拾い顔を上げるが、周りは同じ制服の学生だらけで、すでに誰だか分からない──。 『おい。落としたぞ。──カミシロアマネ』 俺は表面に印字された名前を読み上げた。 『え?』 一人の少年が驚いた顔をして振り返る。 『定期』 そう言ってやると駆け寄ってきてぺこりと頭を下げた。 『あ、ありがとうございますっ』 突き出したケースを両手で受け取る。 『おお』 少年の通う学園と職場は逆方向のため、背を向けた俺はその場を去った。 駅から出た通りには数本の桜が植わっている。ほとんどの花びらが散り、新緑が芽吹いているのに目が止まった。 桜、もう終わったのかー、気付きもしなかったな。 ふだん意識もしないのにそんな事を思ったのは、さっきの学生の制服がいかにも真新しく、新入生だろうと無意識に考えたからか。新入生は桜を連想させる……。けれどそんな感慨も次の瞬間には頭から抜け落ちた。会社に向かう足を早め、自分を含めてただの風景に(まぎ)れて溶ける──) あった……気がする、そんなことも。 だが、そんなことよりだ。 「そんだけ?」 「うん。すごくカッコ良かった。デキる大人の男って感じで」 「はあ……」 そんな前の話が今になって、なんでこんなことになってんだ。 「ちょっと良く分かんねーんだけど。去年の話なんだろそれ」 「だから一目惚れしたんだって。──それから毎日、秋良のこと見てた。会社は大通り沿いの□□商事だよね。苗字は知ってたよ。会社の人が呼んでたから」 「ちょ、」 「初めて男の人と腕組んで歩いてるの見た時は、ショックだったー。家帰ってすごい泣いた」 「……。」 「でも決まった人いないよね。一ヵ月に一度くらい、いつも違う男の人だった。だからさ、男でも良いんだって逆に嬉しくなったよ」 「」 「でも去年の八月頃に、同い歳くらいの男の人二人と三人で会ったじゃん……すごく親密そうだったよね。あの時だけ表情が違ったから気になってた」 「そりゃ、幼馴染みと高校の同窓生……くされ縁だよ。お前だっているだろ、学校に友達」 いや俺も答えてる場合じゃねえだろ。 「いるけど、秋良の方が大事だからどうでもいい。あとは基本的に仕事忙しくて、いつも夜遅いよね。ここ最近は特に。男の人と游ぶヒマもないくらいで──」 「──おまえ怖ぇよ!」 俺は堪らずに叫んだ。 それナニ、完全なストーキングじゃねーか。一年以上、知らずに行動を監視されてたってことだろ!? 俺がやったら100%警察案件だよな。 「──じゃあ今日会ったのは、偶然じゃねえのか!?」 「夏休みになったら、勇気出して告白しようって決めてた。だから、帰り待ってたんだ」 てへ。と海袮は小さく舌を出してみせる。 いや、そんなかわいー話じゃねえだろ。告白の前に『泊めろ』だったじゃねーか。 「怖えよ」 もう一度言った。 それに対して海袮はにっこり笑った。 「だって、好きになっちゃったんだもん」 もん。じぇねーよ。若いってずるくねぇ? そこでようやく気が付いた。 「おまえ高校生じゃねーか!」 「うん高二。二十歳って信じたの」 「信じてねえよ」 「付き合ってくれるよね?」 「はああ?」 目が本気だ。そりゃあ手を出した俺も悪いが、付き合うとなると話が別だ。 「いや無理だろ。年の差、考えなさいよ」 「秋良」 「あ?」 カショ。 「おま、なに撮ってんだよ!」 いつの間にか海袮の手にスマホが握られている。 「よく撮れた。これ完全に事後だよね。ヤバイよね。これが出るとこ出たら」 画面を確認してすぐにロックしてしまう。 嵌められた。高校生に。 「おれ本気だよ。ずっと見てたから、秋良の人柄もなんとなく分かってた。でも会ってみて、もっと好きになった」 今の行為のどこに、そんな要素あった?ドMかこいつ。 「おれ意地悪なひと大好きなんだよ。あんまり構ってくれない人とか、俺を邪険に扱う人とか」 真性のドMだった。 「──そんな簡単になあ……」 俺の性癖は筋金入りのドSだ。真剣に付き合った相手には、冷たいだの関心がないんだとか言って逃げられる。そうじゃねえんだよ、といつも言いたかった。 こいつには、それが甘い蜜になる──。 俺の内側でドス黒い欲望が、不穏な鎌首をもたげるのを感じた。 「そんなに俺が好きか」 「うん、大好き!えっちの相性も超良かった!」 即答だ。えろい単語入ってんのにキラキラが眩しいぞ。 こういうとき、一時の感情に流されないのが正しい大人なんだろう。 「あのな、セックスの相性ってなー……。初心者相手だから、あれでも俺すげぇー優しくしたの」 海袮がごくっと唾を飲み込んで俺を見た。怯んだわけじゃないのは、その瞳が物語っている。 「……もっと凄いの?」 海袮の頭を腕で抱え込み、低い声で聞かせてやる。 「もっと、凄ぇよ──」 こいつを俺の好きにできるとしたら。 「そんなの俺……秋良から離れられなくなる──絶対」 艶を含んだ声で海袮が言う。同じたくらみを抱えた者同士だと、解っている。 道徳なんてクソ食らえだ。それこそ今の海袮より若い頃から、それが俺の信条だった。 「お前がそのつもりなら──俺なしじゃいられないように、してやるよ」 そして俺に溺れて、依存しろ。 海袮の目を覗き込み、俺は(わら)った。 「一つだけ教えてやる。お前すげえ、俺の好みだよ」 たぶん甘い言葉を吐くことなんて、もう二度とない。

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