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第七章 就任と懇願

「このカード忘れたら入られへんから気ぃ付けて」 「はい」  千景は四條から受け取ったセキュリティカードをオートロックの認証部に翳す。大仰な確認音は鳴らず僅かにライトが光ったばかりで自動ドアは開かれ、先導する四條に続いて千景は一歩足を踏み入れつつ渡されたカードをスーツの胸ポケットへと仕舞い込んだ。 「君は一度来とるんやったね。詳しい事は中の子に聞い――」  玄関を抜けすぐエントランスに立ちながら右手側のラウンジへ視線を向けると、微かに聞こえた二人分の話し声に四條は声を潜め千景もそれに倣う。まだ朝のミーティング時間には少し早く、ダイニングとの扉を閉め切ってしまえば朝食を摂っている者には気付かれ難く、このタイミングのように誰かが玄関から現れるまでは凡そ視認される事もない絶好の密談場所だった。  ラウンジには一人掛け用カウチが人数分と余分に幾つか置かれており、その一つに腰を下ろす人物と背後から抱き着く人物が一人。座っているのは綜真で、綜真に何かを耳打ちしながら手遊びのように綜真と指を絡ませているのが詩緒だった。綜真も詩緒に対して何かを話していたが声が小さすぎて聞き取る事は叶わず、不服そうに何かを告げる背後の詩緒へと振り返り綜真が唇を重ねた瞬間、これ以上は他者が居る事を知らせた方が良いと考えた千景は咳払いをする。  唐突な咳払いに驚いて振り返った詩緒だったが、ラウンジが丸見えのエントランスに立って自分たちを見ていた四條とその少し後ろに控える千景の存在に気付くと見る間に顔が赤く染まっていく。 「しっ、四條さんっ……!」 「あ? 暎輝?」  詩緒はたった今の事を見られていた事実に羞恥から死にたくなり背凭れを伝い屈み込んで顔を隠すが、詩緒と片手同士をしっかりと繋いだままの綜真も詩緒の声につられて振り返る。 「綜真、場所考えや」 「まだ誰も来てねぇんだから良いだろ。それより何しに来た」  朝のリモートミーティングが終わり次第本棟へ向かう予定だった綜真は既にカジュアルな背広を着込んでおり、呆れた声で告げる四條へ見せ付ける為なのか絡めた詩緒の指先へと優しく口付ける。 「綜真……俺、部屋戻る……」  今すぐにでも消え果てたい気持ちを押さえながら告げるも、綜真は手を振り払おうとする詩緒の気持ちなど意にも介さず詩緒が腕を振るタイミングに合わせて遊んでいるように自らも手を上下に振る。 「榊が恥ずかしがってんだろ、やめてやれよ」 「……何でお前も居る訳?」  四條が寮へ現れたという事は今朝のミーティングはリモートではなく対面形式であると察した綜真だったが、朝から用も無く他部署の千景が寮に姿を現した時点で綜真が心の中に抱いていた嫌な予感が的中した事を知らせた。 「佐野くんな、今日から分室の所属になったから」 「は?」 「……え?」  四條が告げた言葉に詩緒も反応を示しカウチの背後で蹲っていた状態から顔を上げると、千景は詩緒と目線を合わせるようにその場に屈み込み両膝を抱え込みながら詩緒に向かって薄く笑みを浮かべた。 「今日から第五分室のプレイングマネージャーになった。宜しくな、榊」 「まじかよ……」  頭上から綜真の呆気に取られた言葉が降り注ぐ。  先日千景が四條とアポイントを取ったのは、分室異動に伴う互いの条件擦り合わせの為だった。千景が四條へ求めた条件は入寮の拒否と就業時間の徹底で、土日や深夜問わず不規則に作業を行う詩緒たちと同じ形態では働けないという事だった。千景の条件を聞き入れた四條はその上で千景にプレイングマネージャーという役職を提示した。  これまでは斎や綜真が四條の確認を取る為往復十分の時間を掛けて本棟へ赴いていたが、その時間が多ければ多いほど作業に割く時間が足りなくなるという事を懸念し、今後本棟へと赴くのは千景一人の役目に集約された。