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第2話

逃げようと思えば逃げられた。 そうしなかったのは打算に絡めとられたから。 阿片で理性が蒸発したエドガー氏に逆らっても生傷が増えるだけ。反抗的な態度をとり、屋敷から叩き出されるのは願い下げだ。 軋むベッドの上で歯を食いしばり、ひたすら激痛と不快感に耐えてやり過ごすうち、快感が芽生え始めました。 「ぁッ、ぐ、エドガー、よせ」 「背筋。肩甲骨。くっきり浮かんでる。脊椎の突起までハッキリわかる」 エドガー氏が貴方を裏返し、しなやかな指先で骨や筋肉を辿っていきます。それはまるで貴方の全てを指に記憶させようとしているかのようで、凄まじい執念に圧倒されました。 「ここに心臓がある。握り潰せば一巻の終わりだ」 貴方が猜疑心のかたまりならエドガー氏は独占欲のかたまりでした。どこまでいっても平行線、すれ違い続けるふたり。 何が間違っていたのでしょうね。 本当に心当たりがない?そうですか……。 エドガー氏は底抜けに貪欲に、たゆまず実直に、被写体の全てを細部まで暴いて知り尽くそうとしました。 前立腺を突き上げればどう反応するか。 陰茎をしごき立てればどんな声を出すか。 裏筋をくすぐればどうなるか。 それを知るには一回じゃ足りません。エドガー氏は何度も何度も貴方の体を求め、貪り、もてあそびました。 貴方はエドガー氏の手と指と舌で何度も何度も追い上げられ、絶頂を味わいました。 情熱が技巧に先行する性戯。凌辱。 行為中、エドガー氏は繰り返し貴方の手の甲と平に接吻しました。乾いた絵具がこびり付いた爪を含み、吸い立て、「シアンの毒で死にたい」と呟きました。 「勝手に死ね」と貴方は吐き捨てました。 以来エドガー氏は阿片窟に迎えに来た貴方を部屋に引きずりこみ、毎度の如く強姦を繰り返します。 エドガー氏が病み衰えるほどに、彼の絵は崇高な魅力を放ちました。 人体の描写は解剖学の正確さを極め、肌はその下の筋肉や血管の脈動を透かす生々しい肉感を伴い、表情は苦悩と憂いを帯び、教師陣や級友たちの絶賛を集めました。 エドガー氏の名声の裏で、貴方が犠牲になってることには誰も気付きません。よしんば気付いた人間がいても助けは期待できなかったでしょうね。 片や名門伯爵家の長男、片や貧民窟上がりの孤児。 エドガー氏が主で貴方は従。 それを痛感したればこそ、貴方は日々与えられる屈辱を耐え忍んだ。 「ぁッ、ぐっ、エドガーやめっ、ぁあっそこっ」 「奥が感じるのか、淫乱な体だね。先端からとぷとぷ滴らせて……」 「頼むやめてくれ、もうむりだ、休ませッあ」 その日も貴方はエドガー氏に抱かれていました。 天蓋付きのベッドに押し倒され、純白のシーツをかきむしりながら、次の授業に用いる絵具を買い足さねばと朦朧とする頭で考えていました。 授業の課題は空でした。倫敦の曇天を描く予定でした。白と黒をまぜたら灰色になるのは、絵描きならずとも知っています。 白、黒、灰 白、黒、灰 回れ廻れ回れ廻れ 落ちろ堕ちろ落ちろ堕ちろ 「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッああぁあ」 エドガー氏が貴方を後ろから抱き締め、深く深く貫きました。 体内に打ち込まれた楔が白濁を放ち、同時に貴方の陰茎も精を吐き、ぐったり突っ伏します。 ところが、この日はまだ終わりません。 エドガー氏が鞄から取り出したのは真新しい絵筆でした。 「さっき画材屋で買ってきた。何の毛かわかる?」 「豚?」 「はずれ、クロテンだよ。ロシアンセーブルともいうらしい。弾力があって揃いが良いのが特徴だ」 嫌な予感が募っていきます。 咄嗟にエドガー氏を突き飛ばし逃げようとするも遅く、腕を掴んで引き戻され、シルクのハンカチで両腕を縛り上げられました。 「やめろ、くるな、はなせ」 ベッドの支柱に括り付けられた貴方に、クロテンの絵筆を構えたエドガー氏が忍び寄ります。 やがてエドガー氏は腹に跨り、右に左に背いた顔を追い、瞼や唇のふくらみを筆先でなぞりはじめました。 「ッ、ふ」 絵筆が内腿に移り、手足の指の股をくすぐり、めくるめく官能をさざなみだてます。 