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第1話

ようこそおいでませ、|此処《ここ》は|驚異の部屋《ヴンダーカンマ―》。貴方は記念すべき××××人目のお客様です。 なんと、ご存じないとは心外! ご覧なさいな、此処の名前の由来となった展示品の数々を。珊瑚や石英を加工した装身具、実在・架空取り交ぜた動植物の標本やミイラに巨大な巻貝、オウムガイを削った杯にダチョウの卵、貴重な錬金術の文献に異国の武具、機械仕掛けの|形見函《かたみばこ》、はてはキリストの|襁褓《むつき》と噂される聖遺物に至るまで、此処に展示されているのは人類の叡智の結晶。 おっとさわらないで、落としちゃ大変! かくも無知とは恐ろしい。貴方が今手を伸ばしたのは|曜変天目《ようへんてんもく》といい、中国産の大変希少な陶磁器です。 どうですこの瑠璃の光沢帯びた深遠な紺色、宇宙の神秘を塗りこめたきらめき。 内側の黒い|釉薬《ゆやく》を見てください、銀の輝きが散りばめられているのがわかりますか? 中国福建省の一部の職人しか作れない国宝ときて、俗物どもが催すオークションに出回れば、咽び泣くマンドラゴラすら黙る額で競り落とされます。 驚かせちゃいました?ごめんなさい。 だけどうっかりですねえ、その娘は人間じゃありません。球体関節の|自動人形《オートマタ》ですよ。 伏せた睫毛の長さと物憂げな硝子の瞳、ミステリアスな微笑みに魅入られた殿方は数知れず。全く罪作りなコッペリアですよ、精巧に出来すぎているのも考え物です。 話が長い? 先に聞いたのは貴方ですよ、僕は説明してあげてるだけです。 驚異の部屋の成り立ちは十五世紀欧州に遡り、当時の裕福な王侯貴族が居城にもうけた、博物陳列室がはじまりだと伝えられています。 科学や文明の発展と共に廃れていき、十九世紀末の現在はすっかり過去の遺物と成り果てました。 哀しいですね。 何笑ってるんだ?やだなあ、久しぶりにお客様を迎えられて嬉しいからに決まってるじゃないですか! 何日何年ぶりだっけ、前回のお客様は女王陛下が即位なされる前だから……細かいことはまあいいか。立ち話は疲れますしソファーに掛ちゃいかがです? なんだか顔色が悪いですね。 息も酒臭い。 安いジンの匂いだ。 これはいけない、酔っ払ってます?こまっしゃくれたガキめって……やれやれ口が悪いお人だ。 アルコール中毒が見せる幻覚? ははっ面白いことをおっしゃいますね、もしそうなら貴方が今腰掛けてるソファーはビール樽かもしれません、転がってっちゃわないようにお気を付けて! 冗談ですって、本気にしないでください。来られて早々帰るなんてもったいないこと言わないで、夜はこれからが本番じゃないですか。 躁状態なのは認めます。言ったでしょ、お客さんは久しぶりだって。ずっと話し相手が欲しかったんです。 驚異の部屋にいるくせに退屈するのかって? そりゃそうですよ、どれだけここにいると思ってるんですか。 人はどんな環境にも慣れてしまういきもの、生きとし生けるものの造物主たる神は我々に適応力と順応性を与えたもうた。 ……なんてね。ぶっちゃけ長く居すぎて見飽きちゃいました。諺にもあるじゃないですか、美人は三日で飽きるって。 どんな珍しいものや美しいものでも、毎日当たり前に目にしていれば自然と驚きは薄れていきます。 この部屋に飾られているのは古今東西、世界中から集めた珍品名品。太古の文明から産した水晶の髑髏に煎じて飲めば万能薬と名高いユニコーンの角、なんでもございます。 まだお疑いに? ならばとっておきをご覧に入れましょ。 目を瞑って……ワン・ツー・スリー! あはっ、大成功!大丈夫ですか、お顔の色が真っ青ですよ?おっと乱暴しないで、割れたら大変。 これは胎児の標本なんかじゃありません、ホムンクルスです。 ルネサンスの大錬金術師パラケルスス曰く、蒸留器に人間の精液を入れて四十日間密閉・腐敗させると、透明な液体が人の形を成す。 それに毎日人間の血を与え、馬の胎内と同等の温度で四十週間保温・保存し続けると、人間の子供によく似た人造人間が完成するそうです。 フラスコ内でしか延命できないのが難点ですが、ホムンクルスはとても賢く、生まれながらにしてあらゆる知識を身に付けると信じられてきました。 赤子の体内に霊を導き入れて創造する方法もあるそうですが、そっちはちょっと悪趣味ですね。 今さら? 確かに。 ホムンクルスはお気に召しませんでした? ならばこちらはどうでしょうか、コーンウォール地方で採取した妖精のホルマリン漬けです。 肩甲骨のあたりから一対、繊細な葉脈が透けた翅が生えていますでしょ?なんとまあ真夏の夜の夢のように儚く美しいじゃありませんか。 偽物だなんて滅相もない、本当に疑り深い方だ。 そもそも貴方のようなみじめな飲んだくれをだまくらかして一体何の得があるっていうんですか、追剥ぎだって人は選ぶでしょ?貴方ときたら靴下の先っぽどころかお財布の底も抜けていそうな有様じゃないですか。 申し遅れました、僕の事は|学芸員《キュレーター》とお呼びください。 貴方が考えていることは手にとるようにわかります、なんでこんなガキが学芸員を名乗ってやがるんだって怪しんでますね? 疑問はごもっとも。 |少年聖歌隊の去勢歌手《カストラート》だと言われた方がまだしも納得、ですか。お褒めに預かり光栄です。 皆さん口をそろえておっしゃいますよ、僕ほど高貴で麗しい美少年には人生で一度もお目にかかった試しがないと。 天使と間違われた事もありますね。お客様は稚児趣味がなさそうで安心しました。 男色家でもないぞ?それはどうでしょうか。ああいえ、こっちの話です。 まだお客様の名前を聞いていませんでしたね。名乗る義理はない?そうおっしゃらず、名とは物事の本質を語るもの。互いに胸襟を開き、打ち明け合うことで親愛の情が生まれる。 どうしても名乗りたくないというならかまいません、ナーサリーライムにちなんでへそまがりのジョージィ・ポージィとでもお呼びしますよ。 さてジョージィさん、貴方は今宵偶然にも驚異の部屋に迷い込まれた。 パブの帰り道、千鳥足で路地裏を徘徊していた所までは覚えている。野良犬に吠えられ、小便をひっかけられた事も? ツイてませんねえ、どうりで外套が臭かったわけだ。 貴方が此処を訪れたのには必ず意味がある。全知全能の神の思し召し、あるいは霊魂の導き? くだらない、ですか。全く心当たりがないと?ははん、ひょっとして当世流行の無神論者ってヤツですか。 まずはお掛けくださいジョージィさん。 何、お手を煩わせはしません。僕が伺いたいのは貴方の数奇なる半生です。 驚異の部屋が展示するものは有形無形問わず、貴方の記憶もまた此処に召し上げるに値する。 僕の見立てに狂いはありません、どうぞ遠慮なくお話してください。 ほらまた勝手に出ていこうとする!わからない人ですねえ、させませんって。出口をさがしたところで無駄です、扉は指ぱっちんで消しちゃいました。奇跡の|采配《さいはい》はお手の物。 どういうことか教えてあげましょうかジョージィさん、貴方は驚異の部屋の虜になったんですよ! 僕の望む話をしない限り永遠に此処から出られません、一生囚人として過ごすのです! もっとも、貴方にはそれがふさわしいかもしれませんね。 どういうことだって? 笑止、これは傑作! 僕の言葉の本意はご自身が一番よくおわかりでしょうに、ジョージィ・ポージィ・プティング・パイ、貴方は実に罪深い人殺しだ! さあ、もういちどお掛けなさい。深く深く、地獄まで沈みこむように深く……よろしい。 おっと、手は前に。やっぱり……懲りない人ですねえ、展示品は持ち出し厳禁ですよ。そんなにお金に困ってるんですか? ご存じですかジョージィさん、中世の泥棒は腕を切り落とされたそうですよ。脅し?そうとってもらってもかまいません、手癖の悪さを矯正できないなら去勢するしかありませんもんね。 ちょっと失礼。ふむ……独特の匂い。テレピン油の匂いかしらん?爪に挟まってるのは乾いた塗料の粉末、指には固い筆ダコ。 貴方は絵描きさんだ。 どうですどうですシャーロック・ホームズも舌を巻くこの推理!見ればわかる?興ざめなことおっしゃらないでくださいな。 一応断っておきますと、僕は神父じゃありません。此処は告解室でもないからして、懺悔や贖罪は求めません。 裁きはしない。 罰しはしない。 それは僕の役目じゃない。 何卒ありのままの胸の裡をお話しください。 あらま、どうなすったんです? 目がきょときょと泳いでらっしゃる。汗もかいてますねえ、外套をお脱ぎになりませんか。質に流したりしませんよ、ていうか売れないでしょこんなボロ。 あててごらんにいれましょうか。 ご自分の名前が思い出せないんじゃございませんか。 んふ、図星? 仕方ありませんね、貴方が何処の誰か思い出せるようにお手伝いしてさしあげますよ。 ほら見えてきた……水晶玉の中。 貧民街の片隅、場末の娼館。一階と二階を繋ぐ階段の半ばに掛けた、くすんだ赤毛の少年に見覚えございませんか?痩せっぽちで貧相な……。 貴方ですよ貴方。 右手にはちびた炭、左手にはセピア色の古新聞。頭上の部屋からは甲高い喘ぎ声とベッドの軋みがひっきりなしに響いてくる。 思い出しました? ここは貴方の家。 貴方は娼婦の私生児として産声を上げました。 とはいえ、お母上はもとから娼婦だったわけではありません。元は貴族の屋敷に仕えるメイド……よくある話、次男坊に孕まされたのです。 さても気の毒に、天涯孤独のメイドは売春婦に身を落としました。 お母上は乳飲み子を養うため、貴方が物心付く前から体を売っていたのです。 貴方は母の喘ぎ声を子守歌に大きくなった。 お母上の仕事中は階段に腰掛け、事が終わるまで辛抱強く待っていました。 さて、角部屋のドアが開いてストールを巻いた年増の娼婦が出てきました。 ひっ詰め髪をかき上げ、蓮っ葉に煙管をふかし、邪魔くさげに通り過ぎざま貴方の手元を覗き込みます。 「上手いじゃん」 その時貴方が描いていたのは玄関先に飾られた花瓶でした。吝嗇家で有名な女主人がそれはそれは大事にしていた、優美な花瓶。 びっくりしましたね? 心中お察しします、他人に褒められるのは生まれて初めてだったんでしょ? 実のお母上すら貴方を褒めることはめったになかった。 いてもいなくてもどうでもいい、邪魔くさい穀潰しに過ぎませんでしたもんね。 貴方の横に膝をそろえて屈みこみ、娼婦が愉快げに耳打ちしました。 「ね、アタシを描いて。