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最終話

 統威は足早に待ち合わせの喫茶店へと向かった。  穏やかなピアノの旋律が店内に流れるこの店は、統威の行きつけの店だ。家で執筆に集中できない時にしばしばここで作業をする。顔見知りのマスターもかつては演劇青年だったらしく、カウンターで演劇について語り合ったりするのも楽しみのひとつだ。 「統威じゃないか、久しぶりだな。元気にしてたか?」 「まあ……一応」  店に入るなりマスターが気さくに話しかけてきたが、今日は連れが遅れてくることを伝え、店の一番端にあるテーブル席を選んだ。  それから少しして類が姿を現した。一瞬店内を見回し、統威の姿を見つけると緊張した面持ちで近づいてきた。  ふてぶてしい態度で足を組む統威の前に、類が遠慮がちに座る。 「遅くなってすみません……雨、降ってきちゃいましたね」 「そうだな」 「先輩の傘も持ってきました」 「助かる」  いつもと変わらないはずの淡々とした会話も、どこかぎこちなく感じる。話を始める前にふたりはホットコーヒーを頼んだ。そして統威はなるべく胸の内が読み取られないよう、落ち着いた様子でカップに口をつけた。  反対に、類はいつものようにミルクを入れることもせず、カップに手もつけない。それだけ緊張しているということだろう。 「……」 「…………」  統威は黙り込む類をじっと見つめながら、ただただ待った。大切な話をすると言った類の言葉をひたすらに待つ。不安そうな表情で硬くなっている類を追い詰めているような気分になったが、その態度を変えるつもりはなかった。 「今日は、うちの母が迷惑をおかけして……本当にすみません」 「それが大切な話か」 「それは……違います」  だろうな、と統威は目を閉じた。もしも電話で済むようなただの謝罪のためだけに会おうとしたのなら呆れた話だ。今必要なのはそんな言葉ではない。 「だったら何だ。はっきり言え」 「……話したら、きっと俺を見る目が変わるから、怖いんです」 「話があると言ったのはお前だろ」 「それはそうですけど! 大事なことだから悩むんですよ!」  椅子の背もたれに体重を預け、類の様子を観察する。なにを言い出したいか。そんなことはわからない。しかしここまで歯切れの悪い類を見るのは初めてだ。膝の上で握り締めた拳から、類が本当に話を切り出すべきか迷っていることが伝わってきた。 「そこまで悩むなら無理に聞き出したりしない。俺は俺の意思で、お前の家から出ていくだけだ」 「……そんな!」 「言っておくがお前が悪いわけじゃない。居心地が悪いわけでもない。ただ……俺がいることでお前が困るというならさっさと身を引く。長居するつもりは最初からなかったしな」  類は統威の言葉を聞くと、首を横に振りながら声を振り絞って話し始めた。 「嫌です……先輩に出て行って欲しくありません」 「そう言われてもな。お前の母親がいる限り俺があの家に戻ることは不可能だと思うが」 「母は……先輩にどんなことを……?」  不安でたまらないといった表情で類は尋ねた。 「俺と一緒にいると類は一生幸せになれないだの何だの、散々言われたな」 「…………」 「ああそれと、お前から正しい生き方を奪うなとも言われた。何の話かまったくわからん。俺はお前の母親に何者だと思われていたんだ?」  この答えは聞いておきたかった。なぜ類の母親があれほどの敵意を統威に向けてきたのか。その謎を残したまま類の家を出るのはどこか釈然としない。  しかし類はまた言葉に詰まり俯いてしまった。その様子から察するに、統威の疑問に対する答えを知っていながら言い出せないのだろう。  統威は大きくため息をつき、話を続けた。 「さっきも言ったが俺はお前が悪いとは思っていない。お前の母親のことも、正直なにが起きたのかさっぱりだが責める気はない。非があるとすれば、お前に依存しすぎていた俺の方だ。消えるべきは俺だろう」 「先輩はなにも悪くない! 悪いのは……俺なんです!」  弾かれたように顔を上げた類は、ようやく覚悟が決まったのか、統威のことを正面から見つめてきた。 「俺が、おかしな人間……だから……」  紡がれた言葉はひどく弱々しく、正面にいても聞き取れるかどうかというくらい小さかった。 「お前とお前の母親に言いたいことがある。頼むから俺が理解できるように説明をしてくれ」 「すみません……その、俺……」 「会話をする気があるならしっかり喋るんだな」  統威はまたひと口コーヒーを飲み、視線を類に向ける。言葉を促すようにじっと見れば、類は硬く目を閉じて身体を強張らせた。  気持ちを固めようとしているのか、決意が揺らいでいるのかはわからない。しかし統威は待った。普段の自分ならきっと「話さないならもう用はない」と切り捨てている。それができないのは、やはり相手が類だからだ。 「…………先輩」  しばしの沈黙の末、類がようやく目を開いた。 「俺は……ゲイなんです。男の人しか好きになれない人間です。……ずっと黙っていてすみませんでした」  その言葉を聞いた瞬間、時が止まったように感じた。ふたりとも同じような感覚に陥っただろう。類のカミングアウトをきっかけに、また沈黙が訪れる。しかし統威は驚いて言葉を失ったわけではなかった。 「……それが、お前の言う大切な話か?」 「そうです」 「さっきも言ったよな。