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第3話
目を覚まし、医務室のナースと何故か驚くほど波長の合った瀬上は授業そっちのけでマシンガントークを続けていた。議題はもちろん、友人同士のあれこれだった。
「佐伯っちは八尾ちゃんと付き合いたいんでしょ?」
若いナースは業務そっちのけで瀬上の空いた湯呑みに新しく緑茶を注ぐ。ドクターもそれを咎めるでもなく、戸棚を漁って茶菓子を持ってきた。
「関係が変わるのが嫌なんですよ。佐伯は友達がいないから」
「まさかぁ。そんなにモテるんなら、友達も多いでしょ」
「いやいや、一介にそうも言い切れないんだよ」
老齢のドクターは瀬上に饅頭の包みを手渡しながら言った。冬が近いというのに日差しはぽかぽかと温かく、ドクターは眩しそうに目を瞬かせながら呟いた。
「いろんなものを見てきたんだろう、佐伯君は。だから八尾君の素直さが身に染みて、強く憧れてしまったんだと思うよ」
換気のために開け放した窓から風が吹き込み、診療記録がぱらぱらと部屋の中を舞う。ナースは立ち上がり、それらを拾い集めてひとところに置き、その上に重しを載せた。
「どうなりますかね、二人は」
瀬上の問いに答えられる者はおらず、疑問は疑問のまま宙に消えた。瀬上は三人としての関係が崩れることを危惧したが、それ以上に、佐伯の数少ない友人として、彼が何か大きなものに悩み、冷静な顔をして自分に正直になれないことを恐れた。そして、ぼんやり高校時代のことを思い出した。
「瀬上、女を紹介しようか」
佐伯は少し笑いながら、雑誌を読みふけっていた瀬上の机の前に立ってそう言った。放課後の教室で、窓からは校門には待ち構えるような女子の群れを見ることができた。
「いいよ、そんなのいらない」
瀬上は何故だか佐伯が可哀相に思えて首を横に振った。佐伯は口をつぐんだ。
「それより、今週のジャンプ読んだか?」
瀬上の言葉に、佐伯はゆっくりと笑った。「読んだよ」と佐伯が小声で言い、それから二人は友達になった。
佐伯は相変わらずそこかしこから引っ張りだこだったが、瀬上は佐伯の遊びに一喜一憂することもなく、去る者追わず来るもの拒まずで、なんだかんだ一緒に居た。すると高校三年生の春に瀬上が志望大学を決めると、佐伯は迷わず同じ大学を目指すと言った。瀬上は「ああ、そうか」と思った。
瀬上が荷物を取りに講義室に戻ると、そこには右頬にもみじのような痣をこさえた佐伯がいた。すべて想像通りだったので、瀬上はおかしくて笑いながら彼に近づいた。
「良い張り手だった。タッパがあったら良い相撲取りになってたと思う」
佐伯はぼんやりそう言った。視線は窓の外に注がれている。
「小兵ならいけるぞ、今から太らすか」
「ダメ」
「だよなあ」
瀬上がくつくつ笑い、佐伯は少し眉根を寄せた。
「お前はいつもやるべきことを分かってるだろ」
「は?」
瀬上はスマホの画面を見ながらにやにやしてそう言う。佐伯は意図が分からず珍しく怪訝な顔をした。
「さあ、聞いてみろ。目には目を、情報には情報を。等価交換だ」
友人の悪い顔に気付き、佐伯は大きく溜息を吐き出した。誰にも言わない本心なのだとした
ら、無理やり引きずり出すしかない。瀬上にはそれができるのだ。
「…………セガミよセガミ」
「気に入ってたんだ、それ」
「うるさい」
「それで、何を聞く?」
情報は自ずと彼のところへ集まってくる。メッセージアプリには数十秒刻みで報告が堆積していっている。今こそ有効に利用すべき時。引き出したい情報と与えたい情報とが精査されていき、瀬上はこんな形で物事の道筋が見えるとは、と、自分自身に感心した。