お駄賃あげるからさ」 彼女こそ最初のお客様、一人目のモデル。貴方が描いた絵は彼女の期待を遥かに上回る出来栄えでした。 これを皮切りに注文が殺到しました。 一人目の娼婦が、貴方に描いてもらった似顔絵を仲間に見せびらかしたのです。 娼婦たちはすごいすごいと幼い画伯をほめそやし、常連客たちも面白がって便乗します。 暖炉からちょろまかした炭と古新聞じゃあんまりだからと、気前の良い客の一人が|画帳《クロッキーノート》と鉛筆を贈りました。 貴方は全力で期待にこたえた。 毎日毎時間てのひらを真っ黒に汚し、望まれるがままモデルの肖像を描き続けた。 娼婦と客の間じゃ互いの似顔絵をこっそり交換するのが流行りました。 お金を稼ぐ手段を得た貴方は、娼館の中だけじゃ飽き足らず、人通りの多い往来で客を募り始めます。 一枚、二枚、三枚……三十枚! 裏返した帽子の底に次々コインが投げ込まれました。 周囲には人垣が築かれ、物見高い野次馬たちが続々集まってきます。皆しげしげと貴方の手元を覗き込み、ある者は髭をねじって唸り、ある者は感心します。 「写実的だな」 「この子は才能があるぞ」 「粗末で汚い身なりだが、いずれ大成するに違いない」 一日の仕事を終える頃には浮足立ち、娼館へとひた走りました。たんまり稼いで帰れば、お母上がきっと喜んでくれると信じて。 ところがその頃、貴方のたった一人の家族であるお母上は寝込んでいました。 毎日浴びるように飲んでいたジンの障りです。 貧困の原因は怠惰、故に自業自得だというのが金持ちどもの口癖でした。 実際は……ええ、よくご存じでしたね。 ホガースの諷刺絵を例に出すまでもありません、黄金のビールで豚の如く肥え太る金持ちに対し貧乏人は粗悪なジンで体を壊すのが常。貧民街の住民が安酒をかっくらうのは、それが現実逃避の手段であるからです。 貴方は似顔絵描きに努める傍ら、酒浸りのお母上の世話に励みました。 お母上を良い医者に診せるには金が足りない、全然足りない。 早くせねば手遅れになりかねません。ジンに蝕まれた人間の末路はいやというほど見てきました。 馴染みの娼婦は「梅毒を患うよりマシだよ、ありゃ体中に醜い瘡ができるんだ」と慰めを口にします。 肝臓を病んだお母上は日に日に痩せ細り、遂にはベッドから起き上がれなくなりました。 最愛の母がこの世を去る日が近付いている現実を断じて認めたくない貴方は、彼女に付き添い看取るよりも往来に居座り、似顔絵の依頼人を求めました。 それもまた現実逃避。 責めはしません。 当時の貴方はまだ幼かった。 病み衰えたお母上を目の当たりにして逃げた所で、何の罪があるというのでしょうか。 貴方は往来の隅に居座り、片手に鉛筆を持ち、真っ白な画帳を広げました。 レースとフリルで縁取った日傘を回す貴婦人、燕尾服をりゅうと着こなす恰幅良い紳士、プレゼントの包みを抱えた少女。 道行く人々はとても忙しく幸せそうで、画帳にあてた鉛筆の先端に、知らず圧がこもります。 今しも砂埃を蹴立て、二頭立ての馬車が止まりました。 「乞食に近付いてなりませんエドガー様、お召し物が汚れますぞ」 「彼は絵描きだよ」 運命の歯車が廻り出します。 スライドした馬車の扉から降り立ったのは小さな貴公子でした。 天使の輪を冠した繊細な茶髪、丁寧に漉したミルクさながら白く上品な肌、利発そうな鳶色の瞳。年の頃は同じ位でしょうか。 少年は軽快にステップを下りるや、接近を禁じる御者を窘め、気さくに語りかけてきました。 「君の評判は聞いてる、毎日ここで描いてるんだって?よかったら一枚お願いできるかな」 完璧なクイーンズイングリッシュ。まるで訛りがありません。 正直な所、気圧されました。 彼は貴方が知ってる誰とも違った。 頭のてっぺんから爪先までぴかぴかに磨き上げられ、内側から光り輝いてるように見えました。 翻り貴方は……御者が乞食と間違えたのも無理からぬもの。客が忘れて行ったぶかぶかの外套を羽織り、穴の開いた靴からは、霜焼けだらけの足の親指が覗いています。 少年と相対した貴方は、自分のみすぼらしさを恥じ入りました。 余計な事を考えちゃいけません、雑念を払い集中します。絵ができ上がるまで、少年は興味津々といった様子で待っていました。 スケッチはものの三十分ほどで完成しました。 貴方が無愛想に画帳から破り取った絵を一瞥、少年が息を飲みます。 「エドガー様?」 御者の不安げな呼びかけにもすぐには答えず、熱っぽく潤んだ瞳で貴方を見返し。 「すごい……」 いやはや、一目惚れって本当にあるんですねえ。対象が「人」とはかぎりませんが。 少年は初々しく頬を染め、「すごいすごい」を連発し握手を求めてきました。 貴方は半歩あとずさり、後ろに手を隠します。 「汚えから」 「気にしないで」 なおも拒む貴方の腕を捕らえ、半ば無理矢理握り、少年が名乗りました。 「僕はエドガー・スタンホープ。スタンホープ伯爵家の長男だ」 スタンホープ伯爵の名前に緊張しました。貧民窟の隅で細々生きる貴方でさえ聞き齧ったことがある、英国有数の大貴族です。 ああ、どうりで納得しました。 どうりでコイツは堂々としてるわけだ。 生まれてこのかたずっと、お天道様があたる道のど真ん中を歩いてきたんだろうな。 以来、エドガー少年は三日と空けず貴方のもとに通い詰めました。