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 トイレに行っている間に、吉見が会計を済ませていた。 「すみません」  店を出ながら真っ先に謝ると、吉見が困ったように笑った。 「そういう時は『ごちそうさま』って言えばいいんだよ。私が誘ったんだし、笠原は私の部下だし、笠原がお金を払う理由は一つもない」  吉見の一人称が「私」に切り替わっていた。ラーメン屋を出て、上司と部下に戻ったのだ。店での会話の方がおかしかったのだ。「これで安心」と思ったはずなのに、胸の奥がうずいてしまった。期待が潜んだ吉見の目が忘れられない。  ――口づけしたらどんな顔を見せてくれるのだろうか。誘ってきたのはあっちだ。俺から手を出したって、文句は言えまい。  風が吹いた。夜とは思えないくらい湿気を含んでいた。隣に立つ男は涼しげな顔でそれを受け流している。  汗がじっとりと透のワイシャツを湿らせたのは、暑さのせいだけではない気がした。 「今日も熱帯夜ですね」  吉見に話しかけてみる。 「そうだね。笠原んち、クーラー壊れてるんだよね。大丈夫?」  きた、と思った。チャンスだ。酔っ払いだし、フラれたばかりで傷心中だし、金曜日だし。たくさん言い訳は用意できていた。「なんですか、泊めてくれるんですか」。喉元まで出かかったところで、吉見が言葉を続ける。 「ごめん、今、弱みにつけ込んでるね。私は悪い上司だ。暑さで頭がやられてしまったみたいだ。今日は楽しかった。ありがとう」  ――なんだよ、それ。火をつけといて、そりゃないぜ。  透は、すがるような目を吉見に向ける。 「俺もやられました。暑さと、吉見さんに。責任とってください」  吉見が目をしばたたいて、ため息をついた。 「笠原は誘惑するのが上手だね」 「なんすかそれ。最初に誘ってきたのは吉見さんでしょ」  たっぷりとした沈黙のあと、吉見が呟いた。 「初めて見た時から好きだった。笠原の恋愛対象が男だったらいいのにってずっと思ってた」  水たまりに水滴が落ちた時のように、その言葉は透の心に広がっていった。好き。四年間付き合った男は一度も言ってくれなかった言葉。じわりじわりと、透を満たしていく。 「今すごく暑くて、思考がおかしくなってるかもしれないけど、笠原を思う気持ちは勘違いじゃないって、胸を張って言えるよ。クーラーがきいた会社でも、いつも姿を見るたび、ドキドキしてたから。さっき会社で笠原を見た瞬間、神様がチャンスをくれたんだと思った。弱虫な僕の背中を押してくれたんだって」  ロマンチストかよ、と思った。少なくとも、二十代の男が男に向けて言うセリフではない。それなのに――。 「馬鹿なんですか」  口から出た言葉とは裏腹に、胸がきゅうっと締めつけられた。

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