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寄り添う体温 7
*
それから一年。俺は教員採用試験に合格し、春からA県で小学校教諭として働くことが決まった。健人さんが試験勉強や模擬授業、模擬面接に付き合ってくれたおかげだ。
同棲に向けて新居も決めた。二人の職場の中間地点。健人さんの希望通り、2LDKだ。
母さんにはまだ健人さんと付き合っていると言う勇気がなかった。そのことは伏せ、電話で「健人さんと一緒に住む」と伝えた。かなりびっくりしてたけど、「健人くんと一緒なら、新生活も心強いね。改めておめでとう。頑張って」と言われた。
おめでとう、は採用試験合格についてだと思うが、健人さんとのことも祝福されているような気分になって、居心地が悪かった。
「私も健人くんに会いたいし、二人で帰っておいで。ご飯ごちそうしてあげる」
と最後に言われたので、生活が落ち着いたら、健人さんと一緒に帰省するつもりだ。
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三月末。新居には、すでに二人分の荷物が運び込まれていたが、前のアパートの退居日などの兼ね合いで、俺が数日先に住み始めることになった。そして今日がいよいよ健人さんが引っ越してくる日だ。仕事があるらしく、帰りは夕方になると言われている。
この日をずっとずっと楽しみにしていた。緊張もしていた。午後六時半、やっとインターフォンが鳴って、俺はリビングから駆け出した。
ドアを開けると、俺と同じく緊張した様子の健人さんが立っていた。
「待ってた」
俺が笑顔を浮かべると、健人さんが照れたように目を泳がせた。
「お邪魔します」
「違うでしょ、健人さん。ここは健人さんの家でもあるんだよ?」
じーっと目を見つめる。それていた健人さんの視線が戻ってくる。まばたきをして、少し戸惑った表情をしたあと、息を吸い込んで言う。
「……ただいま」
とても小さな声だった。でも、俺にはちゃんと届いたから。顔の筋肉が緩んでいく。
「うん。おかえり」
声が弾んだ。健人さんがはにかんだ。
「ただいま」
健人さんは、もう一度噛み締めるように言ってから、玄関の段差に腰を下ろして、革靴を脱いだ。靴をきちんと揃えてから立ち上がった健人さんが、鼻を動かしながら振り返った。
「カレー、ですか?」
「うん。作った」
「夕飯を用意してくれたんですね。ありがとうございます」
健人さんの目から突然、一筋の涙がこぼれ落ちたからぎょっとした。健人さんはそれを手のひらで拭うと、にっこり笑った。
「僕、幸せです」
本当に嬉しそうに笑う。俺は健人さんから目が離せなくなった。
「悠里と付き合いはじめてから、僕は毎日幸せです。いつも『これ以上幸福なことは起こらないだろう』と思うのに、どんどん『幸せ』が更新されていきます。悠里と一緒なら、『幸せ』は尽きることがないでしょう。本当にありがとうございます」
健人さんが腕を広げた。その中に飛び込む。
「俺もいつも幸せだよ。こちらこそありがとう」
健人さんの体は、外から来たせいか少し冷えていた。温めてあげようと、ぎゅっと密着した。俺の背中に回った健人さんの腕に力が入った。
三十秒くらい経っただろうか。そろそろ健人さんの顔が見たいなと思ったタイミングで健人さんが離れた。俺の心が読めるのかと思うくらい、ばっちりなタイミングだった。
健人さんが俺に右手を差し出してきた。
「悠里、一生僕のそばにいてくれますか?」
この質問は何度もされているのに、同棲をスタートするに当たって改めて聞かれると、プロポーズを受けるみたいで照れ臭い。
とびきりの笑顔を作って、その手を握る。
「はい。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。過去も、現在も、未来も、ずっとずっと、愛しています」
健人さんの顔が近づいてきて、唇が重なった。熱くて、甘くて、重い。その全部がとても心地よかった。
(「寄り添う体温」了)
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