自分の絵を描かせたのは初回だけで、あとは毎回違うものを頼みます。野良猫、野良犬、街の風景。ロンドン橋を描いてほしいとリクエストされた事もあります。 貴方が描いてる間、エドガー少年は傍らで熱心に見守っていました。目は興奮と期待にきらきら輝いて、気恥ずかしさを覚えます。貴方たちが親しく話を交わすようになるまでさほど時間はかかりませんでした。 最初は途切れ途切れにポツポツと。 やがてエドガー少年は馬車のステップに掛け、あなたは地べたに座り、互いの身の上を打ち明けました。 彼の本名はエドガー・スタンホープ、伯爵位を授与された貴族の長男……早い話が跡継ぎです。 年は十歳、貴方と同じ。学校には行かず、優秀な家庭教師に付いて学んでいるそうです。 「君のこと、馬車の窓から見かけるたび気になってたんだ。もっと早く声をかけたらよかった。僕も絵が好きなんだ。お父様の影響だけど」 「知ってる。スタンホープ伯爵は絵画集めが趣味で、家族の肖像をほうぼうの画家に描かせまくってるって」 「制作中は動いちゃダメだから気疲れするよ」 「後を継ぐのか」 「ううん。画家になる」 「貴族の長男なのに?」 エドガー少年は肩を竦めました。 「簡単には許してもらえないだろうね。でもいいんだ、頑張って説得する。跡継ぎなら養子をとればすむ話だし、僕は好きなことを仕事にしたい」 エドガー少年の言い分は世間知らずな子供のわがままに聞こえました。骨の髄まで貧乏が染みこんだ貴方は、自ら裕福な暮らしを捨て、画家を志す人間の気持ちがわかりません。 将来を語るエドガー少年の澄んだ眼差しとは対照的に、貴方の胸にはどす黒い靄が広がっていきました。 俺がコイツだったら、一日中往来に座って他人の似顔絵を描かなくても、母さんの薬代が賄えるのに。 エドガー少年と一緒にいると卑屈な考えが脳裏を掠め、自分の境遇が惨めに思えてなりません。 いっそ足元に這い蹲り、靴をなめたらどうだろうか。プライドをかなぐり捨てて媚びたら、薬代を恵んでもらえるだろうか。 ダンテの『神曲』において、嫉妬は大罪に定められています。 他者を激しくねたみそねんだものは死後に煉獄の第二冠に行き、瞼を縫い留められて盲人となるそうです。絵描きが光を失うのは致命的ですね。 大前提としてエドガー少年は親切な少年でしたから、貴方が理由を話して頼めば、快くお金を渡したはず。 でも、そうはしなかった。 エドガー少年が捧げた友情は一方的なもので、貴方にとっては得意客の一人にすぎなかった。 ある日のこと、エドガー少年とお喋りを終え娼館に戻ると母が冷たくなっていました。 貴方は心底悔やみました。 くだらないお喋りを切り上げもっと早く帰っていたら、唯一の肉親の死に目に間に合ったのに。 エドガー少年は悪くありません。 単なる逆恨みだと頭じゃ理解しています。 それでも誰かのせいにしなければやりきれず、母の遺体に取り縋り号泣しました。 貴方の小さな胸は罪の意識と哀悼の念に張り裂けそうで、気付けば右手に鉛筆を握り、左手で画帳をめくり、天に召された母の顔を写していました。 あの頃の貴方にできた、精一杯の手向けだったんでしょうね。 お母上の死に顔はお世辞にも安らかとは言い難いものでした。眼窩は落ち窪んで頬はこけ、胸には痛々しく肋骨が浮いています。 貴方はお母上の冥福を祈り、技量が許す限り美しく肖像を偽りました。 小一時間後に描き上げたお母上の似顔絵はそれはもうすばらしい出来栄えで、生前より美しいとさえ言えました。 当初はその似顔絵を副葬品として添える心算でした。ところが、土壇場で気が変わります。上手く描けすぎたせいで、手放すのが惜しくなったのです。 貴方はお母上の唯一の形見である似顔絵を画帳に綴じ、鞄にしまいこみました。 お母上の死体が粗末な棺に寝かされ、貧民用の墓地に葬られたのち、薄情な女主人は貴方を叩き出しました。 庇ってくれる人はいませんでした。娼婦や常連も手のひらを返しで知らんぷり、皆女主人が怖いのです。 どこをどう歩いたのか、貴方は再び往来に来ました。空腹で今にも倒れそうです。 街角に蹲り膝を抱え、まどろんでいるうちに日が暮れ、|倫敦《ロンドン》には夜の帳が落ちました。 その夜は珍しく晴れており、星がよく見えました。吐いたそばから息は白く溶け、真っ赤にかじかんだ手を温める役にも立ちません。これでは商売道具が握れないと落胆しました。 車輪が地面を噛んで止まり、滑らかに扉が開き、愁眉にすら気品あふれたエドガー少年が下りてきます。 「どうしたの?」 彼は心から貴方を案じていました。 だけど今は話したい気分じゃありません。貴方の無礼な態度に御者は怒り狂い、鞭を振り上げました。 「やめろ!」 さすがに止めましたが、エドガー少年も所在なさげにしています。貴方に無視され寂しそうです。 ああそうですね、多分あたりです。恐らくこの時まで、エドガー少年は誰かに無視された経験など皆無だったのでしょうね。 エドガー少年は常に道の真ん中を歩く特権を行使していました。彼が姿を見せれば誰もが脇に退いてお辞儀をする。 陰鬱な沈黙にじれたのでしょうか、エドガー少年は弱々しく微笑んで告げました。 「なんでも好きなものを描いて。君の好きなものが知りたい」 貴方の手に硬貨を握らせ、重ねて言います。 さて、貴方は……途方に暮れました。