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第十五章

『――そうか、榊は無事だったか』 「赤松は逃げちまって何処行ったか分かんねぇ。自宅じゃねぇだろうし明日出勤してくる事はまず無ぇと思うけど、警察沙汰にして良いモンかどうかも……」  綜真は自宅までのそう遠くない道のりを徒歩で帰宅しながら事の顛末を四條に電話で伝えていた。溜息から電話越しでも眉間を抑えているのだろうという四條の苦悩が伝わる。  以前からセキュリティ面の強化として分室に寮制度を導入するという計画が四條の中にあったが、今回の一件でよりその方針が強固なものになる。 『そこは榊の意思を確認してからやろ。明日は出勤するて?』 「意地でも出勤するって言ってたな……アイツ頑固だし」 『そんな榊を六年間も忘れられなかったんは自分やろ』  深夜になれば人の通りも少ない閑静な住宅街。街灯だけが真っ暗な道を明るく照らし、綜真は僅かに声を落としながら肩を竦める。 「……何か、訳分かんねぇ振られ方したけどな」 『しょーもな。押し倒せや根性無し』 「あの状況で出来っかよ……」  焦る必要は無い、首の皮一枚で繋がっている状態の綜真だったがまだこれからで、時間は十二分に有る。少しずつでも心を許してくれるようになれば昔のようにはなれずとも近くに居る事は出来るだろう。  正直なところ、詩緒が真香や斎とセフレ関係だと聞いた時綜真の心は激しく掻き乱された。六年前当時の詩緒はどう見てもそういった行為が好きなように見えなかったからだ。  あの頃照れ臭くて一度も伝えられなかった言葉は今なら伝えられた。そして詩緒の方からも自分の事を憎からず思っている事は伝わっていた。  何よりも詩緒が自分の名を呼んで助けを求めてくれた事が綜真にとっては大きな変化だった。 『綜真、神戸に戻りたいか?』 「……今はまだアイツの側に居てぇな」 『分かった』  四條との通話が終了し、スマートフォンをポケットに放り込んだ時綜真は自分の家の前に到着していた。たった半月前従兄の四條から本社勤務をしろと言われて用意された自宅。本家の四條はある程度の資産を保有していて、このマンションも資産の一つだった。四條なりの配慮だったのか、ペットの飼育は可となっていた。  大学時代に飼っていた黒猫は詩緒と別れて間もなく息を引き取った。大声で言い争うばかりだったあの頃、年老いた猫にとっては大きなストレスだったのだろう。詩緒に次いで飼い猫すらも失った綜真が、全てを捨てて単身神戸に移り住む事に躊躇いは無かった。  ――この猫、名前何て言うんだ?  ――……『佐藤』。  ――お前のネーミングセンスさあ……。  詩緒と出会うほんの少し前に出会った黒猫に綜真は『佐藤』という名字のような名前を付けた。猫なのに『佐藤』はおかしいと詩緒は言ったが、そのままで良いと綜真は敢えて名前の理由を詩緒に告げる事はしなかった。  動物は特に好きではないと言っていた詩緒だったが、佐藤と遊ぶ時は内側から喜びが滲み出ていた。勿論本人はそれが気付かれていないと思っていた。不用意に手を伸ばせばまだ身体をビクつかせる事もあった詩緒だったが、綜真が背中を向けていると気付けば側にくっついて来ていた。黒猫が二匹も居ると思いながらあの頃の綜真は満たされていた。  あの頃のように、自分から押さずに様子を見ればまた詩緒から近付いて来る事もあるかもしれない。  どん、と綜真の半身に誰かがぶつかった。 「あ、すいませ――」  薄暗い夜道だからといって対面から現れる人物を避ける事を怠ったと綜真はすぐに正気に戻り避けようとするが、相手は綜真にぶつかったまま微動だにもしなかった。  ――アツイ。  腹が焼けるように熱かった。夏と呼べる時期は過ぎたのに綜真の額に汗が滲み出る。 「お前、っ……」  綜真は目の前の人物を引き剥がそうと肩を掴む。相手は全身の体重を乗せて綜真を民家のブロック塀へ押し付ける。街灯の光が反射して相手が手に持っているものが見えた、それは刃物か何かの柄だった。 「……アンタが居なければ、詩緒さんは俺のモンだ」 「赤、松……ッ」  那由多のその瞳には狂気の色が宿っていた。那由多が離れると綜真はブロック塀を背にずるずると滑り落ちる。那由多が手を放した柄は綜真側に残っており、刃は綜真の腹の中にあった。那由多は屈み込み柄に手を伸ばす。 「待っ……」  綜真が伸ばす手の制止も虚しく、那由多が柄を引き抜くと包丁がずるりと綜真の腹から抜け出る。心臓の鼓動に呼応するように腹から吹き出す赤い血液は綜真のシャツと背広を汚していく。  からんと那由多はその場に包丁を投げ落とし、綜真の姿を一瞥すると踵を返してその場を後にする。  少しでも出血を止めなければと綜真は身を起こそうとするが、半身が痺れているかのように上手く動かない。少し身体を動かすだけで全身に走る激痛。苦悶の表情を浮かべる綜真の汗がアスファルトに落ちる。 「……し、お…………」  辛うじてまだ動く逆半身の手でポケットからスマートフォンを取り出すも、指に当って跳ね跳び綜真の手が届かない所へ滑っていく。為す術がなしと判断した綜真はそのまま真っ暗な夜空を見上げる。  これが詩緒を傷付け続けた代償なのか、傷口は焼けるように熱いのに指の先から冷たくなっていくのを感じた。  ――綜真。  目を覚ませば当たり前のように詩緒の姿がそこにはあって、目が合えば腕の中で詩緒は恥ずかしそうに背中を向ける。長い襟足を指先で掻き分けて、そこから覗く白い首筋に口付けると詩緒の身体が小さく震える。  愛していると伝える機会なんて幾らでもあった。ちゃんと言葉で伝えて安心させてやる事が出来れば良かった。  腹に包丁を突き立てた時、詩緒は泣いていた。好きな人が出来たなんて嘘だ。俺が好きなのはずっとお前だけだ、そう言ってあげられたら良かった。  思い出の中にある詩緒の顔は泣いているものばかりだった。 「しお、……愛してる、……詩緒」  何重にもフィルターが掛かっていくように綜真の視界が暗くなっていく。夜空に光る星一つも見えない。こんな真っ暗な世界に詩緒を置き去りにしてしまった事を、今になって後悔している。  大好きだともっと照れずに伝えておけば良かった。 「詩緒……」  ――行かない、でっ……綜真っ  詩緒が包丁の柄を握ったまま涙を流している。ああこいつはこんなにも――感情表現が下手なだけで、こんなにも俺の事を必要としていたんだ。  詩緒の手から包丁を放させて、涙を零すその目元に口付ける。  ――詩緒……詩緒、愛してる。もう何処にも行かねぇから。  綜真は瞼を落とした。

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