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カースト最下位落ちの男と生徒会副会長。

 一番ケ瀬の部屋の中は俺が出ていったときとそう変わらない。 「風呂、入るか」という一番ケ瀬に尋ねられ、俺はその言葉に甘えることにした。  全身を何度も洗う。擦りすぎて皮膚が赤くなってもまだ指の感触が残ってるようで、熱湯のシャワーを頭から浴びて無理矢理感覚を麻痺させた。  ……全身ヒリヒリする。  風呂から上がり、一番ケ瀬が用意してくれた着替えに袖を通す。大きく感じたが、着られたらなんでもよかった。  居間へと戻れば、一番ケ瀬が迎えてくれた。  俺を見てふと微笑んだ一番ケ瀬は「十鳥」と俺を呼ぶ。 「十鳥、おいで」 「おいでって、なんだよ」 「髪乾かしてやる」 「……そこまでしなくていい」 「俺がしたいんだよ。ほら、いいだろ?」  なにがいいのだ、と言いかけたが「おいで」ともう一度手招きされると自然と足が一番ケ瀬の方へと向く。歩み寄れば、頭から被っていた俺のタオルを手にした一番ケ瀬はそのまま丁寧に髪を拭いていった。  結局そのまま一番ケ瀬に言われるがままソファーまで誘導される。股を開いて座る一番ケ瀬のその間に腰を掛け、そのまま一番ケ瀬に髪を触られるのだ。特別サラサラの髪でも、長いわけでもない。触ったって楽しくない、手入れもろくにしてない硬い野郎の毛質だ。  それなのにドライヤーを手にした一番ケ瀬は俺の髪を丁寧に乾かしていくのだ。後頭部に感じる一番ケ瀬の視線や、背後の一番ケ瀬の存在のせいか落ち着かない。それでも、温かい熱気に当てられながら段々気持ちよくなっていくのだからおかしな話だ。 「今日は悪かった」  うとうとしかけていたときだった。ふと、後頭部に落ちてくる一番ケ瀬の声に目を開ける。  なんに対しての謝罪か、わざわざ口にしなくとも分かった。俺が一番ケ瀬から逃げ出した、事の発端だ。 「……それ、今言うか?」 「言わないとなと思ってさ。ちゃんと。……俺も、他のやつらと同じことしてたんだとしたら、そりゃ十鳥も部屋を出るわけだってな」 「もうあんなことしないから、安心してくれ」一番ケ瀬、と喉元まで出かけた声を飲み込んだ。  思わず振り返れば、思いの外近い位置にあった一番ケ瀬の顔に息を飲む。目が合えば、一番ケ瀬は柔らかく微笑んだ。その中にはなんとなく同情のような、自己嫌悪のような、よくわからない複雑な色が滲んでいる。  俺は何かを言おうと思ったが、その先の言葉が出ることはなかった。そんな俺の頭を撫で、髪を乾かし始める一番ケ瀬。  俺は「そうか」とだけ答え、そのまま前を向く。その言葉が一番ケ瀬の耳に届いたのかはわからない。  俺はお前の方がましだった。  ――他のやつらと同じじゃない。  そう喉の先まで出た言葉は、とうとう口に出すことはできなかった。  ◆ ◆ ◆  一番ケ瀬が、俺になにがあったのか無理に聞き出すようなことはしなかった。  なにをされたかなど誰に話す気にもなれなくて、それでも八雲のことはやはり気がかりだった。  避けることもできた。別に俺一人だけの問題ならばこのまま墓場まで持っていっても構わないと思っていた。  けれど、あの八雲の言葉からしてヘイトが向けられてるのは俺ではない。 「なあ、一番ケ瀬」 「ん?」 「――お前、生徒会でなにかあったのか?」  そう一番ケ瀬に向き直る。  髪を乾かし終え、ドライヤーを片付けるついでに飲み物を用意していた一番ケ瀬はグラスに注いでいたボトルを手にしたままこちらを見た。その目に、一瞬胸の奥がざわつく。 「生徒会のやつらになにかされたのか」  明らかに先程よりもワントーン落ちたその声。先程までの優しくて柔らかいそれとは違う。 「……違う、ただ聞いただけだ」  嘘を吐く気はなかったのに、あまりの気迫に押されて咄嗟に出た言葉は誤魔化すものだった。  