いきなりそんな事を言われます。仕方なく画帳をめくり、まっさらなページに鉛筆をあてがいます。 そこで動けなくなりました。 完全に止まってしまいました。 エドガー少年は貴方の手が動かないのを寒さのせいと勘違いし、ふーふーと息を吹きかけ、両手で包んで擦りました。 貴方はさわったことがありませんが、シルクの肌触りはこんな感じかもなと想像します。 「いけそうかな」 鉛筆を握る手が、紙の上を滑り出します。 エドガー少年は固唾を飲んで貴方の手の動きを見守っています。御者も息を止めていました。 貴方は時間を忘れました。すぐそばのエドガー少年や御者の存在も意識から取りこぼし、寝かせた鉛筆で画帳をひたすら染め上げ、真っ黒に塗り潰します。 とうとう芯がへし折れどこかへ飛んで行き、貴方は真っ黒に塗り潰したページを見下ろしました。 「好きなものなんか、ねえ」 エドガー少年は貴方の隣に座り、経緯をすっかり聞き出しました。 お母上が亡くなった事。女主人に追い出された事。 途中で目をしばたたいて洟を啜り、しゃっくりを漏らします。夜空には大小の星が瞬いていました。 一部始終を打ち明けるやエドガー少年は貴方を抱き締め、身を包んでいた外套を脱いで貴方に掛け、馬車の中へ迎え入れました。 「お待ちくださいエドガー様、勝手なことをなさると旦那様がお怒りになりますよ!」 「覚悟の上だ」 エドガー少年は貴方に向き直り、きっぱり断言しました。 「君を屋敷においてくれるようお父様に掛け合ってみる」 「本気かよ」 「当たり前だろ」 「だって俺、ててなしごのみなしごだぜ」 「関係ないよ」 エドガー少年の決意は固く、反論を許しません。 正直な所、貴方は戸惑いました。心を占めたのは喜びに勝る純粋な疑念と動揺。 エドガーは何を企んでいるんだろうか。 連れていかれる先で酷い仕打ちが待ち受けてるんじゃないか。 馬車の座席に掛けたエドガー少年は、移動中もずっと貴方の手を握り締め、誠実に語り聞かせていました。 「君の才能を発見したのは僕だ。責任もって守り育む義務がある」 高貴なる者の義務、とでもいうのでしょうか。平民は貴族に尽くす、故に貴族は平民を守らなければいけない。 同行者を安心させるべくエドガー少年が放った言葉は、ますますもって貴方を居心地悪くさせます。 一刻後、馬車が到着したのは立派なお屋敷でした。エドガー少年は貴方の手を引っ張り、早速父に会いに行きました。 「ただ今帰りました」 スタンホープ伯爵は書斎で執務をしていました。礼儀正しく挨拶した息子を一瞥、隣のみすぼらしい少年に顔をしかめます。 「その子はなんだエドガー」 「僕の友達です。お願いします、彼のパトロンになってください」 「なんだって?」 「彼には凄い才能があるんです。見てください」 そういってエドガー少年が提出したのは、貴方が先日描いた似顔絵でした。 一枚ではありません。犬、猫、街の風景、ロンドン橋……合計十数枚の束。 マホガニーの机に広げられた力作の数々に、伯爵は目を見開きました。 エドガー少年は力を込めて食い下がります。 「お父様は社交界随一の絵画の蒐集家として知られています。後進の育成にも力を注ぎ、美術学校に多額の寄付をなされてる。ならば彼の才能がわかるはず」 「これは……確かに見事だが、突然家におけと言われても。君は孤児か?」 「はい」 「貧民窟の人間だな。ドブの匂いがする」 伯爵は冷ややかな眼差しで貴方を値踏みしました。馬車で素通りする紳士淑女がしばしば投げかけてきた侮蔑の眼差し。 エドガー少年は貴方を庇うように前に出、切実に懇願しました。 「素性は関係ありません。彼は僕と同い年なのに絵で稼いで病気のお母さまを養っていたんですよ、立派じゃありませんか」 「孤児の後見人になれと?無茶をいうな」 「なら僕が家を出ます」 「なんだと」 「路上で物乞いでもなんでもして暮らします」 「馬鹿げた事を」 「本気ですよ、彼を屋敷においてください。困っている人たちを助けるのが僕たち貴族の矜持だってお父様もおっしゃってたじゃないですか、あれは心にもない方便ですか」 エドガー少年は一歩も譲らず直訴します。貴方はただハラハラと見守っていました。 ややあって伯爵が太いため息を吐き、机上の絵と貴方の顔をとくと見比べ、結論を出しました。 「……仕方ない」 結局の所、伯爵も息子には甘かった。 エドガー少年は父に溺愛されており、大抵のわがままは罷り通ったのです。 貴方は伯爵家に養子として引き取られ、適齢期を迎えるのを待ち、エドガー少年ともども美術学校に入学しました。 エドガー少年は貴方にとても懐いていました。ええ、ええ、実の兄のように慕っていたのでしょうね。暇さえあれば貴方の部屋を訪れ、他愛ないお喋りをしていきました。 身を清め新しい服に着替えてエドガー少年と並ぶと、実の兄弟に見えました。 貴族に拾われたのは貴方にとっても幸運だった。伯爵を後見人に得た事で才能を伸ばす機会を掴んだのですから、感謝しなけりゃバチがあたります。 たとえ使用人たちに露骨な嫌がらせをうけスタンホープ伯爵に無視されようとも、乞食に身を落とすよりずっとマシでした。 温かい寝床。 清潔な衣服。 美味しくて栄養ある食事。 満ち足りた生活。 覚えています? 忘れた? 思い出してください。 