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浴室、反響するのは。
腕時計は日を跨 いで、二時半を回ろうとしていた。クラクラする頭を抱えながら、家の鍵を回す。いつも通り、中は薄暗いのにキッチンの方からほんのり点いた明かりが見える。また起きてやがったらしい。早く寝ろって、何回言ったら言うこと聞くんだあのバカは。
イライラしながら玄関をあがる。靴を並べるのやら消臭するのなんて面倒臭くて、バラバラなまま放置する。どうせ明日には和 が戻してくれてるだろうし。
「ひめちゃん、おかえり~! ご飯にしよ! おれね、たくさんおにぎり作ったし、チキンも買って、おいた、よ……?」
和が視界の隅で皿を掲げて微笑んでいるのが見えた、が、そんなものは無視した。今は全部がどうでも良かった。いつもなら肩を寄せ合って、触れ合っていたいと思うような恋人――いや、普段だって絶対こんなこと本人に言ってやらないし、やってやることもないんだけど――ですら、どうでも良くなっていた。
早く全て忘れたい、何も考えずベッドに潜り込みたい。
「……どしたの、大丈夫?」
なおも俺を覗き込んでくるのが鬱陶 しい。やめてくれ。いつだってお前は俺をいちばん近くで見てるだろう、だったら放っておいて欲しいってことくらい気付いてくれ。和に見せつけるように大きくため息を吐いて、足早に風呂へ向かう。脱衣所に入る前、目の端に悲しそうな和の顔を見た。ちくりと胸が痛むのなんて、俺は知らない。
慌てている訳でもないのに、素早く全部を脱いでその場に投げ捨てる。必要性のないあらゆるかたさを備えたスーツなんて、長時間着ていて気持ちのいいものじゃない。そんなの大学の新入生か新卒社会人くらいだけだろう。
シャワーを雑に浴びる。その温度が心にまで沁みる。痛いくらいに温かい。曇りかけの鏡の中、自分と目が合う。眼鏡をかけていないからよく見えないけど、だからこそはっきり見えた。そこにいる俺はあまりにも辛そうだった。仕事が? いや違う、それだけじゃない。さっきもそうだ。最近ちゃんと和と話せていないのに、俺からあいつを避けてしまっている。無視してしまう。
目に涙が溜まっていく。だってあいつ、あんなに嬉しそうに、楽しそうに、おにぎり作ってくれたって言ってたんだ。俺のために苦手なこともやってくれたんだ。チキンもあるんだと……ああ、そうか。明日は――もう日付は変わっているから今日か――クリスマスだった。
それなのに、俺は何だ? どうでもいいクソみたいなストレスだけ持ち帰って、それで勝手に八つ当たりだ。しかも特別な日だっていうのに一緒にいる選択肢だって頭になかった。こんなの、恋人失格じゃないか、俺のバカ。後でちゃんと謝らないと……いや、わかってる。毎日同じことを繰り返してることくらい、自覚済みだ。
と、背後で浴室のドアが開く音がした。それまで全然気付かなかった、和が入ってこようとしてるなんて。
「……は?」自己嫌悪とストレスと混乱の中、俺が出せたのはこの一音だけだった。
にこにこ顔の和は相変わらず口角を上げっぱなしで、その華奢な身体の一切を隠すことなく入ってきた。ゆったりとした動作でドアを閉めると、その大きな手のひらを俺の頭の上にぽんと載せて、それから少しずつ首の方へ下がっていく。
「ひめちゃんのことは、おれがちゃあんと洗ってあげるから、ね?」
その整った綺麗な顔が近付いて来たかと思えば、頬に柔らかな唇の感触が来た。俺はついていけていない。何ならまだ玄関の前にいるような気分だった。そんな俺のことは放っておいて、和がおもむろに石鹸 を泡立て始める。
「まずは背中からだね」
大きくて温かな手が背中に触れる。するりと滑って、上下に動く。撫でられているみたいで、この前の夜――って、どれくらい前だったかなんて覚えてないけど――を思い出してしまって……その手を何だかいやらしく感じてしまうのに、でもたぶん、それは俺だけなんだろう。
自分でも知らないうちに勝手に期待して、勝手に裏切られてると勘違いして、それで勝手に落胆 してる。こんなのため息だって出る。やっぱりバカみたいだ。
「ん? どしたの、ひめちゃん?」
肩越しに振り返って和の顔を見れば、完全にわかりきってる顔だった。俺が何日も何日も夜中一時以降に帰ってきてはすぐ風呂に入ってすぐ寝る、なんて生活を繰り返していたから、どんな触れ合いだって何もなかった。だからこれくらいしたって当然だろうって顔だ。俺は何か言ってやろうと身体ごと振り返る、が――。
視界いっぱいに和がいて、背中に回された手にぐっと力が入る。柔らかい唇が離れた後、俺は、ただ瞬きしかできなかった。
「じゃ、続き洗おうね」
