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一生分のしあわせ 2

  * 『着きました』  健人さんからのメッセージを見た直後、インターホンが鳴り、体がこわばった。  ――昨日はキスでごまかされて、お金のことがうやむやになってしまったけど、今日こそは食事代を払って、健人さんを旅行に誘うんだ! 冷静に冷静にっ!  三回深呼吸してからドアを開けた。 「悠里。会いたかったです」  満面の笑みを浮かべた健人さんが、肩から買い物袋をさげて立っていた。 「昨日も会ったでしょ」 「あれから何時間も経ってます。寂しかったです」 「……上がって」  抱きつこうとしてくる健人さんをかわして、背中を向ける。 「えっ」  健人さんが不満げな声を漏らしたが、聞かなかったことにした。お金と旅行の話をする前に、ムラムラしてしまうわけにはいかないのだ。  テーブルを挟んで向き合い、「いただきます」をしたあと。料理を食べる前に支払いを済ませようと思って、千円札を差し出した。 「はいこれ。昨日の分と今日の分」  お釣りはいらないと言う前に、健人さんが財布を開いて、四百円返してきた。俺の千円は健人さんが持ってきた豚の貯金箱に、下からねじ込まれた。 「この分だとすぐ貯まりそうですね。何食べに行きましょうか」  健人さんが笑顔で貯金箱を鞄にしまう。 「『食べに』じゃなくて、旅行に行かない?」  トンカツを持ち上げながら提案すると、味噌汁に伸びていた健人さんの箸が止まった。 「五月に遊園地に行って以来、いわゆる『旅行』みたいなやつしてないじゃん。俺、また健人さんと出かけたいなぁ」 「たしかに、最近はどちらかのアパートで会うばかりで、マンネリ化してきてますよね」  健人さんは箸をお碗の上に置くと、俺の目を見つめてきた。悲しげに口をつぐむので、慌ててフォローする。 「家デートで満足してないわけじゃないんだよ。むしろ、美味しい健人さんのご飯がほぼ毎日食べられて、嬉しい。たった三百円でこんなに食べさせてもらって、逆に申し訳なくなっちゃうくらい。だから、お礼っていうか、借りを返すっていうか、そういうので、俺が健人さんを旅行に連れていってあげたいんだ。健人さんは、いや?」 「いやなわけありません。嬉しいです。でも、僕は完全に自己満足でやっていることですし、『借りを返す』なんて思わなくていいんですよ」  そっと目をそらされる。 「大丈夫。『借りを返すために旅行に連れていきたい』っていうのも、俺の自己満足だから。健人さん、俺のわがままに付き合ってよ」 「そういうことなら分かりました。でもお金のことは無理しないでください。最低でも自分の分は出しますから」 「だめだよ。だって、健人さんの誕生日に旅行をプレゼントするつもりなんだから。俺が二人分払う。日々のご飯代と誕生日祝いってことで奮発するから、いい宿に泊まろう?」  健人さんが勢いよくこちらを向いた。 「えっ、僕の誕生日ですか?」 「うん。それとも何か形に残るものの方が良かった?」  喜びではなく困惑の表情を浮かべる健人さんを見て、勝手に決めてしまって悪かったかなとドキドキする。その顔のまま俺の目をじっと見つめてくるから、さらに心拍数が上がる。 「いえ。旅行がいいです。ずいぶんと先だなと思っただけで」 「健人さんが他の予定入れちゃうと困るから、今から予約しておきたくて」  健人さんの口元がほころんだ。 「悠里との予定は最優先ですから、他の予定があったとしてもずらしますよ。ああ、今まで、そんなに先の約束をすることなんてなかったので、すごく嬉しいです。予定が先にあるというのはいいものですね。あと四ヶ月も楽しみにしながら過ごせるなんて。嬉しい」  興奮しているのだろう。健人さんが「嬉しい」としきりに繰り返す。それを聞いて、俺の顔の筋肉はだらしなく緩んでいく。

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