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夢か現か、それとも嫉妬か。
疲れきって重たくなった指でキーボードを叩く。思うように動かせなくて、何度も間違えては消して、消そうとして違うキーを押して、を繰り返す。視界がぼやけているのは、寝不足とパソコンのブルーライトのせいだろうか。目薬をさそうと蓋 を開けてみるが、傾けても一向にしずくが落ちてこない。中身がないらしい。
会社のパソコンは家にあるのとは違って、古くさいデザインだ。キーボードもひとつひとつが分厚いから、疲れてなくたって重く感じるしやりにくい。使おうと思ってた機能がなかったり、予測変換が時代遅れだったり、仕事は本当に進まない。この書類は今日までだっていうのに、仕上がるまでに時間がかかりすぎている。
最後にエンターキーを押して、保存。しばらく目をつむる。深いため息を吐いて、愛飲のエナジードリンクを開けた。ひとくち飲めば、それだけで少しは回復する。いやまあ、恋人が家で待ってるって考える方が回復量は大き――あぁいや、そんなこと考えてる暇 はない。とりあえずエナドリをぐいと一気に飲み干してから、書類の最終点検も終え「印刷」をクリックする。
と、肩を叩かれた。誰かと振り返るがもういない、その人の長い髪がふわりと視界に入るだけ。色素の薄いその髪は、誰かに似ているようだった。
ピロン、今いちばん聞きたくない音が鳴って、パソコンがエラーを吐いた。画面の方に目を戻せば、机の上にコーヒーがあるのに気付いた。あれ、俺、自分で淹 れて持ってきたんだったっけ、苦手なブラックを? いや、さっきの人が持ってきてくれたのか。さっきの長髪の――。
「いや、だったら俺が飲めないの知ってるだろ」
長髪のその人が向かった方を見てみればそれは、オフィスカジュアルなスカートスタイルの女の人。色素の薄くなんてない真っ黒な長髪を背中で揺らしながら、少し上機嫌そうに出口へ向かっていくその人は、先輩だった。
そういえばここは会社だし、和 がいる訳ないし、いたとしてもコーヒーを持ってくるなんてない。目をこすって、頬 を両手で叩く。何度目かのため息を吐いて、パソコンのエラーに対処する――。
「ってことがあって」俺は、ベッドに転がってる和の隣に座る。「時計は見なかったから時間もわかんないし、もしかしたら夢だったのかもしれないけどな」
冷蔵庫にあったフルーツのフレーバー香るビールを半分まで一気に飲む。背中の方で和がもぞもぞ動いているのを感じる。そっちを向けば、起き上がろうとしているらしかった。
「本当、お前と誰かを見間違えるなんて……だいぶ俺もキてるんだなってさ」
自嘲 気味に笑ってみせるが、和は何も言わない。眠いのか何なのか知らないが、いつもみたいに「ひめちゃん休まないとダメだよ」だとか「ひめちゃん、がんばりすぎは身体に良くないんだから」だとか、そんな言葉が来ないのは少し――寂しい、のかな。
背後から腕がぬっと出てきたと思ったら、その大きくて骨ばった手が俺の酒を奪った。それからゆったりとした動作で近くのテーブルに置かれて……何がしたいのか俺にはさっぱりだった。無意識に何度も瞬きを重ねる。
「……ね、ひめちゃん?」やっと喋ったと思ったら、腰に腕を回したまま俺の横に座り直したらしい和の顔は、その長い髪で見えなかった。「でもさ、その人はさ――」
何か言いにくいことでも言おうとしているのか、全然その先に進まない。俺が和の顔を覗き込もうと首を傾 げると、その瞬間、肩を掴まれて強引に引き寄せられた。その強さとは裏腹に、俺の頭の後ろに回った手は優しく柔らかく、俺を愛おしそうに撫 でる。
唐突なことに俺は何もできず、両手が空をさまよう。この手を和の肩に置くべきなのか、背中に回すべきなのか、それとも……なんて思考が一秒で脳内を駆け巡る。それから思い出したように慌てて目を閉じて、さっきまで見えていた和の睫毛 はやっぱり長いな、なんて場違いなこともその中に追加される。
すうっと唇は離れていくのに、和と俺との間には名残惜しさがあるみたいだった。余韻に浸 って、でも物足りなさを感じて。
「――その人は、ひめちゃんにこんなことしないでしょ?」
はっとした。珍しい、こいつの顔が染まるなんて。頬は恥じらうように赤らんでいるのに、瞳は全く違った炎を灯している。これは――嫉妬 か?
冷静に分析し終えたら次は、遅れて現実が俺に辿 り着く。今まで何回だってしたキスも、少し状況が変われば全部が違う。
「ま……待っ、て、くれ」顔に熱が集中してきて、それを誤魔化 そうと視線を逸らすのに、顔を両手で包まれては動けない。「ほんとに、たのむから……」
少しだけ驚いた顔を見せた和は、もう一度俺に口付けて小さく笑む。和の体重が段々俺の方に寄ってきて、抵抗できない俺はあっさりベッドに押し倒される。
「ふふ」俺の上で和は微笑む。さっきのとは違う、邪悪な笑み。「待たないよ?」
お題:長髪/後ろ姿
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