気付けば俺たちは向かい合わせになっていた。
「は、はぁ!? 何言って」細くすらっと伸びたその指が腹に触れる。あまりにも久しぶりすぎるその感覚に、勝手に声がもれる。「ん、っ」
「あれあれぇ、どうしちゃったのひめちゃん?」腹立たしいくらいに笑みを浮かべた和は言う。「ほしくなっちゃった、とか?」
煽 ってる。いつもだったら俺が言う前に欲しいものをくれるのに、今日はやたら意地悪だ。今も、触れそうで触れないように、胸の周りをその細くて白い指が遊び回っている。
「……っるさい」目を背けて手の甲で口を隠す。「早く、っ、出てけよ」
「えぇ? そっか……ひめちゃんがそう言うなら」
手が離れる瞬間、爪がさらりとそこに触れた。「んんっ」
和は俺に背を向けてドアに手をかけている。足に力が入らなくて壁に手をつく。そんな俺を見ようともしない。ドアが開く音が反響する。許せない、俺を煽っておいてそんな反応かよ。
咄嗟 に肩を掴んで、ぐいと引く。風呂場で足元が滑りやすいとか、さっき泡立てた石鹸が床一面に伸びてるとか、そんなことは頭になかった。ただこいつを俺の方に向かせて、その真紅の唇を塞 ぎたかっただけだ。
触れるだけのキスをして、和の驚いた顔を拝んでやれば、自分の口角が上がるのを感じた。
「仕返しは成功だな……?」
「へえ」瞳の奥には、余裕のなさそうな炎が燃え上がっているのが見えた。「ひめちゃんってそんなことするんだね?」
今度は強引なんてもんじゃなかった。まるで頭突きするみたいな勢いで口付けられて、一瞬、息が止まった。
「おい、まっ――」
口を開けたのが悪かった。ここぞとばかりに入り込んできて、勝手に俺の舌を絡めとる。風呂場だからか、こんなに小さな音すら室内に響く。いやらしい音が数倍になって脳に渦巻く。
「ん、やめっ」
いつの間にか伸びてきた和の手が、俺の胸をさわさわと行き来する。この状況に興奮しきった突起を、時折ぎゅっと強く摘まれる。
「んぁ……っ、ふ」
離れた和と糸で繋がってるのが見えた。和はそれを、艶かしい舌で舐めとる。白い肌と赤い舌のコントラスト。酸素が足りないのか、俺の脳はその様子を映し出すだけで理解することができない。今、何が起きてるんだ? じんわりと全身が麻痺してきている。
頬に手が添えられる。そういえば腰も支えられている気がする。たぶん、今その支えがなくなったら俺は立てないんだろうと思う。あまりにも久しぶりすぎるこの快感に、身体が耐えられない。
「んふふ、ひめちゃんかわいいねぇ」
頭が真っ白になって何も考えられない。だから、俺の背中を回った和の腕が企むことにも気付けなかった。
「あっ……んんっ、ま、って」
「おれはもう、待たないよ」
長い指が後ろに侵入してくる。身体を捩 って逃げようとしても、唇を重ねられてそれ以上動けなくなる。
「おれはさ、充分待てできてたと思うよ? 今日までずうっと、お座りしてたんだから」
俺の背には壁。完全に退路を絶たれて、けどそのお陰でやっと立っていられる。目の前には背の高い和が迫っていて、その圧迫感に恐怖を覚える。それなのに頭も身体も全部が痺れて動けないのは、やっぱり俺もずっと我慢を重ねてきたからなのだろうか。
喋っている間も和の左手は俺の腹を、首を、肩を、いやらしく撫でている。時折唇を鎖骨から胸元へ這わせては、期待で膨らんだその突起を口に含ませる。舐められ、吸われて、たまに甘噛みされる。それがたまらなくもどかしくて、それでも感じてしまって。
「ん、っ……ふ、あっ、ぁあ……」
目の前がちかちかして、一瞬、何も見えなくなる。荒くなった呼吸を整えようと、何度も酸素を取り入れては息を吐き出す。苦しくてたまらないのに、気持ち良くて辛い。
「あれ、もしかしてひめちゃん、軽くイッちゃった?」あやしく口角を上げてみせるくせに、その中にはいつもの余裕が見えない。「まだなぁんにもしてないのにね?」
「んん……っ、なにも、してる……だろうがっ」
強がってみてもわかってる。今日は少しおかしい。
和は目を閉じて、唇を俺の首元に寄せた。少しだけ荒い鼻息がかかる、かと思えば、いきなり首を噛まれた。甘く溶け始めていた思考が覚めそうにもなる。
「っ……!」
視線だけをこっちに寄越したその姿が、あまりにも様になっていて怯んでしまう。
「っい、たい……だろ」
「でもただ痛いだけじゃないでしょ? おれは知ってるよ」
俺の肩に頭を乗せたまま、こいつは俺の身体を撫で回す。指先でさわさわと、指の腹でくるりと、いつかの夜を想起させるように。
「ほら、ひめちゃん好きだもんね? 甘噛みもキスも」すうっとゆっくり瞳だけを動かして、上目遣いで俺を見る。「――セックスも」
