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第2話

「オッス。ブスだな~、八尾」 瀬上の茶化しに反応することもできず、八尾はぶすくれたまま顔を背けた。 「命の恩人に言うことがあるよな?」 「別に命は危なくなかったし」 「ケツの恩人か」 「黙れよ……」 何も知らないくせにと泣きわめきたかったが、八尾は一応これでも三人の友情を大切にしたいタイプだ。変なことを言って気まずくなり、一緒に居られなくなるのは嫌だった。 「はよ」 「おう、佐伯。お前もひどい顔してんなぁ」 八尾がハッとして顔を上げると、佐伯も立派なクマをこさえていた。眼鏡は予備のものなのかいつもと色が違った。額の右側にはガーゼが貼ってあり、八尾は一瞬悲しい顔をしたが、慌ててプイと顔を背けた。彼は断りも無しにファーストキスを奪われたことを怒っているのだ。 「八尾、これ」 そんな八尾の座っている机に、佐伯は紙の束を投げた。レポートだ。それも十枚きちんと完成している。 「ちゃんと字の形とか似せたから」 「嘘だろ佐伯!」 「お願いだ、八尾なんか留年しろって言ってくれ!」 「マジで八尾! 慎め!」 佐伯に対する周囲の同情は八尾への怒りに変換され降り注ぐ。周りから悲鳴が上がる中、佐伯は机に突っ伏して眠りだしてしまった。八尾は渡されたレポートを握り、黙るしかできなかった。怒りはくすぶりのまま消えてしまって、何も考えられず佐伯と同じように突っ伏し、眠りだした。考えることを放棄した八尾を横目で見て、瀬上はため息を吐いた。  昨夜、八尾が危ないと電話を入れたときの佐伯の声色は冷え切っていて、普段の様子とまるで違っていた。佐伯は決して怒ることがない。堅実で思慮深く、穏やかな性格をしている。瀬上はそう認識していた。だからこそ友人とはいえどワガママ放題の八尾がどうこうされようと、冷静な判断を下せるものだと思い、頼ったのだ。  八尾はモテる、確かにそうだ。ただ瀬上が一年の頃から口を酸っぱくして「驕るなバカ」と彼に言い続けているのには理由がある。八尾よりも圧倒的にモテるであろう男を瀬上が知っているからだ。もう隠す必要もない、佐伯のことだ。 瀬上と佐伯は高校からの付き合いだが、その頃から、他の色男たちとも一線を画す人気を博してきた歴史を瀬上は傍で目にしてきた。佐伯を取り合い女子たちは掴み合いの喧嘩を始め、男たちは須らくケツを振った。遊んでいた時期の佐伯は、そりゃあもうひどかった。毎日とっかえひっかえしては、いろんな人を泣かせていた。今の八尾などとは比べ物にならない。もっと冷徹で、容赦がなかった。  そんな佐伯のいわゆる遊びも、大学に入ると同時にピタリと止まった。ピアスも染髪もしなくなり、コンタクトから眼鏡に変えた。瀬上はその変化を訝しく思いながらも、薄々は気付いている。佐伯は性だ愛だのアレコレに、ほとほと疲れてしまったのだと。高校時代、佐伯には瀬上以外に友人と呼べる友人は居なかった。その点、八尾は憎まれ口を吐かれるが周りから愛される性質を持っている。佐伯もそういうところに惹かれ、物分かりの良い友人として八尾に尽くしてやり、穏やかな友情を楽しんでいるというのが瀬上のこれまでの見解だった。  しかし、それならば八尾の貞操の危機に佐伯が動揺する理由はない。八尾は処女を奪われたくらいでへこたれる男ではないのは、周知の事実なのだから。瀬上のこめかみを嫌な汗が伝った。しかしここは漢・瀬上健一、面倒くさいと嘆く前にキマシタワーを建設しなければオタクが廃るというものだ。瀬上は思い切り立ち上がり、感嘆の声を漏した。 「全く、ホモは最高だぜ!」 そして次の瞬間ぶっ倒れた。考えすぎてショートを起こしたのだ。 「え? みんな、瀬上が倒れちゃったよー」 「遺言もっと他にあったろ」 「ストレッチャーあったか?」 「気道確保、回復体位」 「血圧計持ってこいよ」 「この前投げて遊んでたら壊しちゃった」 「脈とれー」 「意識は? JCS、JCS」 「待って、教科書何ページ?」 瀬上は迷える医療者の卵たちにもみくちゃにされながら医務室へと運ばれた。佐伯も八尾もその騒動にも気づかず、眠り続けていた。  八尾が目を覚ますと、既に日は南中高度にある。周囲に人はまばらで、時計を見ると昼休憩の時間らしかった。  瀬上はおらず、佐伯は未だ隣の机に突っ伏して眠っている。講義室の入り口の方にたむろしていた連中が、起き抜けの八尾に声をかけてきた。 「八尾、俺たちメシ行くけど来るかー?」 「瀬上は?」 「医務室。来ないなら佐伯と戸締り頼みたいんだけど」 「午後休だっけ」 「そうそう。で、どうする? 叩き起こして連れてく?」 「……いや、いい。今日はパス」 「りょ。後頼んだぞ」 「おう、サンキュ」 講義室には二人だけになった。何となく佐伯を起こすのが忍びないが、腹が音を立てて空腹を訴えるので、彼は近くの売店まで適当な昼食を買いに行くことにした。五分とかからない位置にあるので、財布とスマホだけ持って講義室を後にした。  売店までの道中、八尾はまたぼんやり昨夜のことを思い出していた。睡眠をとった頭はだいぶスッキリしており、思い出しただけで頭をかきむしるようなことはなくなった。ヘアセットが崩れるしね、とちょっとした余裕まで出てきている。  