しかし四條は千景の異動に伴い多くの権限を委任し、これまで四條の判断を仰がねばならなかった指針の多くが千景の判断で通せる事となった。  四條から朝のミーティングでその話を伝えられた真香と斎の二人も初めは驚きの表情を浮かべていたが、特に千景と共に仕事をする事を望んでいた真香と詩緒は大歓迎の様子で、先日紹介しきれなかった寮内部を案内すると張り切っていた。複雑な表情を浮かべているのは遺恨の残る斎と、千景の介入をシャットアウトしたつもりの綜真で、斎の件に介入する為自ら分室へと乗り込んでくる千景のバイタリティと、それにより今後起こり得るであろうトラブルに頭を抱えた。 「どこ行くつもりだ?」  足音を忍ばせエントランスから玄関へ向かおうとしていた斎は薄暗いラウンジで作業をしていた千景に声を掛けられびくりと背筋を震わせる。入寮者ではない千景には詩緒たちのような部屋は用意されておらず、空き部屋が半分以上ある為好きな部屋を使って良いとは言われていたが千景はそれを断った。いつ本棟に向かう用事が出来るかも分からない千景はラウンジの隅にノートパソコンを置き、丁度玄関から出入りする人物が居れば目に入るようにしていた。  移動用のノートパソコンを片脇へ抱え今正に本棟へと向かおうとしていた斎は足を止め、先日振りに相対する千景を誤魔化す為の言い訳を頭の中で考えた。 「ええと、その……本棟に」 「お前の今日のスケジュールに本棟での打ち合わせなんて入ってないよな?」  メンバー全員のスケジュールを確認する権限のある千景は予め斎の行動予定を確認していた。作業自体ならば寮内で行える設備が揃えられている、その上で敢えて本棟へと向かうその理由は茅萱から呼び出された以外に無いと察した千景は眼鏡を外し眉間を抑えながら溜息を吐く。  ――茅萱とは二度と関わるな。そう言ってしまう事は簡単だった。しかしそれは以前綜真に指摘をされた一方的に斎から茅萱という支えを奪うだけの行為であり、斎の恋人でもない千景にその言葉を告げる事は出来なかった。ただ今の千景は斎の上司という立場上、不必要な外出を避けさせる指示は出せた。 「……御嵩がお前の仕事何割か巻き取ってパンク寸前だ。ちゃんと自分のモン引き受けて、今日は寮で仕事しとけ」  各人の作業状況を確認しつつ必要に応じて予定を組み直す事も千景の仕事に含まれていた。今の職場に転職して三年と半年、初めの頃は作業畑だった千景も年を重ねるにつれチームリーダへと押し遣られ、まだ現場作業に縋ってはいたがここ一年は現場を離れマネジメント業務が主だっていた。その為に四條から分室のヘルプへと駆り出される事も多々あり、元から四條は自分をこの位置に置きたかったのではないかと疑惑を抱かざるを得なかった。分室内の全権を千景へと委任すればその分四條も別のタスクに時間を割く事が出来る。次の人事で開発部の統括部長への昇進が噂されている四條からすれば、信頼出来る誰かに分室を任せたいと思っていた。そこで白羽の矢が立てられたのが千景だった。 「……分かり、ました」  空調管理されてはいても少し冷えるエントランス、斎は暑くもない筈なのにひやりと額から汗を流した。エントランスに響く微かな振動音は斎が上着のポケットへと無造作に押し込んだスマートフォンから鳴り響いていた。詩緒、真香、綜真の三人は四條が本棟に戻った後各々二階の自室へと解散しており、今一階に居るのは斎と千景の二人だけだった。静寂の中振動音は良く響き、その音が長い事からメール等ではなく着信であると察した千景は、ノートパソコンを置くテーブルの上に肘を付き斎へと視線を送る。 「『タスケテ』」  千景が呟いた一言に斎の指が震える。鳴り止まないスマートフォンを握り締めつつ、応答する事もこの場から離れる事も出来ずにいた。 「――そう、言ったよな? お前、あの時」  綜真が斎を襲おうとしているようにも見えた先日の喫煙所での一件、縋るように掴まれた腕を千景は忘れてはいなかった。