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第十四章

 那由多が複製した鍵を持っているのならばこの部屋はもう危険だと、綜真の提案で詩緒は今晩の居を移す事にした。  このタイミングで綜真の家に詩緒を泊める事はお互い気不味くなるだけでもあり、幸い真香や斎という詩緒にとっては信頼出来る友人も居る事から、綜真が今晩は真香の家に泊まってはどうかと提案する。  那由多に奪われたスマートフォンは玄関に置かれており、電源を入れると真香から怒涛の着信履歴があった。通話では簡単な状況を説明し、綜真にタクシーで送って貰うからと伝えた詩緒は綜真に見張りを頼んだ上で簡単にシャワーを浴びて全身を洗い流す事にした。  部屋の片付けは落ち着いてからしようと考えていた詩緒だったが、詩緒がシャワーを浴びている間に綜真は手早く荒れた部屋を片付けゴミとして纏め高い彼氏力を見せ付けた。  鎖骨の出る黒いニットと別の黒ズボンを履いた詩緒の姿は何処からどう見ても黒猫だ、と綜真はかつて自分の家に居た飼い猫の事を思い出す。 「歩けるか? 無理そうならタクシー乗るまで抱っこしてやるけど」 「…………やだ」  心底嫌そうな表情を向けられ、綜真の心は少し傷付いた。  綜真はタクシーに同乗し、詩緒を真香の家に送り届けるまでしっかりと見守っていた。このまま那由多の件は四條に報告し、那由多の処遇は四條に任せる事となる。まだ辛いのなら明日一日ならば休んでもタスクに影響は無さそうだったが、詩緒は意地でも出社すると言って聞かなかった。 「じゃあ本田、詩緒の事頼むな」 「はいはーい」 「真香、飯作って腹減った……」  食べる元気があるなら大丈夫だろうと綜真は扉が閉まった事を確認してから真香の家の前を去る。まだ気は抜けなかった。逃亡した那由多がタクシーの後を着いてきていないとも限らない。綜真は真香の部屋が見える距離で数十分時間を潰して異変が無い事を確認してから帰宅をする事にした。 「丸一日食ってないなら胃が驚くだろ。スープとかで良いか?」 「何でも良い……」  ふらつきながら詩緒はベッドに向かうと倒れ込むように横たわる。この数日様々な事が起こりすぎて詩緒の頭はパンク寸前だった。 「これでめでたく御嵩さんとゴールイン?」  キッチンから調理する真香の声が聞こえる。寝返りを打ち天井を仰ぎ見ながら綜真に言われた言葉を頭の中で反芻していた。確かに綜真から好きだと、愛していると伝えられた。あの頃は恥ずかしがり、それ以上突けば怒ってしまい決して言葉では伝えてくれなかった綜真が。もう六年も経っている、成長していて不思議でも無いのだ。あの頃とは違う。しかしそれは自分も同じで、幸せだと思えた時程純粋に綜真に触れる事が出来ない。 「……そんなに簡単じゃねぇよ」 「抱かれちゃえば良いじゃん」 「他人事だと思って……」  深皿に入れたスープを持って真香が寝室へ入ってくる。詩緒はベッドから身を起こし温かい香りがするスープに自然と表情が緩む。真香は片膝を立ててベッド脇に腰を下ろすとレンゲでスープを掬い呼気を吹き掛けて冷ます。 「……自分で食えるんだけど」 「良いから口開けろ」  腑に落ちないながらも真香が口元へと運ぶレンゲを招き入れて温かいスープを喉の奥へと流し込む。 「榊さ、もしかしたら自分で気付いてないかもしんねぇけど」  レンゲの持ち手を上へと傾け注ぎ込むとそのまま手を引き真香は深皿にレンゲを戻す。 「御嵩さんの事、最初からずっと名前で呼んでんの気付いてた?」 「え……?」  恐らく詩緒自身が無意識だったのか、詩緒には親しくなった相手を名字ではなく名前で呼ぶという癖があった。それは警戒心の強い詩緒が相手に対して心を開いている証拠であると真香は他者を見る時、指針の一つとしている。  スープの深皿をテーブルの上へと置いた真香はベッドの上へと乗り詩緒の身体を跨ぐ。 「真香……」 「御嵩さんは俺らがセフレ関係だって知ってるよ」  真香の一言に詩緒の目の前が一瞬真っ暗に閉ざされた。隠し通せる訳が無かった。分室というあんなに狭い空間の中で。綜真には那由多との行為の一部を見られていた。軽蔑だってされていたに違い無い、それなのに何故自分に対してあんな言葉を告げたのか。ぐるぐると巡る思考の中、とんと肩を押されベッドの上へ仰向けに倒れる。見上げる真香の顔。 「お前が断んねぇのは……御嵩さんの事刺したって自分への罰の為?」 「――ッ!!」  ニットの裾を捲り上げる。白い肌に残るはまだ消えきらない幾つかの痣の痕。中でも胸元に鮮明に残る歯型を見て真香は眉を顰めたが徐ろに片手を滑らせ突起を指先で摘み上げる。 「っ、ぅん……真香ッ……」 「止めないと、また俺に犯されるよ。それで良いの?」  この状況で断らないのは同意と同じと真香は指の腹で周囲をなぞりつつ詩緒の様子を伺う。 