圧をかければ扇状に広がり、力を抜けば再び窄まり閉じて、まるで生き物みたいでした。 恥辱と快感に打ち震える貴方を見下ろし、エドガー氏が陶然と微笑みました。 「面白い。生きたキャンバスだ」 声だけは漏らすまいと唇を噛む貴方をよそに、エドガー氏は巧みに急所を避け、じらすような緩やかさで内腿や腹筋を刷き、重点的に乳首を責め始めました。 かと思えば一旦離れ、煙管から立ち上る煙をたっぷり巻き取り、香炉に均された阿片の粉末を筆先に塗します。 エドガー氏が阿片の粉末と煙に筆を浸すのを目撃し、全身の血が逆流しました。 「じっとして。上手く塗れない」 「ンっ、んんっ、ぐ」 執拗にくすぐられ、引き締まった腹筋がわななきます。耐えきれず甘く湿った吐息がこぼれ、内腿が不規則に微痙攣し、腰が上擦り出します。 「クロテンの筆は気に入ったかな。君用に誂えたんだよ」 鈴口や裏筋を絵筆がくすぐり、急激に性感を高めていきます。貴方は混乱しました。 筆を通し皮膚の毛穴に刷り込まれた阿片は、血液に乗じて瞬く間に全身を駆け巡り、酩酊を引き起こしました。 「馬鹿、筆をどけろ」 「阿片は媚薬にもなるんだ」 エドガー氏は手を緩めず、貴方の股間に屹立した陰茎を思うさま筆でなぶり、一際敏感な粘膜に阿片を塗しました。 「~~~~ぁあっあ、ぁっ」 白昼夢を見ました。 棺桶に寝かされたお母上が笑っていました。幼い頃のエドガー氏が口から真っ赤な血を垂れ流し笑っていました。 貴方は切なげに身悶え、エドガー氏の署名が入った、枕元の画帳をはたき落としました。 まだ終わりじゃありません、最も触れられたくない場所が残っています。案の定、絵筆は肛門にあてがわられました。周囲の襞を一本一本くすぐり、暴き、窄まりを浅く突付いています。 「許してくれ……そこだけは……」 「さんざん使い込んだのに、何を今さら恐れるんだい」 遂に貴方は泣き出しました。シーツにぱたぱた涙が滴りました。エドガー氏の言うとおり貴方の肛門は赤く腫れ、擂鉢状に削げています。 「ぁあっ、あっああぁ!」 不意打ちでした。エドガー氏が貴方の腹に手を回し、筆先でへそをほじくったのです。 「またイッた。淫乱だね」 呆れ半分感心半分エドガー氏がからかいました。貴方の精液に濡れた筆は先端が尖り、毛束が纏まっています。 「筆だけは嫌だ……しゃぶれっていうならしゃぶる、犬のまねもする、他のにしてくれ」 絵描きが絵筆で犯される以上の屈辱はありません。泣いて頼む貴方の耳を甘噛みし、エドガー氏は諭しました。 「君の筆と僕の筆、どっちで犯されたいか選べ」 彼は悪魔でした。 もはや聡明で心優しい少年の面影は消え失せ、貴方を辱める事だけに執念を燃やしていました。 で、どっちを選んだんですか? 聞かなくても知ってるくせに……まあ知ってますけどね、やっぱりご本人の口から聞きたいじゃないですか。おっと、悪態を吐くのはやめてください。 貴方にとって幸いだったのは、エドガー氏が突っ込んだのが「柄」の方だった一点に尽きます。筆先は不衛生ですものねえ。 尻から絵筆を生やし、全裸でよがる痴態はさぞかし見ものだったでしょうね。 可哀想なエドガー氏。 可哀想な貴方。 エドガー氏と許嫁の結婚が決まったのは、その一週間後でした。 本当ならエドガー氏の卒業を待って式を挙げる予定でしたが、スタンホープ伯爵が前倒しで急かしたのです。 伯爵はね、息子を画家にする気なんて毛頭ありませんでした。美術学校にやったのはご機嫌とり、爵位を継ぐ前の猶予期間の認識でした。 屋敷の廊下で伯爵に追い付いたエドガー氏が、血相変えて申し立てました。 「待ってくださいお父様!」 「この上何を話し合うというんだ、青春を謳歌して気がすんだろ。お前に絵の才能はない、諦めろ」 「結婚なんてまだ考えられません、せめて卒業まで」 「息子が骨の髄まで阿片に毒され廃人になるのを待てと?」 伯爵の顔に軽蔑が浮かびます。 エドガー氏の眼窩は落ち窪み、頬は削げ落ち、艶やかだった髪の毛はぱさぱさに傷んでいました。 「なんだその体たらくは。禁断症状で絵筆も満足に握れないじゃないか」 脇にたらした手は痙攣し、指の震えが止まりません。 「どうして……」 知ってるんだ、とは続けられません。 