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第2話
翌日、統威は妙にいい香りのする寝心地の良いベッドで目を覚ました。
類はといえば、テーブルを脇に寄せて床に敷かれたラグの上で眠っている。
統威が「自分は床で寝る」と言っても類が譲らなかったのだ。あの頑固さは自分と近いものを感じる、とぼんやりしている寝起きの頭で考えた。
テーブルの上に置いていたメガネに手を伸ばし、装着するとようやく視界がクリアになる。昨日はろくに見てもいなかったが、よく観察してみると類の部屋は大学生の一人暮らしには立派すぎるほど広い部屋だった。モデルの仕事をやっているらしいので、金銭面での余裕があるということだろう。
その類は百八十五センチにもなる長身を丸めて眠っている。長いまつ毛が白い肌に影を落としていて、柔らかそうなミルクティー色の髪が頬にかかっている。
寝顔すら絵になる。これが世にいうイケメンか、としみじみ思いながら統威は眠る類を見つめた。前にサークルの女性陣が『類の顔は国宝級』と言って頷き合っていた。国宝級かどうかは分からないが、人を惹きつける魅力がある顔なのは確かだ。
「……確かに男前だな」
「あはは、先輩に男前って言われた」
笑いながら類が目を開けた。色素の薄い類は瞳の色も明るく、差し込む朝日に照らされて琥珀色に輝いている。
「起きていたのか」
「先輩と同時くらいかなぁ。何か食べます?」
「いや、水か何か……飲み物があれば十分だ」
「了解です」
身体にかけていたタオルケットを丸めながら類が起き上がる。どうやらリクエストしたものを探しに行ってくれるようだ。統威も半身を起こして類を待つ間に部屋を見渡した。
類の部屋は男の一人暮らしとは思えないほどきれいに片付いている。そういった話をしたことはないが、交際している女性がいるのだろうか。部屋の隅に捨てる予定らしい雑誌の束が紐でくくって置いてあるくらいで、余計なものが一切視界に入ってこない。
ガラステーブルの上にはテキストと授業のレジュメらしき書類、そしてノートパソコンが置かれている。類はいつもここで勉強しているのだろう。部屋の角に並んだ白と黒のカラーボックスには小説や漫画、そして演劇に関する本が種類ごとに分けてしまわれている。整然とした部屋が示す通り、類は几帳面なようだ。
ふと見ると、カラーボックスの上にはフォトフレームがいくつも並んでいた。どれもサークルのメンバーと撮った写真だ。合宿でバーベキューをした時のものや、公演後の打ち上げの写真。どれを見ても過去の懐かしい記憶が蘇ってくる。
そして一番端の一枚は、類が初めて主演をした時の舞台写真だった。
舞台衣装である黒衣を纏った類の立ち姿は美しく、迫力があった。
「先輩! お水どうぞ。今からコーヒー淹れるんですけど、こっちも飲みますよね?」
差し出されたペットボトルを片手で受け取りながら、統威は写真から目を離せずにいた。
「…………」
「先輩? 真殿センパーイ? どうしたんですか?」
「お前は黙っていれば彫像のように整った顔をしているのに、喋ると……ああ、これ以上は言わない方がよさそうだな」
「俺、いますっごい悪口言われてません?」
「違う。この俺が褒めているんだから素直に喜べ。お前ほど舞台映えする役者は見たことがない」
それを聞き、類は俯き黙ってしまった。
妙な沈黙が二人の間に流れる。その沈黙を破ったのは俯いたままの類だった。
「えっと、真殿先輩ってマジで嘘つかないから……その、嬉しいんですけど、ぶっちゃけ……照れます」
よく見ると類の顔が真っ赤になっていた。本気で照れているようだ。容姿を褒められるなんて慣れていると思っていたが、実際にはそうではないのだろうか。統威は少し首を傾げた。
「こっ、コーヒー淹れるんで、テレビでも見て待っててください!」
「俺はテレビは見ない」
「じゃあなんでもいいんで暇潰しててください!!」
ばたばたと慌てた様子で類が台所へと戻っていく。本当に、黙っていれば良い男なのに、しゃべったり動いたりするとどうも『残念』だ。整った見た目に反してどこか抜けているように見えるのは、損でしかないだろう。
(そういうところは嫌いではないが……もったいないな)
ふっ、と自然に笑いが溢れてしまう。そんな自分に気づき、統威は唇に人差し指を触れさせた。
類といると、どうも調子が狂う。
そしてそれを不快ではなく、心地よいと感じている自分がいた。
(これはどういう現象だ)
不思議が統威の心を包む。答えを求めてコーヒーを淹れる類の後ろ姿を見たが、そこに解はなかった。