そんな俺の言葉に安心するわけでもなく、ただじっとこちらを見てくる一番ケ瀬の視線がひたすら痛かった。 「なにかって、あれ以来なにもないけど」 『あれ』とは七搦とのことだろう。 「そうか」それならよかった、とほっとする。そのまま会話を終わらせようと思ったが、トレーに二人分のグラスを乗せたままやってきた一番ケ瀬はそれらを目の前のテーブルに置き、そのまま俺の隣に座る。そして、まるで逃さないというかのように俺の手を掴んでくるのだ。 「待てよ、十鳥。今のどういう意味だよ」 「別に、ただ聞いただけだ」 「そんな感じじゃなかっただろ。お前、まさか――俺がいないところで他のやつらにまた絡まれてるんじゃないだろうな」  先程までなにも聞かなかったのに、生徒会のことについて触れた途端顔色を変えてくる一番ケ瀬にただ純粋に戸惑った。  俺のことを心配してる、というよりもその言葉の裏側に別の意思を感じてしまったからだ。――まるで、なにかを恐れているような。 「絡まれる……ってか、まあ、何度か会った」 「誰と」 「七搦先輩と、書記の人」  八雲先輩と呼ぶ気にもなれなかった。二人の名前を口に出したとき、明らかに一番ケ瀬の目の色が変わった。俺でなければきっと気付かなかっただろう。浮かんだのは――怒りだ。  掴まれたままの手首に一番ケ瀬の指が食い込み、「痛えよ」と声をあげれば、一番ケ瀬はハッとし「悪い」と俺から手を離す。 「……なにか嫌なこと言われなかったか」 「言われた。……お前のことも、言われた」  そう口にした瞬間、「なんて」と一番ケ瀬は俺を見る。何故だろうか、こんな風に一番ケ瀬を怖いと思うことはなかった。 「『なんでお前なんだろうな』って。……それだけだ」  一番ケ瀬の視線が痛い。ここで目を逸したら負けのような気がして、俺はその目を見詰め返した。  そして暫く見つめ合った俺たちだったが、やがて一番ケ瀬が先に折れたのだ。 「分かった」と、ただ一言。なにが分かったのか俺には分からなかった。一番ケ瀬、ともう一度名前を呼ぼうとした時一番ケ瀬は笑った。 「次、他の役員たちとなにかあったら俺を呼べ」 「なあ、八雲。お前質問に答えろよ」 「俺が生徒会でなにかあったかって話だろ」  分かっててはぐらかしたのか。一番ケ瀬は形だけの笑みを浮かべたまま応える。 「あったよ、色々な」 「色々ってなんだよ」 「色々は色々だ。少なくとも、他のやつらにとやかく言われるような真似はしてない」  お前、人にはごちゃごちゃ聞くくせに自分ははぐらかすつもりなのか。  そう一番ケ瀬を見上げれば、そのままわしわしと頭を撫でられた。 「っ、おい」 「お前は心配しなくていい」 「……、……っ」  なんなんだよ、それ。  お前は。また俺を蚊帳の外にするのか。  ……一人だけ背負うのか。 「そんな顔するなよ、十鳥」 「……寝る」 「ああ。一人でベッド使っていいぞ」 「お前は」 「俺は、もう少ししてから寝るかな」  そうじゃなくて、ベッド。  そう見つめるが、一番ケ瀬は「俺も風呂に入るかな」と伸びをする。俺から一緒に寝ようなどと言い出すのもおかしな気がして、それ以上言及することはしなかった。  この学園に入学してからずっと周りに馴染めなかった俺にとって、一番ケ瀬の存在は大きなものだった。  最初こそは役職持ちのやつなんてと毛嫌いしていたところもあったが、それでも一番ケ瀬のことを知れば知るほど考え方が変っていたのも事実だ。  一軍の連中は家柄だとか容姿だとかそんな上っ面しか見てなくて、自分たちよりも階級が下の奴らのことなんか道端に転がっている石ころ程度にしか見ていないと思っていたが、そんな俺の一軍に対する偏見も払拭された。  ……まあ、実際は一番ケ瀬が中でも特殊だっただけなのだが。  だからこそ余計、今まで見たことなかった一番ケ瀬の顔を知ってこんなに戸惑っているのかもしれない。  