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第1話 無表情な恋人
目が覚めた時、台所から聴こえる音が心地いい。こんな風に朝を迎えるようになってから一年ほどが経つ。出会いから数えると一年半だ。
「おはよう」
彼は朝食を載せたトレイを手にして、僕に語りかける。なんという完璧な朝だろう。――彼の表情がピクリとも動かないこと以外は。
僕は大げさなほどににっこりと口角を上げて言う。
「おはよう」
「慣れないなあ、その尻……いや、口か」
「お互い様だよ」
彼はテーブルに皿を並べ始める。まずは僕のトーストとハムエッグ、それからミルクティー。彼の分は、僕の背後にある、椅子の座面ほどの高さのサイドテーブルに。
「いただきます」
同時にそう言い、僕らは背中合わせの食事を始める。
「今日は残業で遅くなりそうだから、僕の食事は作らなくていいよ」
僕が誰もいない正面に向かって話しかけると、背後の、それも足元のほうから返事が返ってくる。
「分かった。あまり無理するなよ」
「ああ」
「そうだ、遅くなるなら、ントリェスーを呼んでもいい? 前から僕に郷土料理を食べさせてやると言ってうるさいんだ」
ントリェスーは彼の親友の名で、彼曰く正しい発音ではないようだが、僕にはントリェスーとしか聞き取れない。そもそも、彼の名前もいまだに上手く言えない。無理に文字にするなら、ヌヌッパガッムトュキンラヴアとでも表記することになるが、全然違う、と彼は言う。仕方がないので、そのうち末尾を取ってラヴアと呼ぶようになった。
「もちろん。彼は料理上手なんだろう? たまには旧友と懐かしの味を楽しむといい」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
「いつも地球 の料理に合わせてもらってるんだから、それぐらい気にしないで」
「最近は僕も地球料理のほうが馴染んできたけどね」
ラヴアの声は明るくて、その言葉がちょっとしたジョークだということが分かる。でも、ジョークを言う彼を見たところで、到底ジョークを言っているとは思えない無表情のはずだ。
「ごちそうさま」
僕はそう言って出勤支度の仕上げをすると玄関に向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ラヴアはそこでほんの少し躊躇いの表情を浮かべるが、僕は構わずキスをする。滅多に変わらない彼の表情がわずかに動くのは、こういった、キスを含む性的行為のときだけだ。
無表情な恋人。
背中合わせの食事。
聞き取れない名前。
それらはすべて、ラヴアが地球人でないことに由来する。
――地球人が遭遇した、はじめての地球外知的生命体。それがラヴアだ。
地球人と同じく、二足歩行で、頭部があり、四肢があるという彼らだが、よりスムーズな異星間外交のため、ラヴアは更に細かなところまで地球人に似せた外見に肉体改造をしたらしい。もっとも彼らの星の文明は地球よりはるかに高度で、その程度の肉体改造は例えるなら二重にする整形手術ほどの手間で済むのだそうだが。
そして、地球人にとってファーストコンタクトとなる異星人外交官としてやってきたラヴアは、初めてその姿を地球人に披露するにあたり、元々の背格好が似ていた僕を「より地球人に似せるためのサンプル」として選んだ。そのせいで突如として僕の顔が世界中を駆け巡るニュースとして大写しになったわけだが、それには他の誰でもない、この僕が一番驚いた。ゲイってこと以外、取り立てて特徴のない凡庸な僕が一躍「時の人」だ。なんやかんやで僕はラヴアの前にかり出され、どうしてだかラヴアの望む「地球暮らし」のパートナーとして同居生活を送るはめになってしまった。
相手ははるかに文明の進んだ星。地球の運命が僕に委ねられている。世界中の首脳陣に「要求通り一緒に暮らせ」と言われたら断りようがない。ただ、ひとつだけお願いをした。
「鏡を見ているような生活は嫌だ。彼の見た目を変えてもらいたい」
何しろ彼らにとっては埋没法の二重手術ほどの手間だから、その要望は簡単に受け入れられた。ついでに僕の好みのタイプを伝えてみると、見事にそれを具現化した人物にリメイクされたラヴアが現れた。
そうして始まった異星人との同居生活。四六時中モニタリングでもされ、プライバシーもへったくれもなくなるのではないかと危惧していたが、ラヴアがそれを拒否したのでその心配はなかった。一方では異星人との交流に反対する過激派がいないこともなかったが、僕やラヴアの危険を察知すればすぐにラヴアの星のSPらしき存在が出動して回避策を取ってくれるので、これといって恐ろしい目に遭うこともなかった。ラヴアに「囲われている」限り、僕は地球で一番のVIPなのだ。
とは言え、ラヴアの目的は「一般的な地球人の生活を知る」だったから、遊び呆けているわけにはいかなかった。僕はそれまでと同じ職場で同じように働き、同じように特売の食材を買い、休日はちょっと遠出してみたり、あるいは昼まで寝て過ごしたりといった、「普通の生活」を続けていた。以前と違うのは、ラヴアが勉強がてらに家事全般を担当してくれると言うので、仕事から帰ると温かな食事が待っているようになったことだ。
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