何から助けて欲しいのか、それを明確に斎自身の口から聞かなければ手を差し伸べる事も叶わない。千景は個人的な感情ではなく、仕事として分室の一員である斎を救う為に四條の勧誘を受け入れた。それを後押ししたのがあの瞬間の斎の言葉だった。  斎が望む関係性には応えられないが、同じ分室の一員として側で見守り続ける事は出来る。千景はテーブルに手を付きカウチから腰を上げて立ち上がる。  握り締めたスマートフォンの振動が止まる。それは茅萱が着信を諦めたという事だったが、斎にとっては茅萱に見捨てられたような心地だった。たった一度連絡が取れなかった事を斎はこれまで一度も恐怖と捉えた事は無かった。しかし茅萱に見捨てられたくないという強迫観念が、斎の中の正直な言葉を放たせてしまった。 「俺の事愛してもくれないのに……優しくなんかしないでよ」  何度もされた拒絶。それでも思い続ければいつかは自分に振り向いてくれるのではないかと思ってきた三年間。ただ苦しくて、辛かった。どんなに手酷い扱いを受けようとも、ようやく自分を愛してくれる相手の手を掴めたのに、今再びこうして目の前に現れた千景に酷く心を掻き乱される。どう足掻いても自分を玲於以上の存在として見てはくれない千景を今この場で――  そこまで考えた斎は歩み寄ろうとした千景を振り払うように踵を返し階段を駆け上がる。 「海老原っ……」  背後から投げ掛けられる言葉にも足を止める事は無く、やがて荒々しく扉を閉める音だけが階下の千景の耳に届いた。 「――斎が望んだら、抱かれてました?」  心を見透かされたような言葉に千景が振り返ると、ラウンジとダイニングを繋ぐ扉が音も無く開かれており、紙パックの野菜ジュースを片手に持った詩緒が扉に寄り掛かるようにして覗き込んでいた。一体いつからそこに居たのか千景には分からなかったが、二階へと上がった斎と鉢合わせていなさそうな様子から斎が来る大分前からダイニングに居たのだろうと判断した。 「……どうだろうな」  実際その状況になってみない事には何とも言えないと千景は言葉を濁す。もし本当に斎がそれを要求したとして引き換えに茅萱との関係を断ち切ると約束したならば――許したかもしれない。千景の心は揺れた。 「俺は、千景先輩なら抱かれてたと思う。だって斎の事好きでしょう?」 「お前とか本田と同じだ。同僚としての好意なら持ってるよ」  紙パックにストローを挿しその先端を口に咥えながら詩緒はダイニングからラウンジに出る。無造作に並べられているだけのスツールを足で軽く蹴りながら千景の真横へ運ぶも、何故かスツールには腰を下ろさず千景の正面に立ち千景の肩を叩いてカウチへと座らせる。両足の間へと片膝を捩じ込みつつ片手をカウチの背凭れへと置いて完全に千景を閉じ込める。 「……此処はメンタル雑魚い翻車魚しか居ない分室ですよ」  ストローを咥えたままの詩緒が妖しく笑みを浮かべる。綺麗な顔が台無しだなと千景は詩緒の長過ぎる前髪へと手を伸ばし、指先で耳へと掛けると黒曜石のように美しい光を放つ瞳が見えた。  傍目から見れば斎が詩緒や真香を外界から守っているようにも見えた分室の体制だったが、もしかしたらこの三人はそれぞれ同等程度の弱さを抱いているのかもしれない。その三人を分室ごと保護する目的で作られたのがこの寮だとしたら、守るべき立場に現在いるのは綜真であり四條が条件緩和を受け入れてでも分室へと招き入れたがった理由が千景は少し理解出来た気がした。  詩緒の人差し指が千景の顎を乗せ、親指が唇をなぞる。互いの眼鏡フレームが当たらないよう傾けながら近付ける顔は後数センチで唇同士が触れ合う距離となるも、全く動じる素振りを見せない千景を前に詩緒は薄く唇を開く。 「どうしたら斎を助けられますか……」  囁くような小さな声で詩緒は呟いた。