一番ケ瀬のベッドを借りたおかげか、寝付きは悪かったが一度眠りにつけば朝までぐっすりと眠っていた。  はっと目を開けばベッドの傍に人の気配を感じる。顔を上げれば、そこには椅子に腰を掛けたまま俯いた一番ケ瀬がいた。  そこで、自分の左手が一番ケ瀬に握りしめられていることの気付く。 「……」  なんで手を握られているのかと驚いたが、それ以上に一番ケ瀬がずっとそばにいてくれていたということに胸の奥がむずむずした。  椅子に座ったまま眠るなんて、全然休まるわけなんてないのに。  恥よりも一番ケ瀬に対する罪悪感の方が勝り、いたたまれなくなった俺はなるべく一番ケ瀬を起こさないように気をつけながらもそっと手を離す。それから、そっとベッドを離れて一番ケ瀬をベッドへと寝かそうかと思ったが手を離した時点でぱちりと一番ケ瀬の目が開いた。 「ん……十鳥……?」  寝ぼけたような低く、掠れた声に名前を呼ばれる。  それからすぐ、離そうとしていた手をぎゅっと一番ケ瀬に握りしめられるのだ。その熱と力強さに昨夜のことを思い出してほんの少しだけ緊張した。  しかし、それも一瞬のことだ。 「悪い、起こしたか」 「ああ……いや。そうか、俺寝てたのか」  言いながら、くあ、と小さくあくびを漏らす一番ケ瀬。  眠たそうな一番ケ瀬を見て、「ずっとここにいてくれたのか」と尋ねれば一番ケ瀬は「ああ」と応えるのだ。 「え」 「……って答えられたらカッコつけれたんだけどな」 「なんだ、冗談かよ」  笑う一番ケ瀬に、寧ろ俺はほっとした。  というか、なんの冗談だよ。と一番ケ瀬をじとりと見上げれば、「はは、悪い悪い」と肩を揺らす。 「やっぱ、一人で休ませておいた方がいいんじゃないかって思ったんだけどさ……」  顔から笑みを消した一番ケ瀬は「なあ、十鳥」とやけに真面目なトーンで俺を呼んだ。真剣な表情に内心ぎくりとしながら、「なんだよ」と一番ケ瀬に答えれば、珍しく一番ケ瀬は言い淀んだ。「そのだな」と口ごもってはなかなか言い出さない一番ケ瀬に焦れ、「なに」ともう一度尋ねれば、先ほどまで右往左往していた一番ケ瀬の視線がこちらを向いた。  そして。 「お前、昨夜のこと覚えてるか?」 「……昨夜?」  昨夜、と言われて思い出したのは八雲たちとのことと、そのあと部屋の前で迎えてくれた一番ケ瀬とのことだった。  けれど、なんとなく一番ケ瀬の表情からそのことを言っているのではない気がして。  言葉に迷っていると、俺が答えるよりも先に「いや、覚えてないなら良いんだ」と一番ケ瀬が口を開く。 「待てよ、昨夜って……俺が寝たあとってことか?」 「いや、別に……」 「なんでそこで誤魔化すんだよ」  そこまであからさまな反応されると逆に気持ちが悪いってものだ。  そのまま逃げるように立ち上がろうとする一番ケ瀬の腕を掴み、「おい」と引き止める。 「今更、別に俺に気を遣わなくたっていいんだからな」 「……十鳥」 「俺、なんかお前に……したのか? 覚えてねえけど、それで、迷惑とか……」  掛けたんじゃないのか。  そう言いかけるよりも先に、「そんなことはない」と一番ケ瀬は食い気味に答えるのだ。  その大きな声に今度はこっちが驚く番だった。 「一番ケ瀬?」 「……迷惑とかじゃなくて、違うんだ。その、お前が魘されてたから……」 「魘されて……?」 「ああ、だから覚えてないなら別にいいって思ったんだ。……俺も、無理に思い出させたいわけじゃなかったし」  そうばつが悪そうに髪を掻き上げ、一番ケ瀬は息を吐く。なかなか眠れなかったことだけは覚えていたが、その夢の内容までは覚えていなかった。  けれど、その一番ケ瀬の言葉を聞いて合点がいった。  なるほど、だからか。 「……それで、手を握っててくれたのか?」  目を覚ましてからもずっと握られたままの手を思い出し、単刀直入に尋ねれば、一番ケ瀬は「嫌だったか?」と不安そうに尋ねてくる。  