伯爵が知っている理由は明らか、貴方が報告していたからです。 エドガー氏が振り返りました。裏切り者を見る目でした。貴方は顔を背け、たった一言絞りだします。 「すまない」 「復讐なのか」 エドガー氏が髪を掻いてあとずさり、貴方は言葉を失い立ち尽くします。 錯乱するエドガー氏に片手をさしのべ、弁解しようと口を開き、虚無感に苛まれて閉じました。 「……かもな」 ずっとずっとエドガー氏が嫌いでした。 大嫌いでした。 エドガー氏にとって貴方は親友だった。 貴方にとってエドガー氏は恩人だった。 友情と恩義は両立するでしょうか? エドガー氏は何もかもに恵まれすぎていた。 貴方は絵の才以外何も持たなかった。 故にこそ貴方は、エドガー氏が一番欲した友情を与える事を拒んだ。 エドガー氏の顔に幻滅が過ぎり、すぐ消滅します。 身を翻し立ち去るエドガー氏を、貴方は苦渋の面持ちで見送りました。 結婚式の準備は粛々と進みました。許嫁もインドから帰国したそうです。 当時七歳だった幼女は、十六歳の見目麗しい淑女に成長していました。 ところがエドガー氏は一度も花嫁に会いに行きません。 学校の授業をサボり、昼間からパブに入り浸り、カウンターで酔い潰れています。 パブにいない時は阿片窟、このどちらかにいました。貴方は伯爵に命じられ、しぶしぶ友人を迎えに行きました。 「起きろ、花嫁さんが待ってるぞ。衣装合わせをすっぽかすんじゃない」 「ほっといてくれ」 肩を揺すって起こせば寝ぼけた声でぼやき、邪険に手を払われました。さすがにむっとします。 「レディに恥をかかせるな」 「だったら君が結婚すればいい、お似合いだ」 「俺が?冗談キツい」 「何故?養子だから?」 「養子ですらない、お情けで置いてもらってるただの居候だ」 唇を曲げて皮肉っぽく自嘲すれば、エドガー氏は悲痛に顔を歪め、グラスの底のジンを呷りました。 「なんでわかってくれないんだ」 伯爵が? それとも貴方? エドガー氏の罵倒は主語がぬけていました。 「……お前は立派な伯爵になるよ」 「お為ごかしはやめろよ、心にも思ってないくせに」 「思ってるさ。俺を拾ったのは、救貧院を慈善訪問した帰りだったんだろ」 「失敗した。別の道を使えばよかった」 「感謝してるんだよ本当に。お前がいなけりゃ野垂れ死んでた」 エドガー氏の腕を肩に回し、腰を支えて立ち上がらせた拍子に、彼の手が滑りました。 いえ、わざとグラスの底を叩き付けたのかもしれません。 結果としてグラスは割れ砕け、中身のジンがカウンターに溢れ、エドガー氏の血と混ざりあいました。 「馬鹿野郎!」 咄嗟にエドガー氏の手を包み、てのひらに刺さった破片を抜いていきます。 「筆が握れなくなる」 「もういいんだ、どうでも」 「よくない」 「代わりに描けよ、その方が良いものができあがる」 「盗作から傑作は生まれない、剽窃の誹りは受けたくないね」 ほんの一瞬、貴方とエドガー氏は笑い合いました。 幸い傷は浅く、深手には達していません。 ガラスの破片をあらかた摘出したのち、エドガー氏の指先に膨らむ大粒の血を吸い、唾液で消毒します。 「続きを描かなきゃ。式までに仕上げたい」 「アトリエに放置してる未完の絵か?」 「どうしても手に入らない素材があるんだ、方々探し回ってるんだけど」 「鉱石?貝殻?植物?」 「……砂」 「海にうんざりするほどあるぞ」 「|暗夜《あんや》に恩寵を降らす特別な砂なんだ」 さっぱりわかりません。 ハンカチを巻いて止血を施し、エドガー氏を背負い直しました。 「綺麗だな」 エドガー氏の視線の先には縁が欠けたグラスが倒れていました。飴色に艶めくカウンターには琥珀色の液体が広がり、赤い血を薄めています。 人さし指をジンに浸し、美味そうにしゃぶるエドガー氏。ハンカチにじわじわ滲み出す赤。 「ほら」 再びジンをすくいとり、口元へさしだます。 貴方は店に犇めく酔客の隙を突き、エドガー氏の傷口から滴るジンと血の雫を舌で受け、うっとりと味わいました。 エドガー氏は貴方が雫を嚥下するのを見届け、満足げに苦笑しました。 「ジン四分の一オンスに血が一滴。それが僕たちの新しい色だ」 僕にはわかりません。 あえてわからないふりをします。 