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前編 夏に出逢い①

 死にたくないなと思った。  まだ生きていたいし、もっと遊びたい。なんでもない日を楽しんで、時に暇をつぶして、笑っていたかった。  それに彼ともう二度と会えなくなるのは嫌だった、だから―― 「いいよ、お嫁さんになるよ」  病室のベッドから見える茜色の空は燃えるようで、涙に濡れる瞳には眩しかった。 夏に出逢い  小学生の頃、夏休みは父方の祖父母の家へと遊びに出かけていた。祖父母が暮らしている場所は田舎で、山々に囲まれて田園風景が見渡せる長閑な村だ。都会っ子にとってテレビだけで見るような田舎に行くというのは未知の体験で少しだけわくわくしていたのを覚えている。  滞在期間は二週間ほどと程々に長いのだが、祖父母は嫌な顔をすることもなく孫を温かく迎え入れてくれていた。  そんな夏休み、初めて祖父母の家へと遊びにいった時に彼と出会った。    *** 「あつーい」 「なんだ、明日葉。もうばてたのか」  汗に濡れた栗毛を拭いながらクーラーのきいた室内で畳に寝そべる明日葉に父は笑いながら声を掛けた。ばてたもなにも暑すぎるのが悪いのだと明日葉はだるそうに顔を上げる。  外は照り返すような太陽の陽ざしがさんさんと降り注ぎ、外を出れば焼けてしまいそうなほどに暑い。これといって何かあるというわけでもないので、暑さに倒れるぐらいならばと明日葉は室内に避難していた。  本当ならば外に出て探索なんかをやってみたい、とくに盆祭が行われる神社には行ってみたかった。神社は小山の中にあるのだが、鳥居が並び立っており遠くから見ても異界に繋がっていそうで探検にはもってこいだと思ったのだ。  けれど、猛暑日であるこの日、暑さに耐性がない明日葉は外に出て早々に「無理だ」と探索を断念する。この暑さには敵わないと。  そんな息子の様子に父は「此処は暑いからなぁ」とそうなるのも無理はないと笑った。 「まー、夕方には涼しくなるさ」 「夕方じゃ外に出れないじゃん!」 「なら、まだ涼しい午前中だな」  父に「早起きすれば遊べるぞー」と言われて明日葉はむぅっと頬を膨らませる。早起きが苦手なことを知っていながら言っているのだ、この父親は。意地悪なやつだと明日葉は思ったけれど、早起きできない自分に非があるので文句も言えない。  それでも明日葉はなんだか負けた気がして「明日は早く起きるもん」と言った。それに父が驚いたふうに目を瞬かせたので、「絶対に起きる!」と啖呵を切ってしまう。 「おー、そうか。がんばれよー」 「あー! 信じてないな! 頑張るもん!」  父の感情の籠っていない返事に明日葉は絶対に起きてやるからなと心に決めた。    ***  翌朝、宣言通りに明日葉はなんとか早起きに成功した。両親の力を借りず休日に八時起きができたのは初めてのことだ。本当にやったのかと父には笑われたけれど、有言実行できたのが嬉しくて気にならなかった。  朝食を食べ終えると帽子を被り、母に渡された水筒を持って外へと出た。真昼の時間とは違い、まだ気温がそこまで上がっていないとはいえ、暑さは感じる。それでも昨日よりかは平気だと明日葉は駆けだした。  田んぼのあぜ道を走りながら青々と茂る稲の葉を眺めては空を見上げる。鳶か鷹か、鷲かもしれない鳥が優雅に飛んでいる姿がよく似合うこの風景は都会では味わえない。  そうやって珍しく辺りを見渡しながら目的の神社へと向かう。小山の入り口には大きな鳥居が立っていて、その奥にも列をなすように並んでいた。初めて見るその光景にわくわくした様子で明日葉は鳥居をくぐっていく。  木々に覆われて陽が遮られているからなのか、他よりも涼しくて過ごしやすい。ここは良いなと明日葉が坂を登っていると真っ赤な鳥居がぽつんと立っていた。石でできた鳥居しかないのかと思っていた明日葉はあの鳥居の先に神社があるのだろうと思って走る。  赤い鳥居をくぐると少しばかり古びたお宮が建っていた。あれが神社なのかなと明日葉は敷地へと足を踏み入れた。  古びたお宮と小さな倉庫があるだけのだだっ広い場所で、これといって目立ったものはない。それでもなんだかここは他とは違って感じた。静かで風に靡く木々の音しか聞こえず、落ち着いていて、ここだけが現実から取り残されているかのようだ。  そんな感覚に明日葉は驚きながらもお宮のほうへ近寄る。建物の前には賽銭箱が置かれていて、明日葉はポケットから可愛らし猫の小銭入れを取り出すと小銭を入れた。初詣の日に神社でお参りをするときに両親が入れているのを覚えていたので、神社に来るときはそうするものだと思っていたのだ。  ぱんぱんと手を叩いて何かを願うわけでもなく手を合わせる。 「なんと、律儀な童がおるぞ」  そう声がして明日葉は後ろを振り返った。