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第19話 決行

 殺しにおあつらえ向きの空だな、とサギトは皮肉に考えた。  西の空に血のような赤い雲が散乱していた。  オルド橋の上、サギトは欄干にもたれ川を見下ろしていた。東岸寄りの端のあたりで。  ルービン川の水面には、橋の二つのアーチが眼鏡のように映し出されていた。  時折馬車が橋を渡っていった。街の中心部から外れているとはいえ、王都内なので人通りがないわけではない。  だが川岸に誘い出せば、と考えた。この橋の下ならば誰にも邪魔されず殺せるだろう。  愛想よく接し、大いに油断させて殺す。そしてそのままサギトは、ムジャヒールに向かう。  簡単なことだ。サギトが冷静ささえ失わなければ。 「サギト!」  大きな声に振り向く。川の東岸、橋の手前、馬を引いたグレアムがいた。  サギトを見て微笑む。  サギトも微笑み返した。愛想よく、愛想よく、と思いながら。  グレアムはサギトの愛想笑いに驚いた顔をした。  そして目を細める。  懐かしそうに、嬉しそうに。  サギトの胸がざわついた。 (なぜそんな顔をする?) 「川辺で話さないか?きっと静かに話せる」  サギトはそう言いながらグレアムに近づきその脇を通りすぎ、川の堤の方へ曲がった。 「あ、ああ!」  サギトは草生す堤の斜面を川に向かって降りていき、グレアムは馬を堤の上の街路樹にくくりつけた。  目の前に夕焼け空を映し出す穏やかな川面。堤を降りてきただけで、通りの喧騒が遠ざかった。まるで別世界のような静かさ。  遅れて降りてきたグレアムが、サギトの隣に並んだ。  川の緩やかな流れを横目に、サギトは無言で暗い橋の下に歩み入った。  そして橋の下の湿った土に腰を落とした。  疑問に思われるだろうか?なぜ橋の下に、と。  緊張を隠しながらグレアムを見上げ、促すように隣を示した。 「座れよ」  グレアムは特に警戒の様子を見せなかった。ただ嬉しげに、サギトと同じように橋の下に入り、隣に腰掛けた。  グレアムのほうから口を開いた。 「ありがとうな、誘ってくれて。俺はもう、お前に口もきいてもらえないんじゃないかと心配していた」 「よく言う。お前は国の英雄だろ、俺なんかにへりくだった物言いをするなよ」  つい、皮肉な物言いになってしまった。  サギトは己を戒める。駄目だ、何をしている、気をつけろ。今から大事な「仕事」をするんだ。苛立つな。へまをするな。  サギトの皮肉に、グレアムは複雑な顔をした。そしてこんなことを聞いてくる。 「この八年、何があったんだ?」  サギトは押し黙った。お前がそれを聞くのか、と。爆発してしまいそうだった。落ち着かなければ、早く殺さないとまたチャンスを逃す。  サギトは自分を抑えるためにぐっと手を握り締めて爪で手のひらを刺した。 「何も、別に。つまらない、辛気臭い話しかない。お前の八年を聞かせてくれよ。お前の栄光の物語のほうがずっと話として面白いさ」  グレアムは何か反論でもしたげな顔をして口を開いたが、閉じる。そしてため息をついた。 「俺の八年……。俺はとにかく護国騎士団長になりたくて。護国騎士団長になれたら、自由に団員を選べるから。そうしたらサギトを呼べると思って。またお前と一緒にいられると思って、その為に」  サギトの胸がどくんと鳴った。 「なんだそれ。俺を呼ぶ為とか一緒になる為とか。なんの冗談だ」 「冗談じゃない!一緒にいたいと思うのは当然だろう!だって俺達は、こいっ……。いや、ええと、その……」  グレアムは何やら口ごもってうつむいた。 「やめてくれ、俺のことなんて忘れてたろうに。そういう嘘は」  ――残酷だ。  グレアムは怒ったように顔を上げると、サギトの腕を掴んだ。 「嘘じゃない!俺がお前のことを忘れるわけがないだろう!俺はずっとお前に会いたくて会いたくて、気が狂いそうだった!八年お前を想い続けた!」  