貴方は何故エドガー氏に優しくしたのですか? 同情?憐憫?優越?あるいは償い、罪滅ぼし? 彼の堕落に比例し救われていたのは、実は貴方じゃないんでしょうか。 おっかないなあ、そんな目で見ないでください! 貴方がエドガー氏に近付いたのは、全部計画の内だなんて言ってないじゃないですか。 毎日同じ場所に座ってればスタンホープ伯爵家の紋章入り馬車が通る日時の把握は容易い。 貴方のお母上の命日は、エドガー少年の救貧院訪問の日取りと重なっていました。 貴方はただ馬車が通る時刻に街角に座っていればいい。 聡明で心優しいエドガー少年は必ず馬車を止め「どうしたの」と下りてくるはず、そこに付け込むのです。 ええ、ええ、貴方は悪くありません。ちっとも悪くありません。 ひもじかった。 虚しかった。 悲惨な身の上話で同情を買いさしのべられた手をとれば、ドブ臭いイーストエンドとおさらばできるのです。貴方はエドガー少年の良心に賭け、見事勝利しました。 唯一にして最大の誤算は、エドガー少年の貴方への傾倒ぶりを侮っていた事です。 決定的な破局の訪れは結婚式前夜。 その日、スタンホープ伯爵は家にいました。数日前からエドガー氏は外出を禁じられアトリエにこもっていました。挙式の最中に粗相を働いちゃ台無しですもんねえ。 貴方も結婚式に出席する事になってましたね。 肩書は新郎の親友、でしょうか。エドガー氏がそれを望んだかはわかりません。 寝る支度をしている時、軽いノックが響きました。扉を開けた廊下には執事が控え、「旦那様がお呼びです」と告げました。 内心またかよと呆れました。 しかたなく準備を整え書斎に赴けば、伯爵は赤々と燃える暖炉に炭をくべ、一人掛けのソファーにふんぞり返っていました。 「エドガー様の結婚前夜なのに、お休みになられなくてよろしいのですか」 「仕事は済んだ。気分転換がしたい」 「御意に」 貴方は暖炉の前に立ち、赤々と火影が照らす部屋の中、ガウンを脱いで裸身をさらしました。 「後ろを向け」 パチパチ爆ぜる炎を心を殺し見詰めます。伯爵は貴方の手をシルクのハンカチで束ね、膝裏を蹴って跪かせました。 伯爵がソファーに深く沈み込み、懐中時計の金鎖を手繰って蓋を開きます。 「三分」 「はい」 貴方は跪いたまま前傾し、伯爵の股間に|頭《こうべ》をたれ、萎れた陰茎を咥えました。手は使えません。 「んっ、む」 犬のように舌を出し舐め上げ、亀頭を夢中で頬張り吸い立てれば、だんだんと膨らんできます。 「ぁっ、あぐ、痛いです旦那様」 「口を利くな。舌を使え」 「申し訳ッ、ありません」 伯爵が貴方の股間を裸足でぐりぐり踏み付け、口淫を妨げます。嗜虐の愉悦に酔った醜悪な表情。 「ふぅ、ンぐ」 倒錯した情事の最中、鼓膜と耳朶を縫い刺す規則正しい秒針の音が焦燥を炙ります。 体重を支える膝が擦れ、縛り上げられた両手がもぞ付き、喉を圧迫する亀頭に息苦しさが募りました。 「はッ、はッ」 伯爵の攻撃は陰湿でした。もたげ始めた股間を踏み躙るだけじゃ飽き足らず、乳首を抓って引っ張り、あるいはねちねち捏ね回します。 かと思えばだしぬけに頭を押さえ込み、喉の奥深くを突いてきました。 「慈悲を注いでやる。零すなよ」 「有難き、幸せ、ッは」 くすんだ赤毛を鷲掴み、口内に射精します。 嘔吐したら最後酷い折檻を加えられるので、生臭く青苦い体液を無理矢理飲み下しました。伯爵がもったいぶって蓋を開き、文字盤を一瞥しました。 「過ぎたぞ」 「そんな……うぐっ!」 「口ごたえか。仕置きだな」 諦念。 瞠目。 「……明日はエドガー様の結婚式です。体に傷を付けるのはおやめください」 「当たり前だろ」 さも心外そうに唸った伯爵が貴方の顔を手挟み、一度果てて萎びた陰茎へ導きました。 「出すぞ」 何が、なんて馬鹿げた質問はしません。これをするのは初めてじゃありません。キツく目を瞑り、おずおずと口を開け、陰茎の先端を含みます。直後に伯爵が痙攣し、勢いよく尿が迸りました。 「ん゛ッ、ん゛」 塩辛い液体が口に満ち溢れ、喉を滑り落ちます。後から後から大量に……直接注がれる尿を必死に嚥下しながら、貴方はこれ位なんでもないと自分を慰めていました。 