八尾には佐伯という人間がよく分からなくなっていた。これまでの素朴で心優しい佐伯は表向きだったのだろうかとも考えたが、それを判断するには彼の持っている情報があまりにも少ない。楽観的かもしれないが、と前置きをしながら、八尾は佐伯が自分に対し悪意を持っていないのだろうと踏んだ。そうでなければわざわざ殴られてまで助けに来たり、流れでキスをしたりなんかしない。それならきちんとお礼を言って、ファーストキスを奪われて悲しかった旨を伝えるのが筋だろうと彼は気を取り直した。  八尾が売店でパンやらコーヒーやらを買っていると、誰かが後ろから思い切り肩を掴んできた。彼はその拍子に抱えていたものをすべて落としてしまい、びっくりして手の主の方を見た。手の主は顔面に何枚もの絆創膏を貼っていて、元の好青年の出で立ちは鳴りを潜めていた。しかしその明るい髪色と背格好から、八尾は一瞬で彼が誰だか察することができた。 「うわー! 出た!」 「待って待って、落ち着いて」 「おばちゃん、殺される!」 「コラ! ちっちゃい子いじめたらダメよ!」 「ちっちゃくないやい!」 「いじめてないって!」 何とか八尾を落ち着けた真辺は、売店の隅まで八尾を連れて行き、あろうことか深々と頭を下げた。 「ごめん。まさかコタロー君の連れだとは思わなくて」 「コタロー? 佐伯のこと?」 「そう。あの時は高校の頃と雰囲気違ったから分からなくてさ」 「何、佐伯ってそんな有名人なの? ヤクザとか?」 「は? 知らないの?」 「知らん。教えろ」 清々しい八尾の即答に真辺は失笑した。そして少し考えたのち、彼特有の人好きのする笑みをこぼしたが、八尾にはそれがとてつもなく胡散臭く見えた。酒と照明の力ってすごいんだなと、彼は自分の中に教訓として刻んだ。 「いいけど、その代わりコタロー君に目ェつけないでって言ってよ」 「分かった、契約だ。ハンコはあるか?」 「ねえよ」 「俺も持ってない」 「バーカ」 口約束だが仕方ないと割り切り、連絡先を交換するためにスマホを取り出した八尾の手首が掴まれる。真辺は真っ青になりスマホを取り落とし、売店のおばちゃんは歓声を上げた。 眠っていたはずの佐伯がそこに立っていた。寝起きで不機嫌なのか、怒ったような目つきで真辺を睨んでいる。  八尾はがっちりと手首を掴む佐伯の指の感触に、顔を真っ赤にした。どうにかその拘束から逃れようと腕をねじるが、体格差と明らかな筋肉量の違いのため、抵抗もむなしく、佐伯が八尾の動揺を諌めるように指同士を深く絡めることまで許してしまう。そうなるともう八尾に何かすることはできない。少しかさついた、これまで触れたことのない友人の指先の感触に、耳の横で弾けるようなむずがゆい熱を真正面から味わうことを余儀なくされるのだ。 「まだ何か用」 佐伯の語調は普段と変わらない。もとより柔らかい話し方をする男ではなかったが、低い声で紡がれた短い言葉は真辺を威嚇するに十分だった。 「すみません、すみません。謝りたかっただけなんです!」  真辺は必死に弁解し、頭を下げた。  八尾は身を固くしながらも、ひどく悲しい気分になる。彼の心は今までにないほどときめいていて、それがどんな感情に由来するものなのか、彼自身分からないわけではない。ただ、目の前にいる自分の友人がまるで人が変わったような顔をするのを、嫌悪ばかりの声を誰かに吐き掛けるのを、怒れるでもなく、絶望できるでもなく、佐伯を愛しいと思い始めているからこそ、悲しいと思った。少なからず自分のせいで彼が怒っていることが、悲しかった。 「おい、待てって」 「八尾。ちょっと黙ってて」 「佐伯」 「いいから」 「虎太郎!」 名前を呼ばれ、佐伯は初めて八尾の表情がぐしゃぐしゃに崩れているのを見た。はっとして絡めていた指を離そうとするが、今度は八尾の細い手が佐伯の右手を捕まえる。佐伯はいつも通り冷静だった。まさか、真辺を殴ろうなんて考えてもいなかった。だが、自身の態度が八尾にそこまで連想させたことを佐伯は、また内省した。 「行こう。もう、行こう」 焦った様子でそうまくしたてる八尾に、佐伯は何かが腹の奥で駆り立てられるのを感じた。手を引かれるまま、真辺も、落下した総菜パンもそのままにして売店を後にする。佐伯は速足で歩く八尾の後頭部をじっと見ていた。  元居た講義室まで来ると、八尾は佐伯の手を放して立ち尽くした。佐伯は自分に背を向け、顔を下に向ける八尾の肩に触れ、拒否されなかったことを理由にそれを自分の方へ引き寄せた。八尾の体は何の抵抗もなく佐伯の腕の中に収まる。抱きしめた彼の体が驚くほど熱かったのは、抱擁に慣れていないからなのか、もしかしたら自分に怒っているからなのか、と、男にしては幾分か華奢な腕のかたちを確かめながら佐伯は考えた。 「俺、お前のこと、好きなのかも」 八尾は涙が混じっているようなしゃがれた声を絞り出した。普段の向上心ばかりの女王様はどこへやら、外面も、男をもてあそびたいという矜持もそっちのけで、その心根の素直さばかりを武器に告白した。困り、佐伯に助けを求めるいつもの流れと似ている。 「ごめん」 八尾の頼みを佐伯が断るのは、これが初めてだった。

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