貴方とエドガー少年はよく庭に出て、お互いを描き合いました。 夏の日は楡や菩提樹の木陰に座り、春の日は陽射しがぬくめた芝生に寝そべり、完成後は絵を取り換え批評し合い、切磋琢磨で技術を高めていきます。 エドガー少年に|許嫁《いいなずけ》がいる事を知ったのは、屋敷に引き取られた数週間後でした。 「何歳?」 「七歳。まだ小さい」 「どこにいるんだ」 「インド。従妹だよ。片手で足りる程度しか会った事ない」 彼が見せてくれた写真には、オーガンジーのワンピースを纏った、可憐な幼女が映っていました。 先日届いた手紙に同封されていたのだそうです。芝生に寝転んだ貴方は写真を頭上にかざし、ニヤニヤ嗤いました。 「このちびが花嫁さんか」 「やめてよ」 「照れんなって」 「そんなんじゃない」 「大人んなったら美人になるぞ、俺の勘はあたるんだ」 エドガー少年は父が決めた婚約に不満げでした。貴族の婚姻は家同士の政略の意味合いが強く、当事者の意志は介在しません。 「貴族なんて窮屈なだけだ。好きになる人位自分で決めたい」 「そういうもんかな、一生贅沢できるんならいいじゃん」 貧民窟の娼館で生まれ育ち、男女の痴情の縺れを身近に見てきた貴方には、エドガー少年の価値観がぴんときませんでした。 「女を買いに来る客の中には、奥さんやガキにばれないように浮気してるヤツが大勢いたぜ」 「女の人たちはそれでいいの?好きな人の一番になれないのに」 「選り好みできる立場じゃねェし」 エドガーは聡明で心優しい少年でした。貴方には常に親切に振る舞い、読み書きを教えてくれました。 使用人にも分け隔てなく接し、馬車で外出した際は孤児や浮浪者を労り、月に一度は救貧院を訪れました。なんとまあお人好しなと貴方はあきれました。貧しき者に施すのが富める者の美徳とはいえ、エドガー少年のそれは些か度が過ぎていました。 水晶玉をご覧ください、エドガー少年が映っています。 いえ、もう少年とは呼べませんね。 「今日の食事は口に合わなかった?言ってくれたら替えさせたのに」 「ほっとけ」 「待って、袖に血が……まさか」 エドガー氏は貴方のポケットを暴き、スープに混入していた硝子の欠片を没収します。みるみるエドガー氏の顔が険しくなりました。 「料理に入ってたの」 「どこ行くんだ」 「罰しにいく」 「余計なことするな」 「君は僕の家族なんだぞ、不当な扱いを見過ごせるか」 「犬の糞じゃないだけマシ」 犯人は料理長かメイドかそれ以外か……わかりません。どうでもいい。料理に異物を入れられるのはまだ序の口で、ベッドに針を仕込まれた事もありました。 「連中、俺が気に入らないのさ。イーストエンドの売女のててなしごだもんな」 鉄錆びた味が広がり、手のひらのくぼみに赤い唾を吐きました。幸い喉は切れておらず、口内の粘膜をちょっと傷付けただけですみました。 ひりひり疼く傷口を窄めた舌先でまさぐり、またも自分を避けて行こうとする貴方の肘を掴み、エドガー氏は意外な行動にでました。 「!?ッ、」 貴方を壁に押し付け、唇で唇を塞いだのです。エドガー氏の唇は生温かく柔らかで、赤い唾液が糸を引きました。 貴方が押さえ込まれた壁の上には、スタンホープ伯爵一家を描いた肖像画がかかっていました。 中央の椅子に掛けているのが伯爵、向かって右側にたたずんでいるのが他界した夫人、左側に直立している紅顔の美少年がエドガー氏です。 絵の中から睨み据える厳格な風貌に後ろめたさを覚え、震える手でエドガー氏を突きのけます。 「何するんだ」 貴方の襟元は乱れ、華奢な鎖骨が覗いていました。 エドガー氏は言いました。 「消毒」 漸く思い出しましたね。思い出したくなかった?はは……。 翌日、使用人が一人解雇されました。貴方に食事を運んでいたメイドでした。 何故? エドガー氏のスープにガラス片が混入していたから。 「誤解です旦那様、エドガー様のスープにガラスのかけらなんて入れてません、運ぶ前にちゃんと確かめました!」 ヒステリックな金切り声で抗議するメイドを一瞥、エドガー氏は口元にハンカチを当て血の染みを見せました。 「万一飲み込んでいたら、僕は死んでいたかもしれないね」 あり得ません。エドガー氏の自作自演です。彼は先日貴方から回収したガラス片を、何食わぬ顔でスープにまぜ、噛み砕いたのです。 貴方は全てを知りながら黙っていた。 メイドが解雇されたのち、貴方はこらえれきずエドガー氏に詰め寄りました。 「追ん出すだけなら怪我までする事なかったじゃないか、なんで」 「でも、君は怪我したろ」 振り返ったエドガー氏の顔には、真剣な表情が浮かんでいました。 「君が経験した痛みを知りたかった。じゃないと|公平《フェア》じゃない」 エドガー氏は貴方と対等な関係になりたかった。 「ガラス入りスープは初めて飲んだけど、まずいね。珪素と鉄錆の味がする」 思えばこの時、貴方はエドガー氏に底知れない恐怖を感じたのでしょうね。 貴方たちは同時に美術学校に入学しました。デッサンの授業では毎回エドガー氏がほめられました。 「なあ知ってるか。アイツの親父、学校に多額の寄付をしてるんだってさ」 「どうりで下手くそのくせに贔屓されてるわけだ」 「次期伯爵さまを無下に扱えないってか」 エドガー氏のデッサンは凡庸でした。