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第十五章

「ん……」  布団の中で玲於は目を覚ました。見慣れた天井――千景の家だった。 「あれ……?」  竜之介の家へ千景が迎えに来た時の記憶はある。千景が怒っていない事が分かって、玲於も千景と一緒に暮らしたいと伝えた後の事が玲於には思い出せなかった。  実際のところ、玲於はあの直後張り詰めていた緊張の糸が解け寝落ちたのだった。まだ少し風邪の影響もあったのだろう。千景一人では玲於を連れ帰る事もままならず、結果としては竜之介が車で二人を家まで送り届けたのだった。 「レオ、起きたか?」 「ちかにぃ……」  リビングから千景の声が聞こえ、のそりと起き上がった玲於は全身に毛布を纏ったまま這っていく。  千景はリビングで昨日の後片付けをしていた。食器は幾つか割れてしまっており、時間を作って新しい食器をを揃えようと考えつつ燃えないゴミとして分別していた。 「俺も手伝う」  おずおずと玲於が背後から耳の裏に口付けると、千景は一瞬固まり悩んだような素振りを浮かべつつも振り返ると玲於の頬へと唇で触れた。 「ん、良い子」  床に広がる調味料をキッチンペーパーで吸い取りゴミ袋に捨てていく。割れた破片で傷付いた床にはしっかり抉れた跡があり、総合的な敷金の返却が幾らになるのか考えただけでも頭が痛くなってきた。 「綺麗になるかなあ」  絞ったダスターで何度も繰り返し水拭きをする。真っ白な床に残ってしまった黒い染み。 「ならなくてもいんじゃね? いっそ引っ越ししちまうって手もあるし」 「引っ越し……」  それは昨夜竜之介にも打診されたことだった。またいつ御影が現れるかもしれない。それがすぐに起こることではないと千景は知っていたが、念の為居場所を移す事も視野に入れておけと言われていた。  この件で引っ越すとなれば必要な資金は本家が援助してくれる。敷金礼金――引っ越し費用は案外馬鹿にできないものなのだ。 「今度は二人で住みやすい部屋にするか。ダブルベッドが入る位の部屋だと良いかもなあ」 「ダブル、ベッド?」  今は二部屋あって片方の部屋にシングルベッドが一つ。部屋数が減ってもその分広さがあれば余裕をもってダブルベッドを置く事も出来る。風呂も浴槽が今より大きい物のほうが良いだろう。二人で入るにはやはり今の浴槽は狭過ぎるのだ。 「ん? 一緒に寝るだろ? 部屋分けたい?」 「寝る! ちか兄と一緒に寝る!」 「俺もレオと一緒に寝たい」  部屋を選ぶのならば次は玲於の意見を取り入れたい。そして今より職場に近くなれば通勤時間も減ってその分玲於と一緒に居られる時間も増えるだろう。そんな未来の事を考えるだけでも千景は幸せだった。 「あ、そういえばレオさあ」  普段あまり使う事のないパソコンを起動させ、夢物語としての新居探しをしながら思い出したかのように千景は声をあげる。 「はーい?」  千景に声をかけられた事が嬉しい玲於は即座に四つん這いで千景に近寄りその背中にぴったりと胸元をくっつける。  口に咥えていた煙草が危ないと、まだ半分以上残っていた煙草を灰皿へと押し付けて消化すると背後の玲於へと徐々に体重を預けていく。玲於もそれを受けて千景の体を受け止め最終的に千景は玲於の胸元に頭を預けて仰向けに寝る形となった。  無造作に服の上から置かれた玲於の手を取り指を絡ませながら、十年前とは大きさも形も違う手に思いを馳せ視線だけを玲於に送る。 「俺の初恋はレオだよ」 「……初、恋?」 「初めて好きになった人ってこと」  千景の「初めて」が悉く自分ではない事を玲於は酷く気にしているようだった。しかしそんな事を気に病む事も憤る必要も始めから玲於には必要なかったのだ。千景の気持ちが初めて向けられたのは玲於自身だったのだから。  その当時の想いは確かに今とは形が違うものだったのかもしれない。それでも千景が玲於を大切に想っていた事は誰にも否定が出来ない。 「っお、俺も! 風呂でちか兄がえっちな顔したあの日が! ちか兄に初恋した時!」  仰げば必死になって想いの丈をぶつける玲於の顔。耳まで真っ赤だった。千景が玲於をそういう対象として意識し始めたのもその一件が原因だろう。  ライクがラブになる事までは望んではいなかった。一緒に居られるならばそれで良い。千景はあの時そんな思いであの時竜之介からの同居の打診を受け入れた。もし玲於が他の誰かを愛したとしてもそれを受け入れる事が出来ただろう。千景にとっては玲於が幸せになる事が自分にとっての幸せだったからだ。  そんな事、恥ずかしくて絶対に玲於に言える訳が無い。 「あっそー、じゃあ出会った頃からレオの事好きだった俺の勝ちだな」  腹枕の上で寝返りを打ち玲於から顔を隠す。  千景が顔を隠してしまうと背面に居た玲於はもぞもぞと身を動かし、千景の体をゆっくりと自分の上から下ろすと今度は自分が上になるように覆い被さって唇を重ねた。今の玲於の心の躍動はキス一つでは到底伝わらない。  重ねた唇の奥へ、もっと深くと求め千景も玲於のそれに応じる。もっと欲しい、その欲求はやはり尽きる事は無かった。今の千景を抱いたらどんな顔を見せてくれるのか、今日はまた違う顔が見られるような気がする。 「んっ……」  胸元を押し返され千景から「待て」と制止の合図が入る。据え膳を前に待たされる姿は正しく犬のそれで、しゅんと眉を落とす様子に千景は柔らかい笑みを浮かべながらよしよしと柔らかい髪を撫で遣る。 「同情じゃねえんだよ。出会った時から俺はレオの事が好きだった」  形は異なれどずっと玲於の事だけを考え続けていた。その千景の言葉一つで玲於は再び耳を立てたように表情が明るくなり、千景が戯れに鼻先へと口付けると玲於は尻尾を振るが如くその首筋に口付けを落としていく。 「抱く事くらいは考えたけど、まさか抱かれるとは思わなかった」  考えたとしても千景からすればすぐに霧散出来る程小さな可能性。それだけ十歳年下というのはリスクを伴う存在だったのだ。 「俺はずっとちか兄とえっちする事だけ考えてた」  燦々と目を輝かせる玲於に千景は瞬きをして見返す。 「え、引き籠りの間ずっと?」 「うん!」  玲於の執着心を千景は侮っていた。小学校という小さな社会から弾き出されても玲於の信念は一切曲がる事が無かったのだ。千景のあの日の顔で精通を成した玲於はその日からずっと、一日足りとも途切れる事なく千景だけを思い続けていた。 「へ、へえー……」 「りゅう兄ととら兄は知ってたよ?」 「不憫過ぎんだろアイツら」  竜之介と虎太郎が頻繁に様子を見に来ていたのは玲於のこれが理由だったのだと千景はようやく理解した。十年間燻り続けた思いは侮れない。その間就職をしたりブラック企業でやり甲斐搾取をされていた千景に比べて、小学校に通わなくなってからの八年間、何をするでもなく玲於はずっと千景を抱く事だけを考えていたのだとしたら、それを竜之介と虎太郎が知らない訳が無いのだ。 「ママも知ってた」 「涼音さんごめんっ!」  叔母の墓に改めて謝りに行かなければと思った。

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