この男は本当に、こういうところが恐ろしいと思った。 「……嫌じゃ、ない」 「……っ、!」 「お陰で、ぐっすり眠れたみたいだし……」  ありがとな、と小さく付け足した言葉はちゃんと一番ケ瀬の耳に届いていたようだ。先程までのよそよそしい態度から、ほっと安堵したような顔をした一番ケ瀬は「そっか」と頬を緩める。  まただ。またあの感覚が腹の奥からこみ上げてくる。――なんだか、ムズムズする。 「取り敢えず、お前もちゃんと寝ろよ。……俺はもう起きるから」 「ほら」とベッドから起き上がり、代わりに一番ケ瀬をベッドに寝かせようと引っ張れば、逆に一番ケ瀬に腕を掴まれた。  なんだ、と視線をあげれば、一番ケ瀬がこちらをじっと見つめていることに気付く。なんだか熱っぽい視線に思わず「なんだよ」と口を開けば、一番ケ瀬はぱっと手を離した。 「……いや、なんでもない」 「なんでもないことはないだろ」 「一瞬、魔が差しそうになっただけだよ」  どういう意味だ、と言い掛けて、理解する。  それから顔が熱くなった。慌てて一番ケ瀬から手を離し、そのまま後退る。そんな俺を見て、一番ケ瀬は「なにもしない」と両手を上げた。 「お前が変なこと言うから」 「確かにな、俺が悪かったよ今のは。……お前があまりにも可愛い真似するから」 「はあ?」  思わずでかい声が出てしまう。そんなこと言ってる場合か、さっさと寝ろよ、と俺はそのまま一番ケ瀬にシーツを被せる。 「おい、十鳥。冗談……」 「冗談に聞こえねえよ」 「まあ、だよな」  認めるのかよ、と思いながらも嫌悪感よりも憎めない気持ちのが強いことに気付く。  一番ケ瀬が俺のことを好意的に思ってくれてるのは前々から知ってたし、寧ろその好意に甘えてきたのはこちらの方なのでなにも言えないが。  嫌というよりは、どう向き合うべきか分からない、が今の自分の感情に近いだろう。 「……」 「ん? どうした、十鳥」  本当は部屋をさっさと出ていった方がいいのだろう。けど、ずっと一晩見守ってくれていた一番ケ瀬をこのまま放置するのも気が引けて、俺はベッドから離れられずにいた。  そんな俺に、シーツから顔を出した一番ケ瀬がこちらを見上げる。 「……ぉ、俺も」 「ん?」 「……お前が眠るまで、側にいてやる」  そう椅子に座り、そのまま膝を抱える。  なんだかんだ言って一番ケ瀬から離れ難く思ってしまっているのは俺も同じだった。  一番ケ瀬の好意に甘えたい、なんて認めたくはないが、ほんの少しだけでもいいからその好意に応えたいという気持ちがあった。  かといって一番ケ瀬のように素直に自分の気持ちを伝えることは慣れていないし、どうすりゃいいのかもわからない。脳から捻り出した結果がこれだ。 「だから、寝ろ」  そう改めてちゃんと一番ケ瀬のシーツを直してやろうと手を伸ばした時、一番ケ瀬に腕を掴まれる。 「……っ、おい」 「なにそれ、なあ……十鳥お前それ、可愛すぎだろ」 「っお、お前のしてくれたのを……返してるだけだから、変な意味は……」  ないからな、と言えば、「わかってる」と一番ケ瀬に身体を抱き締められ、そのままベッドに引っ張られた。 「い、一番ケ瀬……待って……」 「大丈夫、なにもしないから」 「……っ、……」  耳元で囁かれる一番ケ瀬の声に、抱きしめられる体に、昨日のことが蘇る。一番ケ瀬の匂いに、次第に鼓動が落ち着いていくのだ。そして、先程までの恐ろしいほどの緊張が徐々に緩み、呼吸はなだらかになる。「大丈夫」と繰り返される言葉にとくんとくんと鼓動や緩やかに、大きく響いて混ざり合っていくのだ。  心臓が、どうにかなってしまいそうだった。 「――もう少し、このままでいてくれないか」  十鳥、と囁かれ、一番ケ瀬の腕の中、俺は小さくこくりと頷き返すのが精一杯だった。

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