千景は片手を上げ詩緒の後頭部の形を優しくなぞり首根まで滑らせた後ゆっくりと詩緒の頭部を顔横へと抱き寄せる。 「その為に俺が来たんだよ」  個人として救う事が出来ないなら上司としての大義名分を以て。千景としても一朝一夕で決めた訳ではなく四條からの勧誘を受けた時からずっと悩み続けていた。拒む一番の理由はやはり斎との関係性で、玲於の存在を思えばこそ必要以上に斎との距離を縮めたくは無かった。 「海老原の事は俺と御嵩で何とかするからさ」 「……千景先輩、ほんとに綜真とは何も無かったんですか?」  野菜ジュースを持たない片腕で千景にしっかりと捕まりながら聞こえるかも分からない程の小さな声で詩緒は尋ねた。その仕草があまりにも可愛らしく思えてしまった千景の口元が思わず緩むが、吹き出してしまっては詩緒に失礼と考え奥歯を噛み締めそれを堪える。斎の件と同じ程度に詩緒はその件について聞きたかったのだろうと思った千景は、詩緒のそのいじらしさは玲於と同等の可愛らしさであると改めて感じた。 「まだ御嵩から聞いて無かったのか? 俺の前の恋人がアイツの連れだったって事」 「それは、今朝……聞いたけど」  詩緒が言い淀んだ事で今朝というのはあの瞬間かと察したが、同時に先日の綜真が一言漏らした言葉を思い出し口元に意地悪く笑みを浮かべると先程の仕返しとばかりに首根へと置いた手を背中から腰へと滑らせる。 「……他にお前が知りたいのは、御嵩の襲い方それとも……誘い方?」  初めて人間に撫でられた猫のように詩緒の腰がびくりと震える。千景が聞いた話では斎や真香とセフレ関係があった筈だが、こうも初めてのような反応をされてしまうと何だかセクハラをしている気分になってしまう千景だったが、分室内ではセクハラもパワハラも大きな処分は無いと伝えられた事を思い出す。 「……千景先輩が意地悪する」 「榊が可愛いのが悪い」  綜真への建前上本気で詩緒へ何かをするつもりは無い千景だったが、もしこれが斎相手だったらどうしていただろうかと思いを馳せる。縋るものを欲していた斎へと一度でも手を差し出してしまえば突き放す事も容易では無い。寮の中へ斎を閉じ込める事で物理的な茅萱との接触を絶たせはしたが、茅萱がそれで諦めるとも思えない千景は勤務時間が終えた後の寮内部の事までは責任を持てなかった。  深入りし過ぎれば先日のようにいつか玲於を傷付ける結果を招きかねない。斎への直接的な影響力を持たない綜真が一人で右往左往していた結果が今であり、綜真が元から戦略に向かない事を知っていた千景は目前にある詩緒の耳へと唇を寄せる。 「……なあ、榊に頼みたい事があるんだけど」  微かに震えた肩に目を細めつつ、詩緒の細い腰へと手を回して自分の方へと抱き寄せる。足の間へ置かれた詩緒の片膝へ重心が偏りカウチがみしりと音を響かせた。 「ウチの猫に何してんだよ」  薄暗いラウンジにパッと照明がつく。良い所で邪魔をされたと辟易した表情を浮かべながら千景はエントランス側の照明スイッチ前で不機嫌そうに立つ綜真に視線を送る。本棟へと行く必要が無くなり自室で雑務を片付けていた綜真だったが、ふと詩緒の部屋へと訪れてみれば姿が無く詩緒が自ら寮の外へ出る事が考え難かった綜真は詩緒を探し一階へと下りてきていた。  詩緒が千景に肩入れしているのは先日の一件から明らかだったが、目の前で自分の恋人と嘗ての悪友が絡み合っている姿を見るのは気分が良くない。お互いにその気が無いであろう事は分かりきっていてもそれを笑って受け流す心の余裕が今は無い綜真はその不機嫌さを隠そうともせず二人の前へと歩み寄ると詩緒の首根を片手で鷲掴む。 「……詩緒? 俺の目の前で他の男とイチャつくんじゃねぇよ」 「見えないとこでイチャついてたのに見に来たのはお前だけどなー」  掴み方から既に猫扱いだなと感じた千景だったが、綜真が千景から詩緒を引き剥がそうとすると千景はすっと詩緒から手を離す。