真っ直ぐな目で見据えられ、サギトの心が千々に乱れる。  嘘だ。嘘に決まってる。  だがたとえ嘘でも、そんなことを言われたら。  (お前はなんて残酷なんだろう)  (俺は今からお前を殺して帝国の宮廷魔道士になろうとしてるんだ)  (俺はお前を醜く妬んで、醜く殺して、醜く敵国の人間になるんだ)  (せめて気持ちよく、悪魔にならせてくれ)  楽に、狂わせてくれ。 「じゃあ、なぜ……」  なぜ、裏切った?  サギトは震えながら、あの事を聞こうとする。でも言葉は喉元で止まる。  聞けなかった。恐ろしかった。  もういい、殺してしまおう。  サギトは気を取り直すように、言いかけた全てを飲み込んだ。 「……ありがとうグレアム。そう言ってもらえて嬉しい」  からからの喉でサギトはそんな言葉を搾り出した。グレアムはほっとしたように微笑んで、サギトの腕から手を離した。 「本当に辛かったんだ、お前がそばにいないことが」  そして髪を撫でられる。あの頃のように。  サギトの胸は馬鹿みたいに高鳴って、喉を締め付けられるような心地がした。  ああ本当になんて、残酷な奴だお前は。  サギトは用意してきたシナリオを開始する。 「なあグレアム。俺はお前にもう一度、追加の魔力を注ぎたい。受け取ってくれるか」  グレアムが虚を突かれたように目を(しばた)かせた。  さすがに唐突過ぎたか。でもサギトには自然にうまく演技する余裕がなかった。強引でもいい、早くこの「仕事」を終わらせてやる。  サギトは毒の呪を注いで殺すつもりだった。「魔力をやる」と言ってもう一度牙を立て、毒を注ぐ。  本当は既に付与限界まで魔力を与えきってしまっているので、これ以上追加は出来ないのだが、グレアムはそれを知らない。  魔力を増やしてやるという申し出にならきっと食いつくだろうと思った。魔道を行う者にとって、己の魔力の強化と言うのは抗いがたい魅力だ。金塊を積まれるより魅惑的な餌だ。決して断るまい。  グレアムは戸惑っている。 「な、なん、どうして」  警戒されるわけにいかない。サギトは必死の愛想笑いを浮かべる。 「俺は薬屋の仕事が好きだから、騎士団に入ることは出来ない。その代わり、と言ってはなんだが。騎士になったお前に祝いのひとつもしていないしな。俺がお前にあげられるものなんて、これくらいしかない」  食いつけ、食いつけ、餌に食いついてくれ頼む。  グレアムは悲しそうな顔をした。 「無理か、騎士団に入るのは。そうか、そうだよな、お前は蛙も殺せない奴だもんな。人を殺す仕事なんて出来るわけないか」  サギトは腹を抱えて笑い出したくなった。ああそんなこともあったな、蛙を殺して泣いていたことが。 「頼む、受け取ってくれ」  すでにサギトの犬歯は伸びて、牙となっていた。グレアムは牙にはっとして、それから寂しそうに笑った。 「とてもありがたいが、でもそれじゃ俺は、お前にもらってばかりじゃないか。俺は、俺こそお前の力になりたいんだ。俺は今日、そのために来たつもりだ。この八年、一体お前に何があったのか……」  ごちゃごちゃ言うグレアムがもどかしく、サギトは彼の腕をとった。袖をまくり、手首を晒した。グレアムは困惑顔だったが抵抗はせず、されるがままだった。  かつてサギトがつけた噛み跡があった。まだ残っていたとは。グレアムが照れたようにつぶやく。 「お前との思い出、俺の一番大切なものだ」 (妙なこと言うな、俺の心に波紋を立てるな)  サギトは口を開けてその手首をはむ。再びその噛み跡にぴったりと歯を立てる。 「つっ……」  グレアムが痛みに小さな声を立てた。サギトは歯を沈める。グレアムの血が吹き出す。   サギトはその血を啜りながらゆっくりと毒を注いでいく。グレアムは顔をしかめながら、だが笑みを浮かべて言った。 「つっ……、くっ……、嬉しいよサギト、またお前と一つに……」 (だから妙なことを言うな) (俺は今、お前を殺してるんだ。頼むから何も言うな)  サギトの目から涙がこぼれた。  