その瞳に刺されて、俺は何も言えなくなる。否定できなくなる。たぶんこれは、どろどろに溶けてしまっていつも通りの思考ができなくなってるのもあるんだろうと思う。けど、あまりにもほしくて、どうしても和がほしくて、俺は――。
「ごめんね、ひめちゃん。疲れてるだろうから、本当はそんなつもりなかったんだけど我慢できないや……いれてもいい?」
こんなにも余裕がなさそうな和を見るのははじめてだったし、自分がこんなにも欲情してるのもはじめてだった。みっともないことはわかっていながら、自分の尻たぶを持ち上げて和を求めた。
「ふ、っん……は、はやく、いれて……」
ハッとびっくりしたような顔を見せた和は、頭を抱えながらでかいため息を吐いた。その風すら今の俺には刺激が強い。
「……どこでそんなの覚えてきたの」待っていられなくて、背中に回していた腕で和を引く。「ひめちゃんのえっち」
生ぬるいお湯に、和と一緒に浸かる。後ろにいるこいつはご満悦の様子で、俺の腹に腕を回しながら、俺の左肩に顎を載せてにこにこしてる。こんなちっぽけなことが、こんなにも幸せだとは思わなかった。
どれだけご機嫌なのか、和は俺ごとゆらゆら揺れてた。ちっちゃい子どもが楽しそうにしてるときみたいに、嬉しくてたまらないみたいな空気がダダ漏れだ。
耳許でふわりと笑う気配がして、俺は振り向いた。そうすれば和は優しいキスをくれる。
「の、のどか……」
「なあに、ひめちゃん?」パッと眉を上げて笑みを向けてから、心配そうにその眉をすぐ傾けた。「どしたの」
「……きもちわるい、かも」
「わわっ、ご、ごめん!」
慌てた和は、ざばっと立ち上がって、俺を抱き上げる。本当にお姫様にでもなったような気分だった。いつかもこんな風にされた気がする。でもそれがいつだったのか、思い出せないくらい日常に埋まってしまってる。
冬まっただ中の部屋の空気は寒すぎるくらいなはずなのに、今はちょうど良く感じた。
「ほんっとうにごめん! 元気なさそうだったから励ましたかったんだけど……」俺がどうにか座って水も飲めるくらいに回復してから、和は勢いよく頭を下げた。「疲れてるのなんてすぐわかったのに、無理させた」
まだ痛む頭を撫でながら、ため息を吐く。わかってる、和がそんなことをした原因は俺にある。
「いや、俺もごめん。最近和のこと考えずに仕事ばっかりだったし、ふたりの時間も取れなかったし……寂しい思いさせた、ごめん」
手に持っている和が用意してくれた水を一口飲んでから、いや、と顎に手を当てる。
「でもアレだろ、風呂に入ってきたのは励ましたいとかじゃないよな。やりたかっただけだろ、お前」
「えっ? いや、あー……んーと」こいつほどわかりやすい男はいないんじゃないだろうか、目を逸らされた。「よしっ、じゃあ……おにぎり食べよっか、もう冷めちゃったよなぁ」
「おいこら」
立ち上がった和はピタッと止まって、頬を膨らましながら俺を見た。
「……だってさぁ、こんなに寂しいですよ~って顔もしてたし、構って~ってしてもいたのに、ひめちゃん、おれのこと無視するんだもん。そりゃあ、いじめたくもなるでしょ?」
何もない部屋の隅っこなんか睨みながらそんなことを言うもんだから、その真っ白な腕に手を伸ばした。膝立ちになって和を引っ張って、柔らかな唇をついばむようなキスをした。
「……ほら、おにぎり、作ってくれたんだろ」何も言わずに見つめ合ってるのが気恥ずかしくて、俺は逃げるように冷蔵庫から麦茶を出す。「腹も減ったし早く食べよう、冷たいならレンジであっためればいいし」
「あぁ~! わかった、あとでゼッタイ抱く!」
変なことを言うからぎょっとして和を見れば、いつも以上に穏やかな笑みを浮かべているもんだから、俺は顔をしかめた。
「たぶんだけど、心の声と言おうと思ってること逆になってるぞ」
「ねえ、今の見た? こんなに超絶かわいい恋人なんてさぁ、ぐちゃぐちゃに抱く以外なくない?」
どういうつもりなのか、夜食を準備しながらにこにこでそんなことを言ってる。何かが吹っ切れたのか、俺の目を見ながら言うから、俺は何もできない。というか、その本人にこんなに満面の笑みでそんなこと言うなよ。
「おれ決めたよ、今夜死ぬほどなかせる。明日ぜんっぜん立てないくらい」
「おいお前、今から飯なんだからそういう発言は控えなさい。あとブラック企業に休みはありません」
「ちぇ~、またお預け? もう良いじゃん、働かなくっても」
「誰に養われてるのか考えてから喋ろうね」
真夜中、大きすぎるくらいのおにぎりをふたりで頬張る。なんだかしょっぱすぎたり米本来の味しかしなかったり、味は安定せずいろいろだけど、どうしてだか世界でいちばんおいしい。
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