それから少しして、類は得意そうに淹れたてのコーヒーを持ってやってきた。部屋の中央に戻したテーブルにマグカップを並べる。片方にはミルクが入っていた。
「先輩はブラックだから、こっちですね」
「ああ」
ミルクが入っていないブルーのマグカップを受け取り、あたたかいコーヒーをひと口飲む。落ち着いた時間を過ごしていると、自然と統威の今後の話になった。
水浸しになった部屋はどうしたらいいのか。経験したことのない状況に、さすがに参っている。アパートの管理会社や保険会社とのやり取りもあるだろうし、先のことを考えると気が重い。そして、それ以上に悔やまれることが一つだけあった。
「今までの公演パンフレットも台本も――きっとダメになっているだろうな」
統威にとって演劇は人生のすべてだ。積み重ねてきた経験、その結晶とも呼べる品々を失ってしまって、柄になく気落ちしていた。
その様子を見ていた類は、両手で持っていたマグカップをテーブルに置き、そのまま動かなくなってしまった。
「……なんだ。どうした」
「サークルのみんなは先輩のことを『血も涙もない鬼畜鉄面皮眼鏡』って言ってますけど、やっぱりそんなことなかったんだ……」
「俺は陰でそんなふうに言われているのか」
「ていうか、よく考えたら当然ですよね! 『血も涙もない鬼畜鉄面皮眼鏡』だったら、あんなにみんなを感動させる脚本、書けませんよ」
「……その呼び名のせいで俺は今とても複雑な気分だ」
自分に対するおかしな呼び名のことはさておき、向かいに座っている類が今にも泣きそうな顔をしているのが驚きだった。そして男前はそんな顔も絵になる。眉をしかめ、苦しみを体感しているかのような表情を浮かべている。
いい表情だ。これが舞台上でもできたらなかなか大したものだと思うのだが。統威はそんなふうに考えながらじっと類の表情を見つめていた。
「……すみません、辛いのは先輩の方なのに」
「別に。パンフレットも台本もデータは残っているからいつでも見返せる」
「さっきの感動……」
「お前の感動など知らん」
――とはいえ、稽古中にたくさんメモ書きをした台本は二度と見返すことはできない。思い入れのある台本を失ったのは非常に残念だ。だが、後輩にそんな未練がましいところを見せられない。
そんなことを思っていると、類は「むう」と頬を膨らませて統威を睨んでいた。こういう顔もするのかと口をつけたカップ越しに眺めていると、テーブルに置いてあった類のスマートフォンが震えた。
「あ! そうだ、忘れてました! グループチャット、見てください!」
「グループチャット?」
二人の間でグループチャットといえば、サークルのメンバー全員が利用しているメッセージアプリのことだ。それを見ると、未読件数が普段の倍以上になっていた。グループチャットがこんなに未読で溢れるなんて初めてだ。
「真殿先輩のこと心配してるメッセージでいっぱいなんですよ。だから、『無事だ』って一言だけでも送ってあげてください。みんな安心すると思うんで」
「『血も涙もない鬼畜鉄面皮眼鏡』のことを心配する奴がいるのか?」
「それはほら、愛称みたいなものですから!」
「…………」
「わ、ほんとに『無事だ』だけ打ちましたね!? 先輩らしいけど!」
「……」
「え?」
ぴこん、という音を立てて類が持っているスマートフォンがメッセージを受信する。『無事だ』と、『心配をかけてすまない』の二行目が追加された。その二行に対して、サークルのメンバーから次々に返信が送られてくる。
「うわわわ、どうするんですか先輩! 先輩が『すまない』とか普段言わないこと書くからみんなびっくりして通知が止まないですよー!」
「俺は知らん」
「あれ、でも先輩のスマホは静かですね?」
「普段から通知を切っている」
「いや、通知はオンにしててくださいよ! この『ぴこんぴこん地獄』を味わってくださいよー!」
「ふは……なんだそれ」
妙に語感のいい地獄に小さく噴き出すと、目を丸くした類がきょとんとこちらを見つめていた。マグカップを持った手がぴたりと止まっている。何に驚いているのか統威にはわからなかった。
「……なんだその顔は」
「あの、ええと、先輩も笑うんだなぁって思って」
「サークルの奴らといいお前といい、人のことをなんだと思っているんだ」
グループチャットにはたくさんのメッセージが届いていた。『安心しました!』『困ってることがあったら言ってくださいね!』『いつでも頼ってこい』――そんなメッセージが次々と表示されていく。
自分にこんな感情が向けられることがあるなんて思いもよらなかった、というのが統威の率直な感想だ。類に促されなければこんなことを伝えるつもりにはならなかった。胸の内で思っていたとしても、だ。
