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第十三章

「ただいま、詩緒さん」  夜十九時過ぎ、那由多は詩緒の自宅扉を開ける。薄暗い部屋の中、手探りで照明のスイッチを入れると今朝出勤前と何も変わらぬ整頓された状態の部屋だった。内鍵を掛けチェーンロックを下ろすとネクタイを緩めながら寝室へと向かい扉を開く。 「良い子にしてた?」  敷き放しの布団の上には横たわる詩緒。両手両足をそれぞれ拘束されたまま、口枷を伝い流れ落ちた唾液がシーツを汚す。その表情は酷く虚ろで抵抗する気力すら失っているかの様に那由多へとただ視線を向けるだけだった。 「イきまくって疲れたでしょう? 水飲まないと」  詩緒の中へと捩じ込まれた玩具は鈍い振動を繰り返し、那由多が出勤している間何度も詩緒を絶頂へと突き上げた。シーツは詩緒の体液で汚れ、独特の臭いが室内中に充満している。  那由多は詩緒の上半身を起こし口枷を外すと口元へペットボトルの呑口を近付ける。注がれた水は詩緒の喉の奥へと流れ込む事は無く、拒絶するかのように口の端から流れ落ちる。 「……詩緒さん、心を殺して今をやり過ごせば楽だなんて考えてませんか?」  体内へ穿った玩具の柄を持ち唐突に振動を強くする。途端に詩緒の全身が電流を打ったように大きく跳ね、那由多の前で殆ど透明に近い体液を吐き出す。 「あッ、ぁ……も、や、っめ……」  息も切れ切れに詩緒は告げる。革と鎖で作られた手枷は詩緒の腕力では外す事が出来ず、後ろ手に今日一日格闘し続けた手首は赤く擦れ、所々血が滲んでいる。  奥の狭い箇所までを突き上げるように那由多は抽出を繰り返す。始めの頃こそそれに理性で抗おうとしていた詩緒ではあったが、繰り返される執拗な那由多の攻め立ては詩緒が何度意識を飛ばしても尽きる事が無かった。  それこそあの頃の様に、何も考えず心を殺してしまった方が楽だった。  ――助けて。  その言葉は誰にも届かない。 「もしかしたら、此処にも誰か来るかも知れない。二人で誰も知らない場所に逃げましょうか」  那由多が詩緒に掛ける言葉はまるで愛しい恋人に話しているかのようだった。舌先で詩緒の乳首を転がし、片方の手では爪を立てて激しく嬲る。 「やっ、んんっ……あっ、く……」  既に気力も無い筈が与えられる刺激には敏感に反応を示し始め、身体のバグだと詩緒は認識する事にした。連絡の付かないこの状況に真香や斎ならばすぐ異変に気付くだろう。家に様子を伺いに来るのも時間の問題だと考えていた詩緒は那由多から告げられる言葉に絶望の暗闇へ突き落とされた様な気がした。 「新しい部屋は完全防音にしましょう。俺が仕事に行っている間は見守りカメラでいつでも詩緒さんのイき狂う姿を見守ります。良い案でしょ?」  頭のネジが外れている所の話では無く、完全に狂人のそれであると詩緒は浅い呼吸をひたすら繰り返した。耐えればいつか必ず終わる強姦ではなく永遠に続く地獄。それ程の罰を受けなければならない程の罪を自分が犯したというのか、玩具を抜かれて足枷を外され、シーツの上へと寝かされた詩緒は代わりにあてがわれる那由多の聳り勃つ雄をただ呆然と見ていた。 「……い、やだ……やめろ、赤松……」  今まで一度も口に出した事の無い拒絶の言葉。那由多が腰を押し進めるとみしりと押し拡がる感覚に詩緒の呼吸が奪われる。 「恋人に『嫌だ』なんて、今日の詩緒さんは少し疲れてますね」  伝わらない言葉にゾッと悪寒が走る。 「……い、いや、だ……たすけ……」  ――お前さあ、何で『助けて』も言えねえの?  綜真の声が詩緒の頭に響いた。気が付いたら群がる複数の男達は全て地面に伏せっており、その時の綜真にかけられた言葉だった。  那由多の肉棒が内臓を押し遣り、込み上がる吐き気。  音楽が鳴り始めた。那由多のスマートフォンからだった。 「ちっ、誰だこんな時に……」  手を伸ばしてスマートフォンを取った那由多は液晶に表示された発信元が取引相手だと分かると半ばまで挿入っていた根を引き抜きスマートフォンを持ってキッチンへと向かう。 「お世話になっております、赤松です――」 「……ぐ、ぅ……ぇ、うえ……っ……」  那由多から解放された詩緒ではあったが、胃から込み上がる不快感に身を俯せに返してシーツの上に胃液を吐き出す。丸一日何も食べていなければ胃液しか出ないのは当然だった。酸化した臭いが余計に気持ち悪く、更に詩緒の嘔吐感を煽る。  ボーナスタイムは今だけで、電話が終われば戻ってくるであろう那由多が何をするかは明白だった。幸いな事に口枷と足枷は外されていた。しかし立ち上がろうとしても腰から下が別物のように上手く動かない。  助けてと叫んでも、誰も助けてはくれなかった。綜真以外は。  ピンポン、と軽快な電子音が鳴る。玄関の呼び鈴だった。真香か斎か、どちらかが様子を伺いに来たのか。一瞬の静寂があった。 「……すみません、後程折り返します」  那由多は急ぎ着信を切り寝室へと戻って来る。詩緒の嘔吐を一瞥したのみで詩緒の肩を掴み仰向けに寝かせると声を出せないように詩緒の口を手で覆い塞ぐ。  再び鳴る呼び鈴。すると続けて扉が外から叩かれる。 