けれど、誰かいる様子はなくて気のせいだっただろうかと首を傾げれば、「こっちだ、こっち」とまた声がした。  何処だろうかときょろきょろ辺りを見渡してみると敷地内にあるひと際、大きな木の上に誰かが立っていた。あんなところに誰かいるぞと明日葉は興味が湧いて近寄ってみる。 「え?」  明日葉は思わず声を上げてしまった。木の上に乗っていたのは一人の男だった。長い黒髪を一つに結い、鼻から上はお面で隠れて容姿はよく分からないがその男の背中には真っ黒い翼が生えていた。明日葉にはその服を何というのか知らないが、神社の人が着ているような衣を身に纏っているなと分からないなりに答えを出す。そんな異質な存在に明日葉は目を丸くさせてしまう。  明日葉の反応を察してか男は「驚くだろう」と可笑しそうにしている。暫く見つめてから明日葉は「それって本物?」と黒い翼を指さした。 「本物だとも。ほうれ」  男はそう返して翼を広げると空を飛んで見せた。人間技ではできないその光景に明日葉は「すごい」と目が離せない。  ひとしきり飛んでみせると男は明日葉の前に降り立って目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。お面の奥から見つめられて明日葉は首を傾げる。 「うん、好みの人間だ」 「好み?」 「そう、好み。お前は賽銭を入れはしたけれど願いはしなかった。その行動が面白い」  あと顔が好みだと男は答える。何が良いのか明日葉にはいまいちピンときていなかったが、気に入られたことだけは理解できた。 「お前は男かい?」 「そうだよ」 「まぁ、俺には関係ないかな。どうだい、俺のお嫁さんにならないかい?」  男の申し出に明日葉は腕を組んでうーんと身体を傾けた。お嫁さんというのはどういう意味だろうかと。確か、お父さんとお母さんのような関係になるということだった気がすると思い出して明日葉は「なんで?」と問い返した。 「お兄ちゃんでしょ? ボクは男だよ?」 「性別は関係ないんだよ、俺らあやかしからしたら」 「あやかし?」 「うーん、妖怪って言ったら分かる?」 「それは聞いたことある! オニとかカッパでしょ!」 「そうそう。その仲間みたいなもんだよ、お兄さんは」  男に「翼がある人間なんていないでしょ?」と言われて、明日葉は「確かに」と頷く。今までにそんな人間には出会ったことがないので、じゃあこの男は妖怪なのかと納得する。そのあまりの素直さに男はくすくすと笑っていたけれど、明日葉は気づかない。  とはいえ、それでどうしてお嫁に来ないかとなるのか分からなかった明日葉が「どうしてボクなの?」と聞いてみると、「好みだから」とあっさりとした回答が返ってきた。 「好みだからお嫁さんに欲しくなっただけださ。誰かを好きになるきっかけというのは小さいことだよ」 「そうなの?」 「そうだよ。どうだろうか?」 「お兄ちゃんのお嫁さんになったらどうなるの?」 「この世から離れてもらうよ?」  男の返答の意味が分からずに明日葉が聞き返せば、「この世界とは違う世界に行くんだよ」と教えられた。あやかしだけの世界、妖界という場所が存在するらしくそこで二人で暮らすことになるのだという。  いろんな妖怪がいるから毎日飽きないよと言われて明日葉は少しばかり興味が湧いたけれど、別の世界へ行くということは此処にはいられないのだと幼いながらに理解した。 「お母さんとお父さんから離れるの?」 「そうなるね」 「だったら、いやだ」  両親と離れ離れになるのは嫌だったので明日葉は男の求婚を断った。けれど、男は分かっていたかのように平然としている。 「まー、そうなるのはわかっておった」 「そうなんだ」 「お前はまだ童だからね、親と一緒に居たいだろう」  子供が親と一緒にいたいと思うのは普通のことなので、男は特に気にしていないのだと笑う。なら、どうしてお嫁さんになってくれと言ったのだろうかと明日葉は疑問に思った。それを察してか、「今から言っておけば、俺を意識してくれるだろう?」と男は明日葉の頭を撫でる。 「俺はお前を逃すつもりはないからねぇ。今から俺を意識してもらうように動くんだよ」  そうすれば、成長してから気が変わるかもしれないだろうと男に言われて、明日葉はそうなるのかなと疑問に思いながらも一先ずは納得しておいた。 「そういう訳だからお兄さんのことをよろしく頼むよ」 「何をするの?」 「特には。お前と話すぐらいだね。そうだ、名前を教えておくれ」 「えっとね、明日葉」 「そうかい。俺は緑禅(りょくぜん)だ、覚えておいてくれ」  緑禅と呼べば嬉しそうに頬を緩ませながら彼は明日葉の頭を撫でた。

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