血を飲み、毒を注ぎ、サギトは泣く。  呪を注ぎ終え、サギトは口を離した。  グレアムがサギトの涙に気付く。 「どうしたサギト!?」 「まだしゃべれるか。でもあと数分だ」 「……ん?は?」  サギトはやっと、あの事を聞く覚悟が決まった。  口についた血を拭い、サギトは問いかける。 「赤毛の男を覚えているか?士官学校の試験官。行方不明の男」  グレアムの目が見開かれる。 「ああ、覚えてる」  サギトはくっと口の端をあげた。 「あいつの行方を教えてやろう」 「え……」 「俺が殺した」  グレアムが理解できないといった顔で呆然としている。 「赤毛の男が、魔人の俺を殺しに来たから、返り討ちにしてやったんだ」 「なんっ」 「残念だったか?俺を殺してもらえなくて」 「何を……、何を言ってるんだ、サギト!」  白々しい。忘れているなら突きつけてやる、全てを。 「お前の寄越したあの男は、殺す前に俺を犯そうとしたぞ。俺を犯して俺の魔力を手に入れようとした」  グレアムは地獄に突き落とされたような顔をした。 「そんな……!あの赤毛の試験官は、サギトを魔人と分かった上で士官学校に入れたいと言っていた!たとえ魔人でも力があるなら役立てたいって。だから俺は、サギトを頼みます、って、そんなようなことを言って、それで……!」 「……」  サギトは押し黙る。 「サギトは殺されそうになったのか?犯されそうになったのか?俺のせいで、お前が」  グレアムの目から涙が溢れた。その顔がぐちゃぐちゃに歪む。震えながら両手で頭をかきむしる。 「すまない。サギト。そうか、俺のせいなんだな。全部俺のせいだったんだな。俺のせいでお前は八年、苦しんだんだな」  サギトは頭が真っ白だった。 (なんだそれは。お前は俺を殺そうとしていなかっただと?) (あの赤毛の虚言だっただと?) (俺はずっと虚言に支配され、お前を恨んでしまっていた?) (お前を信じず、あの赤毛を信じて) (いやだ、やめてくれ、そんな真相はいらない。そんな真相は聞きたくなかった) (なんだその喜劇は。嘘だろう?) (頼むから嘘だと言ってくれ)  頼むから。  グレアムが吐血した。  呪いの毒が、回ってきたのだ。  苦しそうに胸元をかきむしった。騎士服のボタンが外れて、鎖骨が露になる。そこにアメジストのペンダントがぶら下がっていた。  サギトはその紫の石を凝視する。  ――だって見ろよ、お前の瞳の色と同じだ。すごく綺麗じゃないか。  まだ、お前は、それを。  グレアムは喉を押え、苦痛に歪んだ顔でサギトを見た。 「俺に毒を……?」  サギトは青ざめながらうなずいた。  グレアムはうっすらと微笑んだ。安堵したかのように。 「そうか……」  その表情には毒を盛ったサギトへの怒りも、死への恐怖もなかった。  ただ澄み切った哀しい瞳でサギトを見つめる。  グレアムの震える両手がサギトに伸びた。その手がサギトの顔を挟んで髪をかきあげる。 「ごめん……な……」  グレアムの青い瞳に、青白い顔をしたサギトが映し出されている。グレアムが目を細めた。 「八年たっても……お前は変わらず……綺麗だ……」  そして眼を(つむ)った。  がくりとその体がくずおれる。サギトはグレアムを両腕で抱きとめた。体で彼の全体重を受け止めた。 「俺の……アメジスト……」  掠れた声が、でもひどく甘い声が、サギトの耳をくすぐった。  サギトはがくがくと震えだす。 「グレ……ア……」  腕の中に抱えた友は、もう答えない。何も言わない。 「あっ……、はっ……、はあっ……」  サギトは喘いだ。息が苦しかった。 「グレ、アム。グレアム、俺は、お前を」  一瞬後。 「ああああああああああああああああああああああああああああああああ」  血のような夕日に染まった川のほとり。  一人の男の、(くう)を裂くような慟哭が、橋の下に響き渡った。 ◇ ◇ ◇

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