貴方の目にはそれがハッキリわかりました。 その頃からです、エドガー氏が歪んでいったのは。 彼は自身の実力が評価されない現実に鬱憤を募らせていきました。 「線が歪んでるぞ」 「デッサンが狂ってる」 「肌の塗りが雑だ。瑞々しさが感じられない」 貴方が絵を制作していると決まって後ろに立ち、欠点を論います。とはいえ、告げ口でもして不興を買うのは得策とはいえません。貴方が屋敷で暮らせるのは偏にエドガー氏の好意によるもの、身も蓋もない言い方をすれば貴族の息子の気まぐれ。 仮にエドガー氏の機嫌を損ねようものなら、路頭に迷うしかありません。 貴方はお母上の二の舞になりたくなかった。 貧乏はうんざりです。 せめて自分の棺代位は稼いで死にたい。 高尚な信念を持たず。 旺盛な野心も持たず。 そもそも貴方は絵が好きだったんでしょうか? 心から画家をめざしていたんでしょうか? 皆さん忘れがちですが、好きな事と得意な事は違います。 貴方はたまたま絵が上手かった、絵描きの才能があった。 でもそれだけ。 絵を描き続けたのは何故です?お金がほしかったから?周りの大人がほめてくれるから? 一ペニーも儲からず、誰にもほめられなければ描く意味がありません。 貴方にとって絵を描くことは|生計《たっき》の手段に尽きます。それ以上でも以下でもない賎業。 食べるため。 生きるため。 ただそれだけの為に、生活の為だけに描き続けた。 正直におっしゃいな。 貴方、本当は絵が嫌いだったんじゃないですか?絵描きなんて金持ちの道楽だって、軽蔑してたんじゃないですか。 往来を行き交うひとびとに乞われるまま絵を描きながら、たかが似顔絵の為に金を払うなんて物好きなと、心の中で嘲ってちゃちな自尊心を保っていましたよね。 好きな事と得意な事が結び付かないのは悲劇と言うしかありません。それを利用するしたたかさが備わっていれば世間を渡っていけましょうが、生憎エドガー氏はそうじゃなかった。 彼の誠実は生粋だ。 貴方ほど器用にも狡猾にも生きられない。 神様は本当に意地悪だ。 白状なさいな、ホントはエドガー氏を馬鹿にしてたでしょ?初めて会った時から嫌いだった、そうでしょ? 金持ちはとかく忘れがちですが、貧乏人にもプライドがある。 貴方の場合、大人に施されるのはまだ耐えられた。ですが子供は……自分と同じ年頃の少年に同情されるのは耐え難い。 言い過ぎました、座ってください。貴方は悪くない。最初に言ったでしょ、僕は裁かず罰しない。 神ならざるこの身にそんな大それた権限は与えられていません、貴方が抑圧してきた本音がどうあれ……。 時に鈍感は残酷だ。 いい加減人々は知るべきです、博愛精神に育まれた善意が他者を傷付けることもあると。 貴方にしてみれば、エドガー氏の善良さは毒だった。 何故無能な人間がちやほやされるのか、教授たちに特別扱いされ持ち上げられるのか、彼を見るたび腸が煮えくり返ったでしょうね。 恵まれた人間は恵まれただけで罪なのです。 貴方は復讐することにした。エドガー氏の嫌味に表立っては反論せず、謙遜してみせたのです。 「助言どうも。俺はまだまだ未熟だな」 「子供の頃から一流の美術品に囲まれ、目が肥えたお前がいうのなら間違いない」 「教授たちはさすがにわかってるな。お前が一位に選ばれたのは実力だ。誇れよエドガー氏、伯爵もきっと喜ぶ」 全く酷いお人だ。貴方はそうしてちくちくちくちく、善意にくるんだ言葉の棘でエドガー氏を嬲った。 彼の嫉妬に気付かぬふりを装い、わざと罪悪感を植え付け、エドガー氏を追い詰めて行ったのです。 可哀想なエドガー氏。 その頃から奇行が始まりました。夜更けの屋敷から、授業中の学校から、たびたび抜け出してどこかへ消えてしまうのです。 同時にエドガー氏の絵に変化が兆しました。扁平で魅力に乏しかった絵に生命の息吹が宿り始めたのです。 凄腕の師に弟子入りしたのだろうと級友たちは噂しました。童貞を捨て一皮剥けたのだと、ゲスな勘繰りを働かせる者もいます。 潔く認めておしまいなさい。 貴方はエドガー氏を憎み、嘲り、蔑んでいた。 自分より劣ると見なし、馬鹿にしていた人間に追い越されるほど屈辱的な体験はありません。 絵の才能は貴方がエドガー氏に対し持ち得た、唯一にして最大のアドバンテージでした。 それを失ってしまったら、貧民街上がりの卑しい孤児に何が残るというのです? 思い上がっていたのは貴方の方です。 狂おしい嫉妬と焦燥が責め苛みました。 ふと気付けば画帳をめくり、エドガー氏の顔をしるし、それを鉛筆で上から塗り潰していました。 何度も何度も何枚も何枚も、隅から隅まで真っ黒に塗り潰します。しまいには芯が折れ紙が破け、大笑いしていました。 ジョージィ・ポージィ・プティング・パイ、|男の嫉妬《エンヴィー》は見苦しい。 貴方はエドガー氏を憎んだ。 その整えられた爪を、柔く白くすべらかな手を、綺麗に磨き上げられた靴を、一番好きなものを失った人間に好きなものを描かせる残酷さを、貴方の才能を発見したのは僕だと威張る横顔を、伯爵に相対し家を出ると言いきった無知なる傲慢さを、弱者に施す高潔な精神と敵を排す苛烈な魂を、エドガー・スタンホープの全存在を憎んだ。 かくも運命とは残酷で人間は愚かな生き物、天上天下あらゆるものに序列を付けずにいられません。 