「こんな、俺……綜真が、好きになってくれる訳……無いっ……」 「自分で御嵩さんに聞きゃ良いじゃん。三年間ヤりまくりの中古でガバガバのゆるまんだけど愛してくれますかって」 「っ、ゆるまんじゃ、ねぇっ……」 「確認してやろうか?」  爪先で突起を弾くと真香は詩緒のズボンへと手を掛ける。 「待って真香、待っ……」  咄嗟に詩緒は真香の手首を両手で掴む。それでも真香が制止を振り切りファスナーに手を掛けると詩緒の指がぴくりと動く。 「まだ……何を躊躇ってんの?」  綜真に刺した事を謝罪する時と同様に言葉が詰まった。同じ位に詩緒にとっては重い言葉だった。原因が何だったのかはもう明確には覚えていない。しかし真香とのこの行為を受け入れるきっかけは真香をこの世界に繋ぎ止める為だった。それが自分のエゴだと分かっていても、目の前で死を選ぼうとしていた真香を詩緒は何としてでも引き留めたかった。 「俺が……」  ――この手を離したら。 「俺が、綜真のとこ行ったら……真香と斎は、どうなる……」  斎はああ見えて依存心がかなり強い。綜真の手前近付くなと伝えたら斎がどうなるかすら今の詩緒には想像が付かない。  真香を生かす為に続けてきた関係だった。それを自分から反故にしたならば、もしかしたら真香は―― 「……ああ、何だ。そんな事かよ」  予想外の回答に真香は呆気に取られた。もっと奥深い根があるのかと考えていれば詩緒の行動原理が自分達を思うが故と知り、真香の胸に熱いものが込み上がってくる。  真香が身体を求めれば詩緒は決して断らない。それは真香が生きる事と引き換えに詩緒の心臓に抜けない黒い楔を打ち込んだからだった。――自分を拒否したら死んでやる、と。  原因が自分にあった事を知り、三年間忠実にそれを守り続けていた詩緒から深く強い友情を感じた。自分の手を掴んでいるから詩緒は今好きだと思う相手の元へと向かう事が出来ない。自分の愚かさが情けなく、気付いた時真香の頬には温かい涙が流れていた。 「真香……?」  異変を察した詩緒は上半身を起こす。静かに涙を流し続ける真香の背中に手を回して抱き寄せる。 「もう良いんだ、もう良いんだよ榊……」  心から自分の心配をしてくれる詩緒と斎という存在が居る。それだけでも真香はどれ程救われてきたか分からない。三年間大切に思われてきた事を誰よりも真香自身が一番良く分かっている。  顔を上げた真香は詩緒に触れるだけのキスをする。 「他人の事より自分の幸せの事を考えろよばーか……」 「……真香は他人じゃねぇよ」  ――ああ、そうだったな。  いつだったか詩緒は同じような事を真香に告げた。毎日の地獄から逃げ出したくて、呼び寄せられるように電車に飛び込もうとしたあの日に。  両腕を詩緒の背中へと回し服を強く握り締める。真香にとって詩緒は唯一の存在だった。自分が傷付いてでも真香に生きていて欲しいと願った、たった一人の存在。 「……俺らも、セックスしなくても友達で居られるんだぜ……?」  身体の関係だけが相手を繋ぎ止める手段では無い。身体の関係が無くても詩緒は綜真と恋人関係で居る事が出来た。斎の依存心は多少心配な部分があったが、同じ詩緒の幸せを願う友人として話して理解出来ない訳が無かった。 「御嵩さん追い掛けて、ちゃんと伝えて来いよ」  ニットの裾を下ろして整え、ぽんと詩緒の腹を叩く。まだ綜真が帰宅してからそれ程長い時間は経過していない。タクシーで送り届ける程過保護な綜真の事だ、恐らく数分は部屋の前で異変が無い事を確認してから帰宅している筈だからまだ付近に居るかもしれない。 「だけど……」  この期に及んで未だ躊躇いを見せる詩緒がどうすれば言う事を聞くのか、真香は十分理解をしていた。詩緒の上から、ベッドの上から下りぽんと詩緒の腿の上へ手を置くとそのまま手を付け根へと滑らせる。 「行かないなら……四條さんにお前のハメ撮り見せる」 「ッ!! 行って来る!!」  真香の告げた言葉にサッと詩緒の顔が青くなる。見せられたところで敬愛する上司の四條は困惑するだけだろうが、かと言って見られる訳にも行かない。スマートフォンを片手に握り締めて詩緒はベッドから立ち上がる。 「行ってらっしゃーい。御嵩さんの住所は斎から榊に送るように連絡しとくわ」  玄関で靴を履く詩緒の姿を見守りながら、詩緒がこれから向かう事を予め綜真に伝えておくべきか真香は考えていた。 「……真香」  靴を履いた詩緒は一度真香を振り返る。 「あんだよ」 「……ありがとう。大好き」  顔を近付け、耳元で囁かれた言葉。その後すぐに詩緒は扉を開けて出ていく。 「ッ、俺じゃなくて御嵩さんに言えよっ!!」  真香は耳まで赤くしながらその場に腰砕けになって屈み込んだ。

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