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終章

『新居の具合はどうだ?』 「おー上々。家賃も前よか安くなったし色々助かってる」  提案から数ヶ月後の八月一日、千景と玲於は当時の家から引っ越していた。 『レオはバイト始めたんだっけ?』 「そうそう、算数しか出来なかったから家に居る間山程ドリルやらせてさあ。バイトのほうは今日で丁度四ヶ月だったかな」 『元々ポテンシャルは高いからな。呑み込みも早いし』  希望通り千景の職場から近い1LDKに引っ越して四ヶ月ほどになる。引っ越しが終わった翌月突然玲於はアルバイトを始めると言い出した。千景から買い与えられた参考書を必死で解き続けた玲於はものの数ヶ月で中学卒業レベルの履修を終え、次は高卒認定試験を目標としているらしい。その意欲の高さには千景も目を見張った。 「そうそう、バイトの影響か知らんけど、レオが最近僕っ子になったんだよ。あの図体で『僕』って、何か、もっ、ほんっ、と……」  ただでさえ玲於は見た目が良い。虎太郎の徹底指導を受けて年相応の振る舞いも身に付いた玲於は家の近くのカフェで週五日アルバイトをし始めたが、接客の都合からか一人称が今までの『俺』から『僕』へと変貌していた。 『ツボってるとこ悪いが、今日六時で良かったか?』 「あ、ああ遅れるなよ。レオの二十歳の誕生日で酒解禁、とらの快気祝いと俺らの引っ越し祝い、少し早いりゅうの誕生日と、少し遅い俺ととらの誕生日だからな」 『まとめ過ぎだろ、贅沢か』 「んーレオがどうしても二十歳の誕生日はりゅうととらも呼びたいって言うからさあ」  学生を過ぎれば誕生日を祝う事や祝われる機会はそう多くない。玲於の二十歳の誕生日だけはきちんと行おうと千景は決めていた。ついでなので四ヶ月の間毎月存在する誕生日も纏めてしまおうという事になり、引越し祝いやその他諸々も全て兼ねてしまおうという事になった。  虎太郎の骨折も三ヶ月で完治し、今は元気に職場復帰をしている。鋏を握れないなどの後遺症は残っていないようだった。その事実は千景をとても安心させた。 「ただいまぁー」  少し遠くなった玄関から玲於が帰宅する声が聞こえた。 「あ、レオ帰ってきた」 『じゃあまた後でな』 「ああ六時に」  予定時刻も近付けば主賓でもある竜之介や虎太郎もやってくる事になっている。今日は予定があるからと玲於はアルバイトを午前中だけで帰らせて貰っている。  アルバイトを始めた事で外に出る切っ掛けが出来た玲於は、稀に千景が仕事で帰宅が遅くなる時一緒に夕食を食べに行く事もあるらしい。社会が自分を拒絶しない事を知った玲於はここ数日の間とても楽しそうだった。 「お帰りレオ」  荷物を置いた玲於は真っ先に千景に駆け寄る。ただいまのキスはいつまで経っても変わる事が無い。 「ただいまちか兄。電話してたの?」 「ああうん、りゅうとな。今夜の時間の確認」  千景がその手にしていた携帯電話が通話状態だった事を見ると、もう間もなくで宴が始まるその事に自然と玲於の表情が緩む。 「うふ、うふふ……楽しみだなあ」  千景は玲於が二十歳になるまで断固として喫煙と飲酒を禁止していた。しかし玲於が楽しみにしていたのはそれらに関する事ではなかった。 「乱交はしねえからな?」 「しないよ!?」  冗談だ、と笑いながら千景はカウチに腰を下ろす。少し贅沢かとも考えたがこれから二人で暮らしていく事や、今回の様に竜之介や虎太郎の訪問を考えると寛げる場所は作っておいた方が良いだろうと千景が購入したものだった。 「んっ……」  ヘッドレストに頭を乗せるように唇を重ねると、千景は玲於の片手を取って指を絡ませ握り込む。  この日の玲於は上機嫌だった。勿論二十歳という節目を迎えたという事もある。それ以上に玲於は竜之介や虎太郎の力を内緒で借りて、今日というこの日を楽しみにしていた。 「……ぁ、っん」  舌先で上顎の裏をなぞれば千景が小さな吐息を漏らす。最近に限った事なのか、千景は自分の弱いところや感じる時を隠さないようになった。それは玲於が自立をしてアルバイトを始めた時期とも重なる。 「ちか兄、エロい顔……」 「待て待て、盛んな。これから二人が来るんだから」  据え膳を前にしてこれ以上待つ事は出来ないと、玲於は以前よりほんの少し我儘になり千景の意思を考えずに自分の気持ちを優先するようになった。  それでも今日ばかりはまだ駄目だと玲於は千景の制止を喰らう。開けさせたシャツは千景自身の手によって再び隠され、玲於は抗議の意味も込めて両頬を膨らませる。 「ぶー」 「ぶーじゃない」  幾ら可愛い顔をしても今だけは駄目だと千景は宥める為に軽く口付けてから玲於の下からするりと抜け出る。