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第1話

 真殿統威(まどの・とうい)は焼けて煤で真っ黒になったアパートの前で行き交う消防隊を眺めていた。  ――これは、どうしたものか。  左腕の時計を見れば、時刻は二十二時を回っている。ボストン型の眼鏡のブリッジを上げて、目の前に広がる光景をもう一度確認した。消防隊が設置したライトが乱暴なまでに眩しい。やはりこれは、間違いなく現実のようだ。  アパートは統威の留守中に火事になった。統威の部屋自体は焼けなかったものの、消火活動の影響で水浸しの状態になっている。これでは今夜、いや、今後どこで過ごせばいいというのか。 (サークルのやつを頼るか……? いや、だめだ。今日派手にやり合ったばかりだぞ。誰を頼っても気まずいに決まっている)  統威は大学の演劇サークルに所属している英文学部の四年生だ。サークルでは脚本と演出を担当しており、今は夏公演の脚本の執筆をしているところだ。その脚本をめぐって、元部長の綾音(あやね)と口論になったのが今日の午後。ふたりにとってはいつもの言い合いだったが、部室の空気を悪くした自覚はあった。そんな日に、サークル内の人間を頼るなんて考えられない。  いや、たとえ昼間の口論がなくとも、人付き合いが不得手な統威には、緊急事態とはいえ夜中にいきなり「泊めてくれ」なんて切り出せる相手は思いつかなかった。むしろ、こちらが頼んだところできっと相手は嫌がるだろう。そんなふうに考えていた。  統威は自分が人とは違った性分だということを理解している。どんなことより演劇を優先するのは当たり前だし、脚本の執筆に没頭すると周りが見えなくなることは日常茶飯事。サークル内でもこだわりの強さと頑固さゆえにメンバーとたびたびぶつかっては言い争いをしている。それはただひたすらに『より良い作品』を創るためなのだが、どうしても敵を作りやすい立場になってしまうのも事実だ。  そんな自分に手を差し伸べてくれる人物なんているはずもなかった。 (……仕方がない。ネットカフェにでも行くか)  野次馬がざわざわと騒がしい。不安そうに成り行きを見守る者、退屈しのぎの見せ物を眺めているような者、中にはスマートフォンで何枚も写真を撮っている者もいた。  ――ここにいたところで状況は何も変わらない。  くしゃりと前髪をかきあげながら、結局統威はこの場所を離れることにした。  執筆のために持ち出していたパソコンが無事だったのは不幸中の幸いだ。この中には今まで書いてきた脚本が何本も保存されている。今書いている途中の脚本もだ。 「ん……?」  ポケットに入れていたスマートフォンが震えている。それを取り出すと、画面にはよく知った後輩の名前が表示されていた。 「……類?」  高岡類(たかおか・るい)。演劇サークルのひとつ後輩で、学部も統威と同じ英文学科の男だ。よく統威の部屋で一緒に映画を見たり芝居の話に花を咲かせたりした。サークル内で一番付き合いの多い後輩と言っても過言ではないだろう。  通話ボタンを押して電話に出ると、息を切らした類の声が聞こえてきた。 『っ、は、……っ、真殿、先輩!』 「ああ、どうかしたか」 『っ……! どうしたもこうしたも……!』  通話の最中、統威は突然後ろから肩を掴まれた。振り向くとそこには汗で額を濡らした類がいた。肩で息をしている。その様子を見る限り、ここからさほど遠くない自宅から走ってここまできたようだ。 「お前、なんでここに」 「この辺に住んでる……友達から……っ、先輩の住んでるアパートが火事になったって聞いて……っ!」 「ああ、まあ俺の部屋は燃えていないが水浸しだ。しかし誰一人怪我をしていないらしい。不幸中の幸いというやつだな」 「心配したんですよ! もし先輩に何かあったらって思ったら……居ても立ってもいられなくて」 「お前がここに来て何かできることがあるのか? 俺には全く意味のない行動に思えるが」  そう言って、統威は指先を口元に触れさせた。思ったことをすぐ口にしてしまう性格が災いしたと感じたからだ。案の定、類は表情を硬直させて統威のことを見つめている。心配して駆けつけた後輩に向かって言うべき言葉ではなかった。  だが、案外類のメンタルは丈夫なようで、統威の言葉を跳ね除けるように表情が柔らかな雰囲気を取り戻した。 「うん……よかった。いつもの先輩だ」 「どういう意味だ」 「いつもと変わらない毒舌が聞けて、少し安心したってことです」  やはり類の思考は理解できそうになかった。汗を拭いながら笑う類にため息をつく。 「勝手に言ってろ。こっちはこんなことになって今夜の寝床に困ってるんだ。満足したならもう帰れ」  そう言って統威ははっとする。類にこちらの弱みを見せるべきではなかった。確実にお節介な提案をしてくるに違いない。  後悔している間も無く、両手を掴まれて類の方を向かされる。身体の力が抜けていた統威は人形のように振り回され、鬱陶しそうに類を見上げた。 「真殿先輩! お困りなら俺ん家に泊まってください!」 「断る。俺がいたらお前の気が休まらないだろ。それに、後輩の世話になるのは気が引ける」 「ダメです。ネカフェでもいくつもりだろうけど、それじゃちゃんと疲れが取れないでしょ」 「そんなことお前には……」  関係ない、と言い切ろうとした瞬間、統威の目に入ったのは叱られた大型犬のようにしゅんとしている類の姿だった。 「俺なんかじゃ、先輩の役に立てないですか……?」 「いや、そういうわけでは」 「俺は先輩の役に立ちたいんです! 真殿先輩が困ってるなら、力になりたいです……お願いします!」  なぜ泊めると言い出したほうが頭を下げているんだ。こんな反応をされるとこっちが困ってしまう。自分と類の関係は、所詮サークルの先輩後輩というだけで、はっきり言って他人じゃないか。その上、通常の感覚を持っている者からすれば、統威は普通の先輩ではない。はっきり言って『厄介な』先輩に分類される方だ。統威は類の真意を計りかねて額に手を当てた。 「……わけがわからん」 「とにかく俺の家に来てください。いつもと変わんない顔してますけど、先輩だってさすがに疲れたでしょう?」  類が統威の腕を掴む。人に触れられることが苦手な統威は眉根を寄せたが、類の真剣な表情を見るともう諦めるしかなかった。 「わかった、わかったから、手を離せ」  降参だ、と脱力した統威は満面の笑みに変わった類の顔を見て小さくため息をついた。

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