「――詩緒、中に居るんだろ?」  外から聞こえてきたのは綜真の声だった。詩緒の瞳孔が震えたのを確認した那由多は口を塞ぐ片腕に体重を乗せて圧を掛ける。 「詩緒」  再び聞こえてきた綜真の声。今何のリアクションもしなければ綜真は行ってしまうかもしれない。那由多は玄関の様子に注視していて口を塞いだ詩緒の事まで同時に確認する事が出来ない状態だった。  詩緒は自由に動かせる片足を那由多に気付かれないようゆっくりと動かし、タイミングをはかって一気に那由多の脇腹を蹴り上げた。喧嘩すらした事のない詩緒には腕力どころか脚力も皆無ではあったが、一瞬だけでも口を塞ぐ那由多の手が弱まればそれで良かった。 「なっ、……!!」  玄関の動向を気にする中、突然脇腹を蹴り上げられ那由多の腕が緩む。 「そうま、……綜真っ! 俺此処に居る、助けて!!」  詩緒が叫び綜真に助けを求めたのと、綜真がチェーンロックごと玄関扉を蹴破ったのはほぼ同時だった。 「詩緒っ……」  乱雑に靴を脱ぎ捨て開け放されたままの寝室の中へと綜真は足を進める。其処に居たのはほぼ全裸の詩緒とその上に覆い被さる那由多の姿。何が起こっていたかは一目瞭然で、綜真は那由多の襟元を鷲掴むと右手の拳で左頬を殴り飛ばす。引き戸ごと隣の部屋へと倒れ込み昏倒する那由多。  部屋中に広がる体液の痕跡と放置された拘束具と玩具。目を覆いたくなる程痛々しい光景に綜真は胸を締め付けられる。 「綜真……」  綜真は詩緒の背後へと回り後ろ手に拘束されていた手枷を外す。両腕がようやく解放されほっとした詩緒の背中から綜真は自分が脱いだ背広を羽織らせる。 「怖かったな、もう大丈夫だから」 「そ、ま……綜真……」  震える声で綜真の名前を呼ぶ。もう地獄は終わった筈なのに全身の震えが止まらない。ずっと昔にも同じような状況があったような気がした。その既視感が以前綜真に助け出されたあの時の事だと気付くと詩緒の目から大粒の涙が溢れる。  ガタンっと大きな物音がして詩緒の背中が大きく跳ねる。綜真は咄嗟に詩緒を守るように背後に庇うが、那由多が飛ばされた隣の部屋ではただカーテンが揺れているだけだった。詩緒をその場に座らせたまま慎重に綜真が隣の部屋の様子を見に行くと、隣の部屋には誰も居らずガラス戸が開けられており那由多が逃げたようだった。 「……居ねぇ。逃げたな」  頭を掻きながら詩緒の部屋に戻ると、詩緒がぼろぼろと涙を流している姿を見て綜真はぎょっと目を丸くする。 「どうした、もう怖いモンは無ぇんだぞ」  詩緒の目の前に腰を下ろして右手を頬へと伸ばす。大きくて無骨な綜真の手が詩緒は大好きだった。無意識に頬を手に擦り寄せ安堵する。悲壮の色しか浮かんでいなかった詩緒の表情が少し和らいだ事に安心した綜真はそのまま顔を近付けそっと互いの唇を触れ合わせる。 「……詩緒、お前の事が好きだ」  唇を離した後綜真は詩緒を見つめながら言う。目の前の綜真に何を言われているかも分からずただぼんやりと見つめていただけの詩緒だったが、やがてその言葉の意味が分かるとはっとして目を丸くした。 「俺達の出会いは最悪だった。順序を間違えた。俺が全部悪い。殴った事も。あの時の事は一生許さなくたって構わない。だけど俺は変わらずお前の事を愛してる。……俺と、付き合ってくれねぇか?」  起きたまままだ夢を見ているのではないかと、詩緒は目の前で起こっている事が現実だとは思えなかった。傷付け合う事しか出来なかったあの頃、一度も綜真が詩緒にくれなかった言葉。  子供だった頃は一度も素直に言えなかった。先日も詩緒は綜真に伝える事が出来なかった。『好きだ』と。 「綜真っ、俺も――」  言い掛けた所で詩緒は我に返った。部屋中に広がる体液と吐瀉物の臭い。一度でも那由多の気持ちを受け入れてしまった自分にそんな事を言う資格があるのか、今まで自分は何人の男を銜え込んできた? この数年は真香と斎だけだったとしても、自分が求めた事ではないとしてもそんな自分が伝えても良い言葉なのだろうか。  許されたのは綜真を刺した事実だけ。現にあの後無意識に行おうとした事で一度は綜真に拒絶された。  ――綜真に好きになって貰えるのは、こんな汚れた自分では無い。 「お、俺……綜真が思う程綺麗じゃない……」 「詩緒?」  そして詩緒は再び自分が犯した過ちに気付いてしまった。否定して欲しいが為に自らを卑下する言葉は、また綜真を疲弊させてしまう。何一つ変わっていなかったのだ自分は。このままではまた綜真の事を傷付けてしまう。 「……俺、駄目なんだ……まだ全然ガキで。お前に、思って貰えるような奴じゃない……」 「誰もそんな事言って――」 「ごめんっ……ごめん綜真……」  何度も見続けた詩緒の泣き顔に綜真は息苦しくなった。自分はどうして詩緒を泣かせる事しか出来ないのか。泣かせたくないから、今度こそは守りたいと思ったのに。 「詩緒、もう良いよ」  詩緒の目元に浮かぶ涙を指で拭い取る。拒絶されている訳ではない、焦る必要は無い。今は側に居られるだけで十分だ、例えその関係性に名前が無いものだとしても。

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