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第1話

 何と言うこともない小さな出来事の積み重ねが、幸せなのだと今なら分かる。若い頃思っていた理想の自分とは程遠いけれど、それでも、恋人と二人、自分たちの速度で過ごす身の丈に合った毎日は心地がよかった。そして、それが永遠に続くものだと思っていた。  そう、互いに年老いて、老後と呼ばれる時間をともに過ごすくらい先まで、共に居られると、少し前までは思っていたのに。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  目が覚めて見慣れた天井が目に入ってきた時、今見ていた景色が夢の中の出来事なのだと分かって、半分落胆し半分ほっとした。夢の中で私は、小春日和に恋人の佐々木渉と二人並んで芝生に腰を下ろして空を見上げていた。しんと冷えた空気を溶かすような暖かな日差しを浴びて、微笑む渉を眺めながら幸せを噛み締めていた。すると、渉が何か言ったようだった。上手く聞き取れなくて何度か聞き返すが、渉ははっきりとは言わないまま、立ち上がって何処かに歩いて行ってしまう。その後ろ姿が霞んで見えなくなるのを不安な気持ちで見送る………そんな夢だった。  夢の中で渉に会えた喜びと去って行った後ろ姿への悲しみが混ざり合って、なんとも言えない持ちが胸に広がった。寝返りを打ってベッドの左側を向くと、本来渉が寝ている場所に手を伸ばし渉の存在を確認する。否、不在を確認するという方が正しいかも知れない。確かめる前から分かっているのだ。当然のようにそこに温もりはなく、冷んやりとしたシーツが私の熱を奪う。それも分かっていたこと。でも、もしかしたら?と、こうしてその不在を確認する作業をこの数日繰り返している。彼が家を出て一週間が経ったのだ。  激しく喧嘩をしたわけでも、明らかな行違いがあったわけでもない。思い当たることがない訳では無いが、それだけが原因とは思えなかった。ただ、少し前から元気がないなと思っていた。体調が悪いのか、仕事で何かあったのか、それとなく聞いてみても曖昧に返事をするだけで、すぐに、はぐらかされてしまった。  私はあまり深刻に考えなかったし、そっとしておけばいつか元気になるだろうと思っていたのだ。食欲もなかったしいつもにより口数も少なくて不調が見て取れたが、そんなこともこの数週間で当たり前のようになっていて、見てみないふりをしてしまったのだった。  だから、出て行ってしまう前日のちょっとした出来事も出ていった直接の理由とは思えなかった。喧嘩と言うほどの激しさはなくて、ちょっと気持ちが噛み合わなかった程度だと思っていた。その場でお互いに謝って解決したような気持ちでいた。でも、何となくモヤモヤとすっきりしない出来事だった。だから、こんな事で出ていくだろうか?と頭の上に疑問符を浮かべながら渉の事を思った。

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