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第1話

「セガミよセガミ」 「そんな鏡みたいに言われても」 「この学園で一番モテるのは、俺?」 「違うよ八尾。思い上がるな」  情報通の瀬上は眉をひそめた。対する八尾は歯を食いしばって地団駄を踏んだ。彼らは既に大人の仲間入りをしたキラキラの大学三年生だが、この遣り取りだけは一年の頃から伝統の如く週一回のペースの恒例となっている。悔しがった八尾の拳を瀬上が華麗に避け、八尾が講義室の机に突っ込むまでが一連の流れだ。今日も派手な音を耳にした誰かが「ストライク!」と叫び、それを合図に周囲が黙って机を戻し始める。隣の机で自習をしていた佐伯が倒れた八尾を助け起した。彼の広げていた参考書には倒れたコーヒーがぶちまけられていたが、彼は文句を垂れることはしない。佐伯は物分かりの良いメガネなので、このタイミングで不用意にコーヒー片手に自習をしてた自分を内省するに留めたのだ。 「医学科の藤堂も俺の虜なのにか? あの藤堂だぞ?」 「上には上がいるんだよ」 「じゃあその上を教えろよ、昼飯奢っただろ」 「目には目をだよ、八尾。個人情報は金じゃ売らない」 「じゃあどうしたら」 「だから、目には目を。情報には相応の情報が条件だ」 「瀬上……」 「誘惑しても駄目だ。俺はノーマルだしフィアンセがいる」 「チッ、二次オタ豚野郎」 「お前のそういう逞しいところは本当に評価してるけどね」  八尾明の自己評価はあながち間違ってはいない。瀬上と佐伯と三人でデブチビメガネのズッコケ三人組と揶揄されることはままあるが、チビはチビでも八尾は整ったチビだ。ルックスもスタイルも人並み以上で、コミュニケーション能力もずば抜けている。男女問わず引く手あまただ。しかし向上心の高い彼は、特定の恋人をつくって長く付き合うことを好まない。両想いになるまでを楽しむ嫌なタイプの人種だ。彼の言い分としては、自分に見合う相手が見つかるまで自己研鑽を続けるつもりらしいが、遊ぶだけ遊ばれた相手からしたら堪ったものではない。 「八尾、男遊びもいいけど課題も忘れるなよ」 佐伯は地に足のついた男だ。恋愛のためなら何でもする八尾と推しのためなら何でもする瀬上に、いつも冷静に「落ち着いて考えろ。危ないことはするな。失ったものは返ってこない」とたしなめるのが彼の役割になっている。二人はこれまで幾度となく佐伯の金言に助けられており、今回もその良い例だ。 「あれ、レポート? 何枚だっけ」 「A4十。手書き」 「……助けて、佐伯」 「だと思ったよ」 周囲は哀れみ「佐伯! 徹夜コースだぞ」とか「今日こそ殴れ!」とか「友達やめちまえ!」とか野次を飛ばすが、佐伯はいつも通り諦めの滲んだ顔で参考書の染み抜き作業に戻った。何とも哀愁の漂う背中をしていた。  アルバイトのある瀬上と別れ、二人はエナジードリンクを二本ほど完飲してから必要なテキストやらノートやらを持って二十四時間営業のファミレスに繰り出した。店員のレディたちに複雑な視線を向けられながら、二人は白紙のレポートに着手する。といっても、ほとんど佐伯が指定した箇所を八尾が書き写すような作業だ。瀬上不在のため「操り人形w」とかディスられることもなく、八尾はここ半年で一番といってよいほど集中していた。書き写すだけの手の運動だが。  途中で夕食だったり小休止だったりを挟みながら、午後八時には四割程度出来上がっていた。八尾も佐伯も徹夜の覚悟を決めていたばかりに、これについては嬉しい誤算だった。 「ちょいトイレ。ここ写しといて」 「うん」 八尾は調子が良かった。絶好調だった。佐伯という監視役が去ってもスマホに触れることなく、黙々と作業を続けている。「やればできるじゃん」と自分自身に酔ったほどだ。  集中しすぎて目が乾いた八尾は、眉間を押さえながらテキストから顔を上げた。疲れた目を休ませるために窓の外を見る八尾の視界に、パッと明るい色が飛び込む。日の落ちた通りの街灯に照らされたそれは、道行く青年の髪の色だった。赤みの強いブラウンが揺れ、窓越しの視線に気付く。同い年くらいだろうか、青年は人懐こく微笑み、まだぼんやりしている八尾の方に近寄ってきた。目を潤すための涙で視界がぼやけ、街灯のオレンジが彼に重なる。弧を描いた目元まで眩しく見え、八尾は少し目を細めた。 『お兄さん、ひとり?』 手早くスマホを取り出した青年は、そう書いたメモアプリの画面を八尾に向けた。八尾は少し迷って首を横に振った。 『彼女?』 これにもノー。今度は迷わず首を横に振り、口を分かりやすいようゆっくり動かして「ともだち」と呟いた。青年は理解したのか軽く頷き、再び画面に目を落とす。