「あいつ、今度は何をやらかそうとしてる」
あくどい顔で小太りのキューピッドは笑う。
「もうお前にはほとほと愛想尽きたとよ」
差し出された画面に佐伯は額を押さえた。その画面には簡潔に『八尾がラブホの前男と歩いてるよ』との文字が映っていた。
「お前の番だぞ」
「何が聞きたいの」
「本音だよ」
瀬上の予測は正しかった。佐伯は高校までに派手に遊び、それに疲れ切ってしまっていた。一つ違うのは、疲れたからやめるというプロセスに至るまでの莫大な苦しみを瀬上は知らないということだ。
一度繋いだ縁はなかなか切れない。男女問わず痴情のもつれというものは大抵が汚く煩わしい。派手に遊んできた分の報いというものを佐伯は味わってきた。そうでなければ高校卒業に至るまで利害関係のない友人が瀬上一人だけにはならなかったはずだ。彼は懲りて、人を簡単に信じられなくなり、自分の周囲に集まって利益を求める誰も彼をも遠ざけた。切れ長の目元を黒縁眼鏡で隠し、口数も極端に減らした。
そんな時に八尾は現れた。憔悴し、すれてしまった佐伯にとって八尾はあまりにも眩しく、虫が電灯に吸い寄せられるようにふらふらとした心で彼を頼った。八尾は周囲から愛される。それは彼の持ちうる特性で、自分のようにおこぼれ欲しさに人が集まるのではなく、純粋に彼を大切に思う気持ちを持った人間ばかりが集まることを佐伯は理解した。
彼は当然のように八尾が欲しくなった。ただ、これまでのように欲望のおもむくままに行動すると何が起こるのか、学ばない彼ではなかった。八尾の隣にいれば平穏な日常が手に入る。お人好しで真面目なだけの優しい男でいられる。佐伯はそれを手放したくない。手放したくなかった。
あの夜はどうかしていた。八尾が裸でいるのを見た瞬間頭に血が上り、真辺を殴らずにはいられなくなった。キスをしたのも、喧嘩をして興奮していたからだ。そこまで話すと、佐伯は顔を上げた。
「本当は?」
瀬上の静かな声が問う。彼が求めるのは本音だけだ。嘘を吐いてはいけない。どんなに薄暗い感情でも、醜い劣情でも、包み隠してはいけない。
「俺以外のモノになるなんて、許さない」
佐伯はか細い声で言った。
「それでいいんだ!」
瀬上は盛大に叫び、佐伯の中にぎらついた獣が戻ったことを喜んだ。
自己中心的に、自分を世界の軸にして、佐伯自身が一度は嫌ったその姿勢こそが彼の良さだと瀬上は知っていた。
心根の優しさも、誰かに焦がれる横顔も、冷めた視線で物事を見るのも、すべてが彼の真実だ。隠してはいけない。隠しては生きていけない。
素直な八尾を佐伯が好きになったのは、彼自身がその明け透けな心を求めたからだ。そして、そんな佐伯を八尾が好きになったのは、それでも隠せなかった底の深い愛情に触れてしまったからだ。こんなに幸せなことはないと、瀬上は佐伯の背中を押した。
佐伯は弾かれたように走り出す。息を吐く間もなく走り、足の回転を速め、大通りの人混みの中でその姿を探す。既にホテルに入ってしまったのかと考えては、焦ってあちこちを見渡した。
「佐伯?」
ふと背後から声が掛かる。反射的に振り返り、手を伸ばした。目を真っ赤に腫らした八尾はきょとんとした顔でされるがまま抱きしめられた。
「何してたの、誰と居たの」
「関係ないじゃん」
「ある。ウソ、あれ嘘だから」
「はぁ?」
「俺の方が先に、お前のこと好きだった」
「なんだよ、バカ。クソメガネ」
肩口が涙で濡れていくのを佐伯は甘んじて受け入れた。欲しかった体温、香水の匂い。二人はいつまでもそうして、言葉はなく。触れ合った場所からお互いの感情を確かめ続けていた。
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