エドガー氏が貴方に劣る人間なら、天才に至らぬ秀才どまりなら、その報われない努力を憐れんでぬるく愛でていられたのに。 彼が足止めしなければ母の死に目に間に合ったのに。 「畜生」 乱暴に紙を破り取り、握り潰して壁や床に投げ付け、それが跳ね返って顔や体に当たっても、ベッドに独り腰掛けた貴方は破滅的な哄笑をやめませんでしたね。 伯爵は息子の素行を憂い、貴方にエドガー氏の監視を命じました。 ご子息が夜遊びにハマり身分違いの女を身ごもらせるか、性病を伝染されたら大変と思ったのでしょうね。 貴方は一般人に化け、夜な夜なイーストエンドに足を運ぶエドガー氏を尾行しました。 何故こんな場所へ? 賑やかなパブが軒を連ねた表通りならいざ知らず、エドガー氏が目指すのは閑散とした裏通り。 やがてエドガー氏が消えたのは教会の隣の建物……死体安置所でした。貴方は大いに戸惑いました。 娼館に出入りしてるんじゃないのか? てっきりそうだと思って、伯爵に預かった手切れ金を持ってきたのに。 調子を狂わされたまま石階段を下り、突き当たりの部屋を覗き込み、驚愕に立ち竦みました。 エドガー氏は医者に賄賂を払い、一体一体死体を検め、狂気じみた形相でスケッチしていたのです。 ただスケッチするだけでは飽き足りません。 表返しまた裏返し、あちこち撫でて押して感触を確かめ、瞼を固定して濁った眼球を観察しています。 死体は物言わず微動だにせず、台に仰向けてモデルを務めていました。 吐き気がしました。 モルグには消毒液の刺激臭にまざり、腐敗臭が立ち込めています。エドガー氏はまるで意に介さず、腹から臓物を零した死体に歩み寄り、左右対称にご開帳された肋骨の奥の心臓を描いていました。 戦慄を禁じ得ない、おぞましい光景でした。 死体のスケッチを終えたのち、エドガー氏は医者に挨拶してモルグをでました。貴方は尾行を続けます。次にエドガー氏が向かったのは、煙管を咥えた廃人たちが屯する阿片窟でした。 エドガー氏はこの店の上客らしく、東洋人の主人に揉み手で奥へ通されました。 貴方は不機嫌に舌打ちし、伯爵に預かった手切れ金を払い、エドガー氏を追いかけました。 エドガー氏は……いました。店の最奥、突き当たりの部屋。天蓋付きの豪奢な寝台に横たわり、けだるげに煙管を喫っています。室内には甘く濃密な阿片の匂いがむせ返るように立ち込め、眩暈を誘いました。 貴方は従業員の目をかいくぐり、エドガー氏の部屋へ向かいました。エドガー氏は貴方を見ても顔色を変えず、しどけなくベッドに横たわり、時折思い出したように煙管を口に運んでいます。 「迎えにきてくれたのかい。お世話様だな」 「死体のスケッチのあとは阿片窟で豪遊か。伯爵が知ったら泣くぞ、一体何を考えてる」 エドガー氏が緩慢な動作で上体を起こし、片膝を立てます。 ばらけた前髪の奥から覗く眼差しは濁り、焦点が定まりません。 「レンブラントの出世作、『テュルプ博士の解剖学講義』を知ってるかい」 「解剖実習の現場を描いた悪趣味な絵だろ」 「スランプ脱却を掲げ、偉大なる天才のひそみにならってみようとしたのさ。死体はいいぞ、疲れただの飽きただの文句を言わない。関節を反対側にねじっても苦情を言ってこない」 「回りくどい。要点を述べろ」 「物事の本質を知らなきゃいい絵は描けないって事さ。どうせ明日には土の下に埋められるんだ、その前にデッサン位かまわないだろ、医者には許可をもらってる」 「買収したくせに」 「死者への冒涜だって言いたいのか?」 エドガー氏は唐突に仰け反り、涙がでるまで笑い転げました。以前の彼とは別人に思えます。 「人間なんて皆同じ、貴族だろうと平民だろうとしょせん血と臓物の積もった皮袋にすぎない。僕は人間の骨格や内臓の配置、血管の地図を知るために解剖に立ち会った。夜な夜なモルグに通い詰め、医者にこっそり賄賂をやり、惨たらしい死体を描きまくった。僕は凡人だから、そうまでしなきゃ釣り合わないんだよ」 誰に、とは聞けなかった。 「顔が真っ青だぞ。引いてるのか」 「おかしいぞ、お前」 「ぼけっと突っ立ってないでもっとこっちに来い。ああ、ドアは閉めてくれよ。スタンホープ伯爵の長男が阿片窟に入り浸ってるなんて、とんでもない醜聞だからな」 後ろ手に扉を閉め、注意深く室内を突っ切りました。エドガー氏は阿片に酩酊し、饒舌に話し続けています。 貴方には彼を無事に連れ帰る義務があります、|胡乱《うろん》な阿片窟に放置はできません。 「そうだ、もっと……僕の前に」 本音を言えば、即刻逃げ帰りたかった。エドガー氏の醜態は正視に堪えかねた。 貴方が憎んでいたのは清く正しく美しいエドガー・スタンホープで、目の前にいる阿片中毒の青年じゃない。 「実はスコットランドヤードにツテがあるんだ。君も知ってるだろ、最近世間を騒がしてる残虐非道な殺人鬼、切り裂きジャック。ヤツは娼婦の死体から子宮を持ち去るんだ」 描いたんだ。 見せてやろうか。 エドガー氏は狂ってしまった。貴方の方へ身を乗り出し、両肩を掴んで迫り、ぎらぎら輝く目で― 押し倒された。 服を剥がれた。 エドガー氏は貴方に跨り、四肢を組み敷きました。

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