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愛しい涙

 また、おれはため息を吐いた。  ずっと前から心配はしてたけど、本当にこんなことになるとは思ってなかった。今までだって熱を出したり、体調崩したりしてても、ここまでのことはなかったはずだし。何があったって「俺が休んだら、その穴を埋めるのは結局俺だから」とかなんとか言って、無理やりにでも出勤してた。あんなブラック企業に勤めてたらいつかは壊れちゃうって、何回も何回もひめちゃんに言ってたけど、それでもおれに笑いかけてくれるひめちゃんが本当にダウンするなんて、少しも考えなかった。  最近余裕がなくなってきてたのは、おれだって恋人だから、見ててわかってた。けど、それに口出しするのは違うのかなとか、いろんなことやってもらって疲れきったひめちゃんにそんな疲れること言うなんてとか、勝手にブレーキかけて。じゃあおれがやるべきことってなんなんだよって、その頃の自分に叫んでやりたい。無理してるのを止めることもできないで、何が恋人だ、拾ってくれた恩すら投げ捨てるのかって。  寝室のドアノブに手をかけて、静かにため息を吐く。  おれの記憶が正しければ、昨日帰ってきてからご飯も食べない、お風呂にも入らない、なんなら着替えすらしないで、この部屋に引きこもってたはずだ。一応何回か声はかけたし、苦手な料理もがんばって――とはいっても、ひめちゃんが炊いて冷蔵しといてくれたご飯をチンして、お茶漬け海苔とお湯かけたくらいなんだけど――ベッドの近くに置いた。どんよりやばめな空気が漂ってる部屋で一緒に寝たし、ちゃんとおはようもおやすみもおれは言ってみたけど、ひめちゃんの声はもう何日も何週間も聞いてないような気分。かなしい。  ちらっとドアを開けて、隙間からのぞく。もう午前も終わってるのに真っ暗なのは、カーテンが閉まってるからってだけじゃないような気もする。ばっと部屋の中に視線を走らせるだけじゃひめちゃんは見つからない。だって、毛布をかぶって、ベッドの陰で限界まで縮こまってるから。こんなに目に見えてぼろぼろになるひめちゃんは、こんなにずっと一緒にいたのに、はじめてだった。 「ひめちゃん、もうお昼なっちゃうよ?」ひめちゃんからは返事がないから、おれは言葉を続ける。「ね、ヨーグルトくらいなら食べれる? 食べないならおれが食べちゃうんだからね」  やっぱり何も言わないひめちゃんのそばにしゃがみこんで、毛布をぺらっとめくってみる。そこからのぞいたひめちゃんの顔は、土気色だった。何もかもが足りてないって感じ。おやすみの時間も栄養も血も、心の余裕も。  もう枯れちゃったのか、腫れてるだけの目を見て、なんでかおれが泣きそうになる。ごめんね、おれにはなんにもできなくて。  容器からすくったリンゴ入りのヨーグルトを、こぼしそうになりながらも、ひめちゃんの口の前まで運ぶ。 「ね、食べよ?」ちょっとだけでも開いてくれた口に、すうっと入れてやれば、シャリシャリ果肉を噛む音が聞こえる。「おいし?」  小さく頷いたひめちゃんは、何かにたえるような顔をしてから、膝に顔を(うず)めて小さく(うめ)く。そんなことするのが苦しくて愛おしくてたまらないから、毛布ごとひめちゃんをぎゅっとする。こんな状況にあっても、ひめちゃんはあったかい。 「この頃寒かったし(くも)り続きだったのに、ひめちゃんがんばってたもんね。おれはちゃんと知ってるからね、ひめちゃんがえらい子だってわかってるからね」  おれの胸の中でこくんって頭が動いた、たぶん頷いたんだと思う。辛くて泣いてるのにそんなこと考えるなんてフキンシンだって言われちゃうかもしれないけど、あんまりにもかわいい。こんな壁にしかならない毛布なんかむいて――いや、勝手に(もぐ)り込んでぎゅってしたっていい。そうしちゃおっかな。  顔をちらっとのぞけば、上目遣いでこっちを眺めるひめちゃんと目が合った。「あぁー、ホントに!」出そうになった声を口の中で噛み殺す。それから笑顔を作り直して、ひめちゃんの真っ赤なまぶたに口づける。しょっぱい涙に触れる。  このままひめちゃんの辛さ、この涙をおれに分けてくれればいいのに。ひめちゃんを苦しめる全部、おれも共有できればいいのに。  今度はちゃんと、顔上げたひめちゃんの唇を奪った。 お題:キス/温もり

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