ガラス片が混入したスープを飲まされるよりずっとマシです。 伯爵は貴方の頭を掴んで放尿したのち、スッキリした表情で離れていきました。 「けはっ、かほっ」 こらえきれずにえずきます。とはいえ、一滴残らず飲み干したのはあっぱれです。 「大変美味しゅうございます、旦那様」 嘔吐感をごまかし媚びます。喉と胃がいがらっぽくむかむかしました。 「浅ましい顔だな」 伯爵が優越感に酔い痴れ頷きました。それから伯爵は、本格的に貴方を犯しにかかりました。 ジンを血で割った絵具は飲めたのに、何故伯爵の小便はクソまずいのか。 貴方は床に突っ伏し、この苦痛な時間が早く終わってほしいとただそれだけを祈っていました。 「ぁッ、ンぁぐ、ぁあっ」 五十代後半の伯爵は早漏なので、目を瞑り耐えていれば十分ほどで終わります。終わるはずです。 「お目付け役の役目もろくに果たせんっ、本当に使えんヤツだなお前はっ」 「申し訳ッ、っぐ、ありませんっ」 「所詮下賤の出だ、貧民窟上がりの使用人に期待したのが間違いだった」 「旦那様ッ、あぁっ、んっぐ、お許しを、っぁあ」 乱暴に突かれたせいであちこち擦り剥けて痛いです。貴方は泣いて謝り、物欲しげに媚び諂い……ドアの隙間から凝視を注ぐ、鋭い眼光に気付きました。 ゆっくりとドアが開き、逆光を背負ったエドガー氏が無表情に立ち塞がります。 「何をなさってるんです、お父様」 抽送が止まります。 伯爵は狼狽しました。 「エドガー……もうねたはずじゃ」 「何をなさってるんですかと聞いたんです」 エドガー氏が一歩踏み出します。 「何故彼は裸なんですか。何故縛られてるんですか。何故泣いてるんですか」 「これには訳が」 「そのみっともないザマはなんです。何故裸なんです。何故丸出しなんです。小便くさいですね。飲ませたんですか。僕の大事な人を、尿瓶代わりにしたんですか」 「パトロンになれと|希《こいねが》ったのはお前じゃないか!」 暖炉の火影が踊り狂い、エドガー氏が利き手に持ったペインティングナイフがきらめきます。 伯爵が萎えた陰茎を引き抜くのと、エドガー氏のナイフが腹に刺さるのは同時でした。 「エドガー!」 エドガー氏は貴方の戒めを解き、瀕死の父親を顧みず逃げ出しました。伯爵はまだ息があります。 「気でも違ったのか、実の親父になんてことするんだ!」 別室のドアが開け放たれました。エドガー氏と貴方が兼用で使っている、屋敷の外れのアトリエです。 貴方は裸にガウンだけ羽織っていました。 エドガー氏は激高し、ペインティングナイフをめちゃくちゃに振るい、キャンバスを切り刻みました。 豚、マングース、セーブル、イタチ、牛、馬、クロテン……立派な拵えの絵筆が乱雑にばら撒かれ降り注ぎます。貴方がお零れに預かってきた画材。 貴方が炭で描いてた頃から、エドガー氏には申し分ない絵筆と画材が与えられていました。 「気が違ったのはそっちだろ。お父様に抱かれてたのか?何年前から」 「お答えするよ。最初から、だ」 無造作に赤毛をかき上げ、なんでもない事のように虚勢を張って言いました。 「お情けでおいてもらってるんだから、あれ位当然だろ」 エドガー氏がうろたえました。 「なんだよお前、自分が頭を下げたから居候が許されたとでも思ったのか」 「僕は」 「お生憎様。俺は最初からあの人の玩具、奴隷だった。あの変態にガキの頃からどんな事されてきたか聞かせてやろうか」 「やめろ聞きたくない」 「だけど息子のお前には聞く義務があるんじゃないか?あの人が俺の口を尿瓶にしたのは一度や二度じゃない、犬の糞入りスープの方が余っ程上等に思える味だぜ、腕を縛んのはシルクのハンカチときた、親子で好みも似るんだな!アレでも一応痛めねえように気ぃ遣ってくれてんだとさ、泣かせるじゃねえか」 力ずくでナイフを奪いキャンバスに切り付け、画架を蹴倒します。 「伯爵が俺を引き取ったのはお前にほだされたからじゃねえ、最初っからろくでもねえ下心があったんだよ!耳かっぽじってよーく聞けエドガー・スタンホープ次期伯爵殿、お前がスランプだの才能だの贅沢な事でぐだぐだ悩んでる間に俺が何されてきたか、才能が人を幸せにすんのが事実なら何で俺はここにいるんだ、てめェらくそったれ貴族のおもちゃにされなきゃいけねーんだよ!」 