好き過ぎて未だに手を出せないという綜真が漏らした言葉を千景はいま一度思い出し、あからさまな敵意を向ける綜真に対して嘲りにも似た笑みを浮かべる。 「猫は餌をやる方に懐くんだろ?」 「テメェは犬派だろうが」  二人の間に緩やかな火花が散る中、こっそりとその場を抜け出そうとした詩緒の身体を綜真は軽々と抱き上げ俵担ぎで右肩に乗せる。 「そっ綜真、やめろこの担ぎ方っ……!」  逃げ場を奪われたどころか意図も容易く担ぎ上げられた詩緒はこれまでにない屈辱感を覚えながら抗議の意味を込めて拳で綜真の背中を殴るが、元から腕力の無い詩緒の攻撃など綜真にとっては蚊に刺された程度のものであり、千景を一瞥だけするとそのままラウンジから出て階段へと向かう。 「夜の方もあの位積極性あればいいのになぁ……」  去っていく背中を見詰めながら千景はぽつりと呟いた。  ――本棟に来られない? じゃあ勤務時間終わったら出てこいよ。  あわや関係を断ち切られるかもしれないという不安を胸に抱いたまま、斎が平身低頭の状態で自室から茅萱に連絡を入れた時に茅萱から返ってきた言葉だった。勤務時間が終われば千景も自宅へと戻るので、仕事が終わった後での外出ならば誰にも咎められる謂れは無い。茅萱に失望されなかった事に安堵した斎は綜真から受け取った自分の仕事を恐ろしいまでの集中力で片付け、翌日確認する千景のパソコンへと送信すると急いで外出の為の準備を始めた。  真香や詩緒はまだ作業中だろうか、なるべく邪魔をしないように自室の扉を開く。本棟で作業をしていた時よりは別棟で作業をしていた時のようにしんと静まり返った廊下に斎が扉を開ける音だけが響いた。足音ですら響いてしまう静けさに息を呑み斎が階段へと一歩足を踏み出した時、斎の部屋の右斜め前真香の部屋の扉が開かれた。 「斎っ、どこ行くんだ」  千景から今日からは本棟ではなく寮勤務を命じられた事を知っていた真香は、斎が茅萱に会いに行くのなら終業後しか無いと考え、部屋の外の物音に注意深く耳を澄ましていた。  案の定ただ一階に行くようなラフな室内着ではなく、しっかりと防寒対策に上着を着込んだ斎と鉢合わせした真香は胸がざわついた。斎はこれから茅萱へと会いに行く、あの頃の自分と同じように茅萱からの呼び出しがあれば何時如何なる時でもそれに応じる。何故茅萱でないと駄目だったのか、それは今の真香でも良く分からない。その時は確かに茅萱に見捨てられたら生きていけないと考えていたのは事実だった。 「ちょっと買い物に――」 「ち、がやさんに……会いに行くんだろ?」 「えっ……?」  真香の口から放たれた茅萱の名前に斎は目を丸くする。今まで一度も真香が茅萱と知り合いだという話を聞いた事が無かった斎は二人がどんな関係なのか、そればかりに意識が奪われた。その為部屋から飛び出た真香が行かせまいと斎の両腕を掴み扉に押し付けた事への反応が遅れてしまった。 「あの人は、あの人は駄目だ斎!」 「ちょっと真香、何の話して――」 「茅萱さんに関わったら、お前の身体も、心も、全部ぼろぼろにされるっ……!」  斎が自分たちの中で一番精神的に脆いと知っているからこそ真香は斎を行かせたくは無かった。もし斎が望むのならセフレという関係を二人だけの間で復活させても良い。茅萱以外に拠り所を見つけてくれるのならば何でも良かった。  まさか千景だけではなく真香にも茅萱との関係を気付かれていたと知った斎は諦めにも似た溜息を吐き出す。知られているのならばこそこそと会いに行く必要も無かった。仕事は別として茅萱へ会いに行く事に罪悪感を感じる必要は無かったのだと改めて思った斎は真香の腕をそっと解く。 「――榊が、さ……御嵩さん選んで、真香との関係も終わった今の俺にはなんにも無いんだ」  ぽつりと吐かれた言葉を聞いた真香はその場に両膝を付く。 「そんな事……無いだろ。