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エンジェルズ・キッス

 ひめちゃんは今日もお仕事が忙しくて、いつも通り全然帰って来そうにないから、おれは散歩することにした。世間はもうすっかり春モードに入ってるのに、未だに気温だけはちょっと低い。ポッケに手を入れたまま、目的地も何も決めないでふらっと外を出歩く。  無意識に立ち止まったのは、とあるバーの前。あれ、そういえばこの前家で鍋食べたっきりで会ってなかったな? あれ、もしかしておれたち約束しておいてまだここ来たことなくない?  ポッケから手を出して、目の前の黒い木製のドアを引く。今のおれがこの服装のまま入るには、あまりにもおしゃれすぎる気はするけど。 「(さくら)くん、来たよ〜!」  中に誰かがいるとか、もしかしたら桜くんはいないかもとか、そんなことは考えないで声をかけた。カウンターの中には思った通り、アッシュグレーのちょっと長い髪に、ピアスがたくさんの耳。いつ見てもキレイなお顔だなぁ。 「あれ、佐瀬(させ)さんじゃないすか。恋兄(こいにい)は?」 「ひめちゃんはね、いつも通り仕事場に缶詰(かんづめ)だね」 「あー、っすよねぇ……」  去年の秋頃から開いたって言うし、桜くんはまだまだ若いからもっと小規模なものだと思ってたけど、バーの内部は思ってたより広かったし、外観と同じくやっぱり中もおしゃれだった。でも、お客さんはいなくて、おれと桜くんのふたりきり。 「……もしかして、ハンボウキってやつ?」 「どこ見て言ってんすか、どう見ても閑散期」  桜くんはグラスを(みが)きながら、何も気にしてないみたいにカラッと笑う。この性格うらやましいな、ちょっとくらいひめちゃんに分けてあげてほしいな。  おれはカウンターの奥に並ぶビンとかグラスをキョロキョロ眺めながら、桜くんの目の前に座った。 「何飲みます?」 「おれね、こういうのあんまわかんないんだよねぇ。バー来るのって、連れてきてもらうときくらいだったからさ」 「あー、なるほど?」 「ね、桜くんのいちばん得意なのちょうだい」 「じゃあ、そうすね……最近の僕のお気に入りで」  そう言うと、桜くんはお仕事スイッチが入ったのか、ぱっぱと手際よく動き始める。カウンターの後ろにいろいろ並んでるグラスの中からひとつ取り出して、一本のビンと白い何かが入ったコップを近くに配置した。  ビンの黒い液体を銀色のカップに入れたかと思ったらすぐグラスに入れて、それから、白いのをスプーンみたいな長い器具伝いにグラスに注ぐ。最後に仕上げでサクランボの刺さったピンをグラスの上にかけて、できあがり。 「はい、これがエンジェルズ・キッス」 「天使の口づけ? かわいいし、おしゃれだねぇ」 「これね、カカオリキュールと生クリームなんすけど、まじで甘くてうまいんすよね。おすすめです」 「デザートみたいだね」桜くんがサクランボをピンの先まで移動させて、カクテルの中に沈めて、また持ち上げる。「へえ、キレイ」 「ね、チェリーをあげたときの模様(もよう)がハートみたいでかわいいすよね。てことで、どぞ」  差し出されたので遠慮(えんりょ)なくいただくことにする。確かにチョコと生クリームで甘くとろけそうにもなるんだけど、これは……? そんなおれを見て気づいたのか、桜くんは付け足した。 「じゅうはちっす、度数」 「そっかぁ、思ったより高いね。弱い子にはちゃんと注意しないとだ」 「ま、佐瀬さん強そうだったんで良いかなって」 「へへ、まあねぇ」  なんて話してると、この前のことを思い出した。毎日のように通ってくれてるって言う常連さんは、今日は来ないのかな? もしかしてもう帰っちゃったとか? お目にかかりたかったんだけどな、桜くんの片想い相手。 「ねね、今日はさ、例の常連さんは? 来ないのかな?」 「っすねぇ、まだ来ないのかもです。昨日も一昨日も来てたし、忙しいっぽいんで無理はしないでほしいすけどね」  明らかに(うつむ)いた。さっきまでにこにこしながらおれと話してたのに、耳を赤くさせながら、磨ききったはずのグラスをまた手に取って。ほらほら、やっぱりそうじゃん。 「あれからどうなの?」 「……どうって、なんすか」 「うまくいってるかとか、進展はあるのかとか?」 「いやその、進展も何も、ただのお客さんすからね、そんなことないっすよ、そりゃ」 「ふぅん?」ちらっと外を見るけど、人は入って来そうにないかな。「じゃあさ、どんな人か教えて?」 「あー、気になるっすか」 「うんうん、なるっす」  桜くんの話によると、その人はタチバナさんっていって、来るたび来るたび格好が違うらしい。一昨日は黒髪ロングに清楚系ワンピースだったのが、昨日はふわっと巻いたミディアムに、スリットの入ったセクシーなスカートだったんだとか。毎回全部が違うから、開店当初は違う人だって思ってたのが、声とか話し方とかで「あれ、この人毎日会ってるな?」って確信したんだとか。 「んで、もし今日来るんなら、ゴシック系に茶髪ツインテだと思うんす」 「……コスプレイヤーとかなのかな?」 「まあたぶん、そういうの好きなんでしょうね。お仕事何やってるかは聞いたことないんでわかんないすけど、趣味(しゅみ)で衣装作ったりとかするらしいす」  すごいなぁ、なんておれが(つぶや)いたとき、ちょうど来客を知らせる音が鳴った。 「あっ、タチバナさん!」出入口に立ってたのは、いわゆるゴスロリ系の服を着て、茶髪の三つ編みを右側に垂らしている人だった。「おっしー、今日ツインテじゃなかったかぁ」 「うふふ」そのかわいらしいお顔からは予想できない、低い声が聞こえた。「予想してたの、姫川くん?」  えぇっと……あれ? 見た目は完全に女の子なんだけど、声は絶対に、間違いなく、確実に男性のものだ。隠そうとすることもない、めちゃくちゃただの――というか、確かにめっちゃいい声ではあるんだけど――男のそれだった。 「桜くん桜くん」おれはびっくりして、小声で確認をとろうとする。「その、タチバナさんって……?」 「なあに、わたしの話でもしてたの?」 「あー、その」桜くんは(めずら)しくおどおどしながら、いつもの席なのか、端っこを整えてる。「常連さんいるんすよねって話を、してて……」 「ふふ、(うれ)しいわね。それで、その方は?」 「えーっと、兄貴の、同居人? です?」  自己紹介でもしようかと思ったけど、ちょうどそのタイミングでひめちゃんからメッセージが来た。 『帰宅。(のどか)いまどこ? 晩ご飯作るけど』 「ごめん、桜くん! ひめちゃんに呼び出されちゃった。タチバナさん、また会えたらお話しようね」 「あら、もう行っちゃうのね。姫川くんからあなたのお話聞いておかなきゃね」 「あざしたー! また来てくださいね、佐瀬さん!」  ふたりの声を背中に聞きながら店を出る。最後に振り返って見えたのは、見つめ合うふたりの仲(むつ)まじそうな様子だった。 「な〜んだ、心配ないじゃん」 お題:カクテル/君に見惚れて

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