九年間、溜めに溜め込んだ怒りが爆発しました。 せっかく耐えたのに、耐えきれると思っていたのに、エドガー氏が全部ぶち壊しました。 「絵なんてどうでもよかった、才能なんざいらなかった、欲しけりゃくれてやるよいくらでも!」 縋り付くエドガー氏を蹴倒し、顔面に唾を吐き捨て、怒り狂って叫びます。 「何で言ってくれなかった」 「毎晩テメエの親父にケツの穴ほじられてるんで助けてくださいってか?」 「ただ君を助けたかった、ずっとずっと憧れていた、君に追い付く為だけに全部全部捧げたのに!」 「時間?金?まさか童貞じゃねェよな、捧げた見返り期待できんのは相手が貰って嬉しいもんだけだぞ」 口汚く罵り高笑いすればエドガー氏の顔が絶望と虚無に染まり、がっくり首を折りました。 「僕は、君を」 「エドガー……お前ってヤツは……」 告白を遮り、腹からの出血が止まらない伯爵が乗り込んできました。大量の脂汗に塗れた顔は酷く青ざめ、目だけがぎらぎらと憎悪に煮えたぎっていました。 「お前が来てからエドガーはおかしくなった。この疫病神め」 伯爵は鉄製の火掻き棒をひっさげていました。その先端が床を擦り、風切る唸りを上げて貴方を狙います。 「危ない!」 間一髪、エドガー氏に突き飛ばされます。 代わりに火掻き棒が直撃したのは貴方が使っている未完成のキャンバスで、使い込まれた画帳がのっかっていました。 火掻き棒に叩き落とされた画帳が床をすべり、高速でページが繰られていきます。 たまさか開かれた帳面に描かれていたのは、貴方のお母上の肖像でした。 「オリヴィア?」 「なんでお袋の名前を……」 とても嫌な予感が過ぎりました。伯爵の目が動揺に揺れ、ブツブツ独り言を呟きます。 「そんなはずない。確かに追い出した」 元メイドの母は嘗て貴族の屋敷に仕えていた、そこの次男坊に孕まされた。スタンホープ伯爵の兄は早逝してる。 「オリヴィア。赤毛。言われてみればよく似てる。迂闊だった、何故気付かなかった。倅を上手く唆して、屋敷を乗っ取る魂胆だったんだな?」 「待ってくださいお父様、話に付いていけません。オリヴィアとは誰です?彼女と何があったんですか」 「安心しろエドガー、お前こそ正統なるスタンホープの後継だ。庶子の兄に爵位など」 アトリエに絶叫が響き渡り、無地のキャンバスに返り血が飛び散りました。 「はは、は」 腰砕けにへたりこんだ弟の前で、貴方はナイフを振り上げ振り下ろし、実の父をめった刺しにしました。 もうなにもかも終わりです。貴方は父殺しの烙印を捺され監獄に送られます。 「あー……すっきりした」 貴方はペインティングナイフを捨てました。伯爵は目をひん剥いて息絶えています。蹴飛ばしても反応はありません。もっと早くこうしていればよかったとさえ思いました。 ふと右を向けば、もとは純白の布に斑の血痕が飛び散っています。布が掛けられたキャンバスはこれだけでした。 一体何の絵だろうと興味をそそられ、布を払うまぎわに画帳を押し付けられました。 「消えろ下民」 エドガー氏が差し迫った剣幕で貴方を窓辺に押しやり、脱出を急き立てます。 「消えろって、明日は結婚式じゃ」 「お前のせいでスタンホープ伯爵家はおしまいだ、どこへなりとも消え失せろ、金輪際顔を見たくない!」 「……はっ」 所詮そっち側かよ。 窓枠を掴んで怒鳴り散らすエドガー氏に白け、画帳を小脇に抱えて庭に降り立ち、一目散に駆けだしました。 ええ、貴方は悪くない。 たとえ人殺しで親殺しでもね。 あにはからんやこの後起きた展開には一切関与してませんし、意外な顛末も知らぬ存ぜぬでしょうね。 屋敷を逃げ出し数日間、貴方はびくびくしていました。 スコットランドヤードの追っ手を警戒して逃げ惑い、イーストエンドの路地裏を徘徊し、場末の木賃宿にしけこんで。 財産と呼べそうなものは古い画帳と僅かな持ち金だけ。 |警吏《けいり》の追跡と捕縛に戦々恐々、生きた心地がしない数日を経たのち、様子を見に戻った貴方を出迎えたのは予想外の光景でした。 スタンホープ伯爵の屋敷はすっかり燃え落ちていました。 跡地には煤けた骨組みだけが残り、あたり一帯に焦げ臭い匂いが漂っています。 エドガーたちはどうした。 