伏せられたまつ毛が長く、八尾は思わずドキッとした。 『こっちおいでよ』 脳がぐらつくような感覚に襲われ、八尾は瞠目した。身を任せてしまいたい衝動だ。レポートが無ければ、佐伯がいなければ、まず飛びついていた。八尾の脳裏に運命の文字がよぎる。これまで数多の経験を重ねてきたが、こんな感覚は初めてだった。 「八尾?」 ハッとして振り返ると、トイレから戻った佐伯が怪訝な顔をして八尾と窓の外の男を交互に見ていた。八尾は動揺した頭で考える。レポートはまた出せる。叱られても謝ればいい。じゃあこの運命は? どこの誰とも分からないこの相手とまた巡り会えるまで、自分は指を咥えて待っていなければいけないのだろうか。そこまで考えて、八尾は自分の中の天秤がどちらに傾いているのかハッキリ理解した。 「佐伯、ごめん」 「え? レポートは?」 「ごめん! 運命なんだ!」 八尾はテーブルに五千円札を置き、その場から走り去る。佐伯の声に後ろ髪を引かれたが、立ち止まることはしなかった。彼の心臓は早鐘を打ち、鼓動は耳元で聞こえている。一刻も早く青年と会いたいと、それだけを考えていた。  外に出ると、青年は片手を挙げて「こっち」と言った。思ったよりも高くて、可愛らしい声をしている。むずむずした気恥ずかしさと高揚で顔を上げられず、八尾は足早に青年に駆け寄った。佐伯は追って来なかったが、既に八尾の頭から友人のことは失せていた。 「良かったの?」 「ああ、うん。帰るところだったから」 「そっか。近くで良いお店知ってるんだ。俺、真辺春」 「俺、八尾祐飛」 「祐飛クン。いい名前じゃん」 「そっちもね」 真辺はとけるように笑う。いちいちキュンキュンしながら、しかし八尾も伊達に経験値を上げてきたわけではない。上ずった心を悟られないように緩く微笑み返し、会話を続けた。  その後二人は近場にあるバーに入った。八尾が「あまり酒が得意じゃない」と言うと、真辺は「かわいいね」と言いながら適当な甘いカクテルを頼んでくれた。ズッコケ三人組ではバーなんか洒落た場所には行かないし、デートなんかでも一応は警戒してセーブして飲んでいる。真辺に勧められ八尾は初めて美味しいと思える酒に出会えたので、嬉しくて出されるままに飲んだ。カルーアミルク、シャンティガフ、一度カシスオレンジを挟んで、赤のサングリア。知らない横文字にふわふわ浮かされながら、話をしたり、うなずいたり。こんなに楽しいのは初めてだと八尾は感動していた。 「祐飛クン、D学園なの? 俺もだよ」 「え、何年?」 「経済の三年」 「タメだ。俺保健学科」 「うそだ。こんなに綺麗なひと知らないわけないじゃん」 「あはは、上手だよね」 「マジだって」  次で何杯目だと数えるのをやめてから、何分経っただろうか。口を動かすのも億劫になったところで記憶は途切れている。気付くとさきほどまでのバーではなく知らない部屋のベッドで寝ていた。飛び起きると頭がひどく痛んで、額を押さえて蹲った。 「ね、次フロ…… 大丈夫?」 「あ、だいじょうぶ……」 「フロいいよ」 「あの、ちょっと、かえっ」 「バカ言うなって。あんなガバガバ飲んどいてさ」 とけるような笑顔、が何故かとてつもなく高圧的だった。八尾は酔いのせいか真っ青になって「はい」とうなずいた。うなずくしかなかった。  何を隠そう、百戦錬磨の八尾もベッドの上での経験は無い。これまでの相手にもそういったことは許して来なかったのは、初体験は本気で愛した人でなければいけないと、彼が信じてやまなかったからだ。彼からすれば童貞も処女も等しく尊いもので、この年齢になるまで大事に取っておいたのも、酔いの勢いでホテルに連れ込むような狼相手に散らすために守り抜いてきたのではない。八尾は促されるままにシャワールームに向かいながら、服の裾にスマホを隠して持ち込んだ。 『八尾? レポート終わったのか?』 「瀬上助けて、犯される」 『おお、おちけつ』 コックをひねり、シャワーで音をかき消しながら瀬上に電話をかけた。流石情報屋といったところか、瀬上はこういう状況にも動揺しなかったので、八尾も少し安心して話すことができた。 『とにかく時間を稼げよ。この際裸くらい見られたっていいだろ』 「見せたらおっぱじまるだろ!」 『俺の情報によると、そのホテルのシャワールームはガラス張りのはずだ』 「お前キモイよ」 『切るぞ』 「分かった。今のは俺が悪かった」 『カーテン開けて見せつけてやれ。あっちも手練れなら焦らしプレイも楽しめるクチだろ』 「わ、分かった」 八尾は呼吸を落ち着け、電話を繋いだまま衣服を脱いでそこにスマホを隠した。できるだけ湯気を出した状態でカーテンを開け、そそくさとシャワールームへ戻ると、案の定真辺は欲情した様子でベッドから八尾を凝視していた。  