俺が理解できるように説明をしろと」 「……はい」 「お前の発言は、この状況の説明になってるか?」  類は少し考え、小さく首を振った。とても重い罪を背負っているような顔をして、唇をきつく結んでいる。このままでは話にならない。それならば、と今度は統威が話を始めた。 「結論から言う。お前が何であれ、お前に対する評価は変わらないし態度を変えるつもりもない」 「先輩……」 「別に綺麗事をただ並べているわけじゃないぞ。お前がカミングアウトしたところで、俺の感情は一ミリも動いては……いない」  言いながら、統威は考えた。感情が動いていないなんて嘘だ。本当は類を目の前にして、どうにか自分の心の中で起きているうねりのようなものを気取られないように振る舞っている。  自分の心に起こっている変化がどういう意味を持つのか、統威は少しずつ理解し始めていた。 「そっか……よかった」  類は統威の言葉尻が少し弱くなったことには触れず、精一杯笑ってみせた。 「先輩は俺のことを受け止めてくれるんですね――俺の母とは、全然違う」 「どういうことだ」 「母は俺がゲイだと知って、変わってしまいました。……母は俺が『正しく生きるため』に、俺のことを監視し始めたんです」  類の言葉は微かに震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、あるいはどちらもか。統威がそれを判断するより先に、類は話を進めた。 「なんの連絡も寄越さずに合鍵使って俺の部屋に勝手に上がって、男の影がないか探りを入れられて。いくらやめてくれって言っても『あなたのためなのよ』、なんて逆に怒鳴られて。そもそも、母の言う『正しい生き方』って何なんでしょうね……? 俺にはもう、何が正しくて何が間違っているのか、分かんないです」 「……少なくとも、俺はお前が間違った生き方をしているとは思っていないぞ」  それを聞き、悲しい目をしていた類が微笑んだ。 「ありがとうございます……でも、これを聞いても同じことを言えますか? ……俺は、先輩のことが好きなんです。先輩と一緒に暮らしたかったのは、下心があったからなんですよ」  突然の告白に流石の統威も目を見開く。類の言う『好き』とは、単なる人としての好意ではないだろう。統威を見つめる瞳は、不安に揺れていた。 「真殿先輩と一緒に演劇をやって、いっぱい叱られたけどそれが全部嬉しくて、気づいたら……先輩のことばかり考えるようになってて……こんなこと言ったら気持ち悪いって思われるかもしれない。もう一緒にいられないかもしれないけど、それでも俺は……想いを伝えずにはいられないくらい、先輩が好きです」  類が困っている自分に手を差し伸べた理由に合点がいった。すべては好意を抱いている相手を側に置いておくため。そう考えれば、類の行動すべてに納得がいく。  この告白に対してどう答えればいいか。統威はしばし逡巡したが、思ったよりすぐに答えを導き出すことができた。 (難しく考える必要なんてない。俺の、ありのままの気持ちを伝えればいい、ただそれだけだ)  ゆっくり口を開き、統威は心に浮かんだ言葉を類へ伝えた。 「――正直、戸惑っている」 「そう、ですよね。当然だと思います」 「なぜなら、お前を拒む理由がまったく見つからないんだ」  今度は類が驚く番だった。統威の答えがあまりにも予想外で、こんな展開になるとはかけらも思っていなかったのだろう。 「先輩、それって……」 「これ以上、説明が必要か?」  お前はそこまで馬鹿じゃないだろう。そう付け加えて、統威は椅子の背もたれに体重を預けた。 「でも、何で……? さっきまで出て行くとか言ってたのに」 「それはお前にこれ以上迷惑をかけられないと思ったからそう言ったまでだ。はっきり言ってお前のそばは居心地が良かった。それがすべてだ」 「っ……! じゃあ、もう出て行くなんて言わないんですね? 一緒にいてもいいんですね?」  統威は無言で類の言葉を肯定した。それから思いついたように口を開く。 「類、まずは俺に合鍵を寄越せ」 「え?」 「長期的に考えたら、やはり鍵がないと不便だ。それに……お前の母親が持っていて俺だけ持っていないというのはどうもいい気がしない」  はっきりと言葉にしなくても、これで統威の想いは伝わるだろう。泣き出しそうな情けない顔の類を、いつもと変わらない鋭い眼差しで見据える。  これでいい。立ちはだかる一番大きな問題は解決していないが、もう決めたのだ。自分は類と共にいる。その道を選ぶことを後悔もしない。 「いいか、これだけは言っておく。俺みたいな男を相手に選んだんだ。相応の覚悟はしておけよ。自分で言うのも何だが、俺は相当厄介だぞ」 「そんなの……言われなくてもわかってます……!」  目の前の大きな問題も、ふたりでいればきっといつか乗り越えられる。根拠のない自信だが、類も同じ気持ちだろう。  想いが届いたことで舞い上がっているのか、類は両手で顔を覆ったり、天を仰いだりして落ち着きがない。下を向いて何か考えていたと思ったら、勢いよく顔を上げ、潤んだ眼差しを統威に向けた。 「どうしよう、俺いま、すごく先輩のこと抱きしめたい」 「……酔狂なことだ」  統威の口元に笑みが浮かぶ。  ぬるくなってしまったコーヒーの最後の一口を飲み干し、情けないが愛おしい、類の泣きそうな顔を静かに見つめた。

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