何故屋敷が燃えてるんだ。 数分後、街角で買い求めた大衆新聞で真実を知りました。貴方の殺人は何故かエドガー氏の犯行とされていました。 動機は画家の将来を断たれた怨恨。 親子の確執は周知の事実。 結婚前夜に伯爵を呼び出したエドガー氏は、話し合いの決裂に逆上して衝動的に父親を殺害後、屋敷に火を付け命を絶った。 新聞には行方不明の関係者として貴方の名前も出ていました。 ジョージィ・ポージィ・プティング・パイ、貴方には何もない。 いえいえ何もないは言い過ぎました、手元に画帳が遺されていますもんね、お母上と弟君の形見となった画帳が。 開けない? あれからずっと封印してたんですか。 スタンホープ伯爵家は途絶えました。いま名乗りでたら貴方のひとり勝ちですねえ、いかに貴族といえ亡き弟君の許嫁と添わせるようなあこぎなまねはしないでしょうが……。 うるさい。黙れ。知った口を利くな。そういうわけにもまいりません、契約はすべからく履行せねば。 どうして開けないんですか。ご自分の罪と向き合うのが怖い?血文字で恨み言でもしたためられてたらびびりますもんねェ。 宜しい、僕が見守っていてさしあげます。遠慮会釈なく良心の呵責なく、早く捲ってごらんなさい。 ……なんですその顔は。ちょっと見せて……あれっ貴方のじゃありませんね、エドガー氏の画帳だ。 ははあん、同じ銘柄だったんで取り違えちゃったのか。修羅場の只中で署名を見落としたのでしょうね、粗忽な弟君だ。 捲る。捲る。捲る。 描いてあるのはどれも同じ顔、あらゆる角度からスケッチした貴方の寝顔が画帳を埋め尽くしています。 ドジか故意かどちらでしょうね。 弟君が貴方と正反対の善良な人間なら、お母上の肖像を描いた画帳を渡そうとしたのかも知れません。 弟君が貴方とよく似たエゴイストなら、最期に恋文を贈ろうとしたのかもしれません。 阿片窟のベッドに座したエドガー氏は、貴方の寝顔を独り占めし、鉛筆をすり減らしました。 僕ね、思うんですよ。 エドガー氏は貴方に利用された事に気付いてたのかもしれない。だけど好きだから、知ってて知らないふりをした。 エドガー氏はモルグに通い、解剖学を実地で研修しました。その過程で人体の構造に纏わる造詣を深めたなら、父の死体にナイフを刺し、犯人に成り代わる事もできたでしょうね。 仕上げに火を放てば証拠隠滅完了、貴方は晴れて自由の身、大手を振ってお天道様の下を出歩けます。全く見事な作戦じゃあないですか? アトリエには沢山キャンバスがあった。 煉獄にくべる支度はできている。 エドガー氏は最初から気付いてたんじゃないですか。 だからおかしくなっちゃったんじゃないでしょうか。 恋する人が自分に見向きもせず父親に抱かれていたら、復讐に走りたくもなりますよね。 まだわかりませんか。 エドガー氏は貴方を庇った。 最愛の親友を守り抜いて死んだのです。 当代の伯爵と嫡子が死ねば、爵位は庶子にいく。 貴方は一生贅沢し、本当に好きな絵だけを描いて暮らせる。 スタンホープ伯爵は頑健な|御仁《ごじん》で当分死にそうにない、長男が妻を娶っても爵位の継承は当分先。 自分が屋敷に引き入れたせいで、愛しい貴方が飼い殺しの慰み者に貶められるのは耐え難い。 察するに貴方を犯したのは……やめましょ、無粋ですね。 そろそろ閉館です。ジョージィ・ポージィさんもお帰りください。どこに帰ればいいかわからない?そんな事言われても困ります。 そうですね……何処にも行き場がないというなら、エドガー氏が埋葬されたお墓に参られたらいかがでしょうか。お勧めはしませんけど。僕って昔っから教会と相性悪いんですよねえ。 そうそう忘れてました。驚異の部屋は慈善活動じゃありません、観覧料はきちんと頂きます。 お代は記憶。 ワン・ツー・スリー……お目覚めですか。 貴方は誰? オリバーさんとおっしゃるんですか。良いお名前で。 お母上はオリヴィアさんというんじゃありませんか? そりゃあわかりますよ、オリヴィアの息子はオリバーと昔から相場が決まってるんです。 此処は何処?見世物小屋です。 あのドアを開けて真っ直ぐ進んでください。くれぐれも帰り道をお間違いなく、道端で寝たら凍え死んじゃいますよ。 さようなら。 ……ふー、行っちゃった。 