八尾は微笑みを意識した。そして熱湯のようなシャワーに当たりながら右足からとてつもなくゆっくりと洗い始める。ちらりと横目で見る真辺の息子が元気になっており、八尾は内心叫んだ。生娘のごとく叫んだ。しかしそこは百戦錬磨の矜持がある。努めて妖艶に、美しさを意識して。時に目配せをしながら、時に「自分は何をしているんだろう」という賢者の精神に至りながら。三分くらいかけて右足を洗い終え、左足、腹から胸へと、一時間は稼いでやるという気概を保持しながら公開プレイに挑んだ。心の中では神様(瀬上)に両手を合わせ続けていた。 「ねぇ、焦らすのもいい加減にしてよ」 ああ、とうとうその時が来てしまったと八尾は涙を流した。シャワーに流されていく涙と共に、走馬灯のようなものが頭の中を滑り落ちていく。八尾が唇をかみしめながら頭の中の両親に平謝りしていると、真辺は立ち上がり、ゆっくりとシャワールームへと歩いて来る。 八尾は覚悟を決め、目を閉じた。時間稼ぎもこれまで。自業自得なのだ、甘んじて罰を受けようと思った。しかし、幸せなはずの初めての体験を罰だと形容しなければいけないことを悲しく思った。シャワーのコックを捻る。湯が止まる。新しい涙が頬を伝った。その時だった。  部屋のドアベルが鳴り、立て続けに何度も乱暴にノックされる。真辺は一瞬不機嫌な顔になり、踵を返しドアの方へ向かった。八尾は助けが来たのだと直感し、忘れていた恐怖心を思い出してカーテンを閉じた。もう大丈夫だと思うと膝が笑う。脱ぎ捨てた服をかき集めるようにして抱くと、カーテンの向こうから真辺の怒号が聞こえた。直視できない。八尾はシャワールームの隅っこに蹲った。再び真辺の声、何かが倒れる音。低い衝撃音、何かもっと大きなものが倒れる音、再び衝撃音。そして静寂。うるさい心臓を押さえつけながら動けないでいると、シャワーカーテンが勢いよく開かれた。  そこには、こめかみから血を流した佐伯が立っていた。眼鏡はしておらず、彼の背後には半裸の真辺が倒れている。 安心した八尾が抱き着く前に、佐伯は八尾の顔を掴み無理やり上に向かせた。彼の眼は据わっている。眼鏡をしていない佐伯は驚くほど獰猛な目つきをしていて、いつものような実直さは鳴りを潜めている。ギラギラとして、熱く、強かに。 「ゆうひ」 いつもと違う。いつもはそんな呼び方しない。八尾は声を出せなかった。視線を逸らすこともできない。時間が止まってしまったようだ。真辺のことも、電話口で呼びかけてくる瀬上の声も、どこか違う世界のことのように感じられる。 「ゆうひ、危ないことはするなって俺言わなかった?」 「えっと、それは」 「運命とか、バカじゃないの。……こんなカッコさせられて」 「でも」 「俺殴られちゃったんだけど、言うことそれで合ってる?」 「あ…… ごめん、なさい」 そして佐伯はふっと笑った。いつもの諦めたような控え目な笑顔ではなく、口の端っこをゆがませるような、不適な笑い方。 「いいよ、べつに」  佐伯はそのまま八尾の唇に自分のものを重ね、ぽかんと開いた隙間に舌を滑り込ませた。なされるがまま、八尾は自分のベロと佐伯のベロがくっつき、擦れ合うのを感じた。あ、ファーストキス。と、大切に守っていたものが崩れていくのを、まるで傍観しているようだった。さっきのような絶望やら悲しみやらが襲ってくると思いきや、そんなもの考える前に押し寄せてくるものがある。八尾はくぐもった声で喘いだ。混乱していた頭が、そのまま浮かされていく。ザラザラとしたものに擽られ、唇で吸われ、生ぬるい感覚に酔う。きもちいい。涙が零れる。さっきとはまるで違う種類の涙だ。 「ん、ん、ぅ」 「……はい、ごちそうさま。帰ろ」 「えっ? お、おう」 バスタオルで頭から拭かれ、服を着せられる。八尾はされるがままになっていたが、佐伯がトランクスに手を伸ばしたときは流石に慌て、それからは自分で服を着た。  それからは特に会話もなく、佐伯が八尾をアパートまで送り、その日は解散となった。瀬上には既に佐伯から連絡がいったらしく、家に帰された八尾は一人になった瞬間玄関でずるずると座り込んだ。 「なんだ、あれ」 八尾は思い出した。少し肌寒い夜道で黙ったまま自分の手を引く、少し高い位置にある佐伯の横顔を。真辺を伸して自分を助けに来た姿を。触れ合った舌の感覚を。 「どうなってんだ、俺」 気が付くと八尾の八尾が元気になっていて、彼はまた泣きそうになりながら体を引きずるようにベッドに入った。もちろん眠れるはずもなかったが、慰めてしまえば何かを失ってしまう気がして、べそをかきながら一晩中布団にくるまっているしかできなかった。

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