カウチに再度座り直すと隣にちゃんと座るようにと叩いて指示を出し、玲於もそれに従い渋々ながら千景の隣に腰を下ろす。僅かに体重を傾ければよしよしと雑に千景は玲於の頭を撫でる。  足を組み、ローテーブルの上に置いた煙草を手にとって火を付ける。ケータリングの予約時間は間もなくで、掃除も済ませて特にやる事が無いと千景は息を吐いた。玲於は千景のカップの中が空である事に気付くとそのカップを持ってキッチンへと向かう。 「バイトのほうは今日給料日だったか?」 「うんっ、だからちか兄へのプレゼントを買って来たんだあ」  色違いで揃えた自分のカップも取り出し、コーヒーサーバの中に準備されていたコーヒーを注ぐ。 「お前の誕生日なのに?」  リビングに戻ってきた玲於からカップを受け取り、再び隣に腰を下ろすと頭を撫でる。 「いーの、お給料溜めて絶対買いたいものがあったんだから」 「分かった分かった。じゃあ楽しみにしといてやるよ」  千景に一切の隠し事をしない玲於でもこの時ばかりは特別だった。  時刻は十八時を迎え、ケータリングも到着し竜之介と虎太郎も遅刻せずに到着し様々な事柄を複合した祝宴が開始した。 「誕生日おめでとうレオ」 「おめでとう」 「りゅう兄、とら兄も。ありがとう」  互いが互いに誕生日プレゼントを贈り合い、届けられたケータリングを摘む。  試しに煙草を吸ってみるかと竜之介が差し出すが、玲於は初めての煙草は千景と同じ物が良いと譲らず、吸いかけだった千景の煙草をそのまま受け取った。慣れていない玲於は途端に噎せ、無理をするなと声を掛ける千景だったが大人の仲間入りの証として涙を浮かべつつ煙草を吹かせた。 「とらも退院おめでとー」  竜之介が玲於に煙草を肺に循環させる方法を丁寧に教えている間、千景は缶ビールを持って窓際で外を見る虎太郎に近寄った。 「退院自体はもう大昔の話だけどな」  傾けられた缶を当て、何の心配もないというように右手を開閉してアピールする。 「ちかは? レオの誕生日プレゼント何用意したの?」  虎太郎が玲於にプレゼントしたのは整髪料など自分の職業にちなむものだった。アルバイトをして外に出る事が多くなるからには身嗜みは適度に整えるようにと何度も言って聞かせた。 「決まってんだろ、プレゼントは『俺』」 「男らし過ぎんだろ……」  虎太郎からの質問に千景は鼻で笑う。大人の男性として必要なものは大抵竜之介や虎太郎が用意すると分かっていた。竜之介が渡したプレゼントは電動の髭剃りだった。その使い方もいずれ竜之介が教える事になるのだろう。  千景と虎太郎が二人で話している中、何やら小さな声で会話をしていた玲於と竜之介だったが、好機を探り玲於の背中を叩いた。 「ほら、レオ」  竜之介に背中を押され二人、もとい千景の元に歩み寄る玲於。竜之介から虎太郎への目配せが飛ぶ。状況を理解した虎太郎は何も言わずそっとその場を抜けて二人だけの状況を作る。 「えっ、あ……あの、ですね。今日バイト代が入ったので、大好きなちか兄にプレゼントを買ってきました、のです、よ」  玲於は後ろ手に何かを隠し持っていた。千景からはそれが何かはまだ見えなかったが、後ろから見ていた竜之介と虎太郎には丸分かりだった。ニヤニヤと笑みを浮かべながら、竜之介はあまつさえ携帯電話で動画を撮影している。  玲於が目の前に手を差し出した時、その中には小さな箱があった。もう片方の手で玲於はその箱の蓋を千景に向けて開く。  箱の中央に鎮座するはシルバーの輝くリングだった。 「僕と、結婚して下さい」  千景はそのリングに視線を落とし、続いて耳まで赤くした玲於を注視し、それからにやにやと笑みを向ける竜之介と虎太郎に視線を送った。 「……一応、お給料三ヶ月分、なんだけど」  視線を玲於に戻すと期待と不安の双眸が千景に向けられていた。二十歳の誕生日を迎えるその日、千景に結婚を申し込もうと玲於は決めていた。その為に竜之介や虎太郎の力も借り、玲於の給料三ヶ月分で買えるリングがどれになるか、刻印はするかなど水面下で画策していた。  見事に隠し切ったものだ、と言いたいところだったが実は玲於は隠しきれていなかった。玲於の携帯電話の検索履歴に『結婚指輪 給料三ヶ月 どれがいい』と表示された瞬間を千景は見た事があったからだ。  想定していたとはいえ、実際にそれを目前にすると感極まるものがあり、照れ臭さにはにかみながら、千景は箱を持つ玲於の手を包み込み、瞼を伏せて額を重ね合わせた。 「喜んで」

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