俺も榊も何も変わんねぇって言ったじゃん……」  関係を終わらせた事で斎の中から自分の居場所が無くなってしまったかのような斎の発言に真香自身も大きな衝撃を受けた。縋る先が一つも無いのは真香も一緒であると斎は気付けていなかった。ただ真香が斎と決定的に異なっていたところは、真香は現状のままの千景や詩緒との関係に満足をしていた。斎もそうであってくれれば良かったと願う真香は両手を床に付き音もなく静かに涙を零した。 「……今、俺を愛してくれるのは茅萱さんだけなんだ」  それは間違っている、茅萱は斎の事を愛してはいないと伝えたかった真香だったが、言葉も上手く紡げず俯いたまま背中を震わせた。足元に崩れ落ちた真香を心配する思いは残っていた斎だったが、真香を慰めるだけならば自分で無くとも詩緒が居た。誰かの代わりではなく自分だけを必要としてくれるのは茅萱だけだとふらりと斎は真香の前を通り過ぎる。 「……行か、ないでっ……斎……」  絞り出すような掠れた真香の声にも振り向かず歩き始めた斎の目前で、唐突に開かれたⅡ号室の扉が斎の顔に激突する。斎の隣室であるⅡ号室を使用している者はおらず、空き部屋であるその部屋から顔を出したのは詩緒だった。 「あ、ごめ……と、斎……と真香?」  小脇にノートパソコンを抱え暗い部屋から出てきた詩緒は扉で顔面を殴打し痛みにのた打ち回る斎とその先の斎の部屋の前で崩れ落ちていた真香へと順に視線を向けた。 「さ、榊……? 何で、その部屋……」 「ルータの調子悪かったからついでに直挿しして仕事してた――」  じんじんと痺れる顔面を片手で覆いながら見上げる詩緒の姿は仁王立ちという表現がぴったりのように斎の前に立ちはだかっていた。それは崩れ落ちた真香の原因が斎にあるからと考えたからで、そんな真香を放って何処かへ出掛けようとする斎のジャケットを詩緒は掴み上げる。 「……斎、真香の気持ちも少しは考えろよ」  誰より先に綜真を選び輪の中から抜けた詩緒に言えた事では無かったが、真香がどんな思いで決断をしてそれを斎に告げたのかを理解していた詩緒は、斎が真香より別の誰かに心酔しきっている事が看過出来なかった。 「なあ、俺と真香の三人でまたセフレに戻ったら満足なのか? だったらそうしてやるよ。だから真香や千景先輩に当たんな、当たるなら俺だけにしろ」  斎を掴む詩緒の手は震えていた。セフレに戻るという事は綜真との関係性を切るという事になる。綜真への思いを抱き続けていた詩緒がそう簡単に出せる結論では無かった。しかしそれ以上に真香や千景が詩緒にとって大切な存在であると思い知らされた斎は詩緒の手を振り払う事を躊躇った。 「……ごめん、榊。……真香も」  二人の気持ちを蔑ろにするつもりは無かった斎は今自分がどれ程愚かしい行為をしているかを詩緒から突き付けられぽつりと呟いた。 「…………今日、は、もう、約束してるから……ごめんっ!」 「斎ッ!」  振り払うように詩緒の手を離させると斎はそのまま階段へと向かい駆け下りた。斎から振り払われバランスを崩しかけた詩緒だったが、すぐにバランスを立て直し振り返りもせずに駆けて行く斎の背中を見送った。その『ごめん』は何に対する謝罪だったのか、斎の心には何一つ伝わらなかったのかと多少なりともショックを受けた詩緒ではあったが、それよりもと詩緒は崩れ落ちたままの真香へと視線を移して駆け寄る。 「真香、大丈夫か?」 「あ、うん……」  詩緒が真香の肩を抱くと微かな震えが詩緒の掌から伝わった。ゆっくりと真香が立ち上がるまで支え、真香が自室に戻って行くまでの間詩緒はじっと綜真が居るはずのⅥ号室の扉へ視線を送り続けていた。問題の性質上自分が顔を出せば余計にややこしい問題になりかねないと敢えて部屋から顔を出さなかったのだろうと考えた詩緒はそのままⅥ号室の扉から視線を外す。

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