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一生分のしあわせ 1
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健人さんの誕生日、旅行に連れていきたい。六月に誕生日を祝ってもらってから、ずっと考えてきたことだ。でも今のままでは誘えない。健人さんが俺にお金を払わせてくれないからである!
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九月になり、秋の気配が近づいてきた頃、俺は大学の近くにアパートを借りて、一人暮らしを始めた。料理ができない俺のために、健人さんがよくうちに来るようになったのだが。
「健人さん、今日の食材費は――」
食後に申し出ると、健人さんが俺の言葉に被せるように言った。
「いりません。いつも断ってるのにしつこいですよ」
「でも、申し訳ないよ……」
「そう思う必要はありません。料理は僕が好きでやっていることですから。悠里はお腹が満たされてハッピー。僕はご飯をたくさん食べる悠里が見られてハッピー。win-winです」
「いや、俺だけが得してると思う」
「そんなわけないでしょう! 水道ガス電気は悠里の家のを使わせてもらっていますし、僕も得してます!」
毎回のように、このようなやりとりを繰り返していた。俺が実家暮らしをしていた頃から、健人さんの料理をたまにご馳走になっていたが、その時も「悠里は家まで帰るのに時間もお金もかかるから」と受け取ってもらえなかった。
今は、引っ越したばかりの俺を気遣ってくれているのだと思う。でも、家具家電付きの物件だし、着替えや教科書などの荷物は母さんが車で運んでくれたから、引っ越しのお金は当初の予定より少なく済んだ。お金に余裕がないとはいえ、三度の食事に困るほどではないのだ。
俺が危惧しているのは、「旅行に行こう」と俺が提案した時に、健人さんが自分の分どころか、俺の分までお金を出してしまうのではないかということだ。健人さんの誕生祝いなのに! それだけは避けたいところ。できれば二人分俺が出したい。
千里の道も一歩から、旅行代金の前に食事代から、ということで、俺は困り顔を作ってみせた。健人さんがこの顔に弱いと知っているからだ。
「うう。でもこのままだと、引け目があって、健人さんの料理を百パーセントで楽しめなくなっちゃうよ……」
「それは困りました……」
思惑通り、健人さんの目が泳いだ。
「せめて千円払わせて」
「でも」
「俺の気が済まないの。俺のためだと思って、お金もらってくれない?」
上目遣いをすると、健人さんがため息をついた。
「分かりました。一食三百円にします」
「八百円」
「いえ。三百円でお願いします」
「ごひゃく――」
「三百円です!」
健人さんが俺の顔を両手で挟んだ。
「わ、分かったよ……」
「ん。いい子」
ちゅ、と唇に吸いつかれた。鏡を見なくても自分の顔が赤くなっているのが分かる。吐息が顔にかかるくらいの距離のまま、健人さんが微笑んだ。
「悠里は本当に優しいですね。今度、貯金箱を持ってきますから、そこに入れてください。お金が貯まったら、美味しいものでも食べに行きましょう。それでいいですよね?」
答える前に再びキスされて、思考がぼやけてくる。
――あ、きもちいい。けんとさん、すき。
なんだかいいように言いくるめられてしまった気もするが、もう何も考えられない。
――ふわふわする。すき。
舌を突き出して、健人さんのキスにこたえようとすると、体が離された。
「もう終わり?」
首に手を回すと、健人さんがその目に情欲を宿して、薄く笑った。
「まだ足りない?」
反射的にこくんと頷いた。
「いいですよ。悠里が望むなら」
健人さんの舌が俺のに絡みついた。優しく激しいキスが、俺と健人さんの境目をどろどろに溶かしていく。
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