これで満足でしょ、約束はちゃんと守りましたよエドガーさん。本ッ当悪趣味ですね、緞帳の内側でずっと立ち聞きしてたんでしょ。可哀想に、すっごい落ち込んでたじゃないですかお兄さん。 まあね。いいんですけどね。 僕は僕を必要とする人のもとに現れる、昔からそうきまっていました。 炎上する屋敷のアトリエにて、自らの腹をナイフで突いた貴方の願いは、彼の記憶の抹消でした。 なるほど、実の父殺しの記憶は彼には重すぎる。悪ぶっていても根は善人です。ましてや腹違いの弟を見殺しにしたとあっちゃ、ね。 自分を責めて責めて責め抜いた挙句安酒に溺れて体を壊し、名前を忘れてしまってもおかしくありません。 それに……真冬の路上で酔い潰れたのを自殺と断じるのは、さすがに行き過ぎでしょうかね。 |努々《ゆめゆめ》誤解なさらず、此処に来た時点じゃ一切記憶をいじってません。 彼が名前を忘却したのは、|偏《ひとえ》に彼が彼であり続ける現実に耐えきれなかったせいですよ。 死んだあとまで身内の心配をしてあげるなんて、貴方ときたら救い難いお人好しだ。 己の魂を担保にお兄さんの名前を取り戻し、引き換えに記憶の一部を奪い、罪を清算した。 どのみち地獄で帳尻が合うようにできているのに、ね。やっぱり人間は愚かで愛い。 取引は成立しました。 我が|永久《とこしえ》の主に誓いエドガー・スタンホープの兄、オリバー・スタンホープの殺人の記憶を封印しました。 代償は魂……と言いたい所ですけど、気が変わりました。火事場からこっそり持ち出した絵をもらいます。 どうするって? 飾るんですよ。 僕は神様や天使と違い、自分の都合で約束を破ったりしません。 アトリエで唯一布に覆われていたキャンバス、彼が見ることなく逃げた絵。 真っ黒。 漆黒の闇。 貴方の唯一にして最大の心残りは、彼に捧げる絵を描き上げられなかった事だ。 理由は簡単、必要な画材が手に入らなかった。 でも大丈夫、心配ご無用。此処をどこだとお思いで?貴方が探し回った画材は驚異の部屋に展示されています。 あそこの小瓶です、さっきオリバーさんが掏ろうとした……きらきら光る砂が入った。 さあ、絵を完成させてください。 黒い絵の具をキャンバス狭しと塗りたくり、まだ乾かない塗料の上に光る砂を塗して。 できた。 あの日見た倫敦の星空。 なんでも好きなものを描いてと乞われ、オリバーさんはページを塗り潰しました。 貴方はそれを、あの夜ふたりで見上げた星空だと思ったんですね。 二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。 一人は泥を見た。一人は星を見た。 アイルランドの詩人、フレデリック・ラングブリッジの有名な詩です。 貴方は彼の中に星を見た。とびきり美しい星を。 それでいいじゃないですか。 オリバーさんがどうなるか?それは神のみぞ知る領分で、僕の関心事じゃありません。 でもまあ悪いようにはならないんじゃないんですかね、愛が重たいスケッチが手元に残ってるし……。 約束が違うって? スケッチも消すって言ったじゃないか? やだなあ見損なわないでくださいよ、いくら僕だってそんな野暮じゃありません、人の恋路を邪魔するヤツはユニコーンに蹴られて死んじまえっていうでしょ。 ……やっと静かになった。やっぱりこうじゃなきゃ、博物館で騒いじゃいけません。 そういや|表題《タイトル》を聞きそびれました、エドガーさんてばうっかりなんだから。 『倫敦の夜』『泥と星』。う~んしっくりきません、『ジン四分の一オンスに血を一滴』? しかたない、オリバーさんには寿命を全うしだいまた来てもらいましょ。 エドガー氏が描いた絵をオリバーさんが名付ける。最初で最後の共同作業、亡者と亡者の合作です。 ていうか無事帰れたかな、そろそろ目を覚ましてる頃だけど。 凍死寸前で意識が混濁してなきゃご案内できないから、ラッキーっちゃラッキーだったんですけど。 此処は|驚異の部屋《ヴンダーカンマ―》。 お客様は迷える魂、蒐集するのは人間の記憶。 またのお越しをお待ちしております。

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