「先輩、愛されてますね」
「愛されているならおかしな呼び名がつくことはないと思うがな」
「それもみんなの愛情表現ですよ。先輩のこと、みんな大好きです」
置かれている状況は何も変わらないが、類の言葉と送られてくるメッセージに心がすっと軽くなった。統威は無意識に力が入っていた眉間を押さえ、小さく「そうか」とつぶやいた。
「それじゃ、ちょっと落ち着いたところでひとつ提案です。先輩、俺とルームシェアしませんか?」
「は?」
唐突な申し出に素っ頓狂な声が漏れる。統威は驚きを隠せなかったが、即座に否定の言葉を並べ立てた。
「お断りだ。確かに一泊させてもらったことには感謝している。が、この先も他人と住むなんて冗談じゃない」
「大丈夫です。部屋なら一つ余ってるし!」
「広いとは思ってたが部屋余らせるくらい広いのかこの家は!」
何が大丈夫なのだろうか、と統威はため息をついた。あまりに急な話に頭がついていかない。
コーヒーを飲み干し、寝癖のついた頭を抱えながら、目の前の類がどう説得すれば諦めるのかを必死に考えた。
他人と暮らすなんて統威には考えられない。ありえないことだ。
統威にとって他人の存在はノイズでしかない。そして統威は類のことをそんなふうに思いたくなかった。
「とにかく俺のことは構うな。部屋くらい自分で――」
「でも、夏公演の脚本……綾音先輩から催促されて喧嘩になってましたよね? 綾音先輩部室でもめちゃくちゃキレてましたよ、真殿先輩は『締め切り』の意味をいつになったら理解するんだーって」
「……」
「真殿先輩の締め切り破りはいつものことですが、今回特に遅れてるのもみんな知っています。台本の読み合わせが延期になるレベルですもんね」
「……脅してるのか?」
「いやいや逆ですよ! 力になりたいって言ってるんです。火事のことでこれから色々とごたつくと思いますけど、先輩的にはとにかく執筆に集中したいでしょう? 部屋を探してる時間も惜しいはずです。そこで、今なら一室、タダで先輩にお貸しします。朝食は毎日自分で作ってるので先輩の分も一緒に作りますし、なんなら晩ごはんもつけちゃいますよ! モデルのの仕事が入ってない日は、ですけどね」
拒み続けていた統威だが、類が提案するあり得ないほどの好条件にぴくりと反応した。一部屋無料、しかも食事付き。そして立地は大学のすぐそば。家を失ったこの状況下で、締め切りがとっくに過ぎている脚本に専念できるというのはありがたかった。
さらにいえば、利点はそれだけじゃない。
統威はきらきらと目を輝かせて返事を待つ類に視線をやった。
はっきり言って類は得体が知れない。明らかに自分とは性質が異なる生き物だ。だからこそ、そういう人間のそばにいれば行き詰まっている脚本も進むかも知れない。新しい刺激によって色々なアイデアが浮かぶこともあるのだ。少しでも可能性があるのならば、試してみる価値はある。
こんな好条件を出してまで自分とルームシェアをしたがる類の意図はわからなかったが、同時に沸き起こる好奇心が頑なに拒む心を溶かしていった。
「……確かに、綾音や後輩をこれ以上待たせるわけにはいかない。そしてお前にこれ以上食い下がられるのも面倒だ」
「それはOKってことですね?」
「ただし、居心地が悪いと感じた瞬間に俺は出ていくからな」
「やったぁ!!」
嬉しそうに類が立ち上がる。抱きつかれそうになるのを必死で拒否しながら、「コーヒーこぼれるだろ」とカップを押さえた。
「じゃあ、早速鍵を作らなきゃですね。今、スペアキーが手元にないんで……」
「鍵?」
「合鍵がないと色々困るでしょ?」
統威は少し考えを巡らせたが、静かに口を開いた。
「いや、いらんな」
「え?」
「俺はほとんど外出しない。したとしてもサークルに顔を出すかゼミに出席する程度だ。お前、授業は?」
「水木金にありますけど、撮影が入らなければサークルにはほとんど毎日行ってます」
「なるほど。なら、そのスケジュールに俺が合わせて動けばいいだけの話だ。わざわざ鍵を作るまでもない」
統威は合鍵を拒むことで『長く居つくつもりは無い』と暗に伝えたつもりだった。拒まれた類は不安そうな表情で「本当に大丈夫ですか?」と首を傾げているが、何かあれば連絡を取ればいいだろう、と言い切った。
「先輩がそう言うなら……でも、困った時は言ってくださいね」
心なしか元気がなくなった類の笑顔に、統威は「わかった」とだけ返事をした。
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