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ch.1
「あの、初診で…診察の予約をお願いしたいです、診察券の番号はM48640」
『…M48640、ご希望の診療科は?』
「…その、婦人科を…」
セント・バーソロミュー病院の予約担当の女性が、電話口の向こうで僕を訝しむのがわかった。
僕だって、ネットで予約できるなら喜んでそうした。でも、初診の申し込みは電話でしかできなかった。
『…シールズさんですね?御本人の予約でよろしいですか?』
「…はい、お願いします…できたら、女性のお医者さんにお願いしたいです」
詰まる喉から、なんとか言葉を絞り出した。
『どこからか、紹介状はありますか?』
「…ありません」
『失礼ですが、婦人科をご希望の症状などを伺ってもよろしいですか?』
「その…」
「…」
「……ジョセイキが、あるので、診てほしいんです」
先程まで不審感を隠さなかった声が、急に『わかりました』と義務的になった。
『…それでは、直近ですと今週末の金曜日、16時に予約ができますがーーー』
「そこでお願いします」
『わかりました、担当はマイルズ医師です、当日15時30分までに総合受付を済ませて、45分までに婦人科の窓口に診察券をお出しください』
「わかりました、ありがとうございます」
『では、失礼いたします』
「では」と答える前に、通話は切れていた。
スマホを放って、腰掛けているベッドにそのまま仰向けに倒れた。
僕を怪しむ女性の口ぶりを思い出すと泣きたくなって、思わず「クソ」と毒づいていた。
* * *
3日後の金曜日。
5限を早退した足で、地下鉄の駅に向かった。病院へは南へたった一駅。最寄りのムーアゲート駅から病院まで、どれだけのんびり歩いても10分もかからない。セント・バーソロミュー病院を選んだのは、僕のかかりつけの病院だからと、他に大きな規模の総合病院を知らなかったからで、正しい選択だったのかはわからない。重い足を引きずりながら、このまま引き返そうと5度考えた時には病院に着いて、腹を括って正面エントランスに入った。
総合受付を済ませ、2階の外来フロアに行った。中央の吹き抜けを取り囲むレイアウトの南側の一角、婦人科の窓口で診察券を出すと、受付の女性が機械的に僕を一瞥して券を受け取り、手元の作業に目を戻した。待合のベンチはぽつぽつと空きがある程度で、ブレザーにネクタイという制服姿の僕は(仮に私服だったとしても)女性達の間に座って待つ気にはなれない。婦人科の右には産婦人科、反対側は通路を挟んで心療内科。男女半々の心療内科の待合の最後列のベンチの隅に座り、冷たいグレイの床を眺めていた。
16時を5分過ぎた頃、名前を呼ばれて、僕を見て見ぬふりをする視線に気づかぬふりをして婦人科に入った。狭い中の待合スペースでは、僕を含めて5人の患者がベンチに肩を並べていた。両脇の女性は素知らぬ顔でスマホを覗いている。2人右隣のおばさんは、僕を見た時から不快感を露わにしていた。
そして16時30分を過ぎた頃、ようやく名前を呼ばれて、逃げ込むように診察室Bに入った。
後ろ手にドアを締め、顔を上げると、“男性”の医師が壁に面したデスクに向かっているのが見えて、足が止まった。
話が、違う。
心臓がぎゅっとして、顔が赤くなるのがわかった。
「…シールズさん?どうぞ、こちらにお掛けください」
医師は僕をちらと見ると、デスクの側の丸椅子を示してまた、PCのディスプレイを覗いた。
医師の後ろに控えている女性の看護師が、「どうぞ、荷物はそこに置いてください」と丸椅子の側のカゴを示した。
「はい」と答えたつもりが声にならず、言われるままカバンを側のカゴに置き、丸椅子に掛けた。そして、腿に置いた自分の拳を見つめた。
「申し訳ありません、今日、予約されてたマイルズ先生が急用で来れなくなってしまい、僕が代理で診察をすることになりました、テイラーです」
テイラーと名乗った医師は義務的に弁解したけど、その物腰は柔らかく、高圧的でも威圧的でもなかった。
「…はい」
視界の端で、医師がこちらに体を向けたのが見えた。濃紺のスラックスと革靴は、皺も汚れもなく、ぱりっとしていた。
「…シールズさん、もしあなたがよければ、話だけでも聞けますよ」
「…っ」
「話を聞いてみて、必要な検査があるとして、やっぱり女性医師がご希望ならもう一度来てもらう形にして…」
「…」
「その場合は二度手間になってしまうので、本当に申し訳ないのですが………」
本当にすまなそうな口ぶりの声は、温かく聞こえた。
思い切って顔を上げると、医師が僕をまっすぐ見つめていた。
彼は、綺麗な顔の男の人だった。年齢は30くらいだろうか。大きな茶色い瞳は賢そうで、薄い唇は品がよく見えた。白衣の下はノータイだけど、薄青のボタンダウンのシャツもぱりっとしていて、好ましい清潔感がある。そんな医者らしい装いの一方で、明るい茶色の直毛はワックスでカジュアルにスタイリングされていて、そのラフさが彼の“本当”なのかもしれないと思った。
「…じゃあ、話…くらいなら」
そう思えたのは、この医師のどこにも不快を感じなかったからだと思う。
「そうですか、話したいことだけでいいんです、無理する必要はありません」
「はい…」
医師の向こうの看護師を見ると、彼女は感情の読めない表情で僕を見ていた。
「…すまないスミスさん、少しの間、席を外してもらっていいかな?」
医師の言葉に従って、看護師は素直にこの部屋を出ていった。
彼は察しがいい人なんだと思うと、緊張が少しだけ緩んだ。
「お茶でも飲むかい?」
「…え?」
急に、朗らかになった医師の声に驚いた。トーンはさっぱりと明るく、まるで人が変わったみたいだった。
「君は何か悪いことをしたわけじゃないし、何も怖がらなくていいんだ、リラックスしてほしい、そうだ、コーヒーのほうがいいかな?」
さっきまで真面目くさっていた表情が和らいで、硬く結んでいた唇は小さく微笑みを浮かべている。柔らかくなった目元は、優しそうな人に見えた。
「…いえ、大丈夫です」
ひとつ静かに深呼吸をして、僕は、気が乗らない口を開いた。
「…月曜日、フットボールの練習試合があったんです」
「フットボール部?」
「はい」
「君は今、シックス・フォームかな?」
「はい、シティ・セントラル・ファンデーションの、1年です」
「ああ、男子校か、スポーツと音楽が盛んなところだね」
「知ってるんですか?」
「友人が通ってたんだ」
医師は、にこりと笑った。
なんだか世間話でもしてるような感覚になって、少しだけ気が楽になった。
「それで…試合中に相手のFWと派手に交錯して…」
「君はDF?」
「はい…」
「派手にって?どこか怪我をしたかい?」
「一瞬のことでわからなかったんですけど…ぶつかって、倒れて、それで、すごく、股間が痛かったんです、すごく…」
「股間?」
医師は、眉をひそめた。すっと通った鼻筋にシワが寄って、僕の痛みに共感してるみたいだった。
「たぶん、相手の膝か何かが当たったのか…とにかく痛くて…」
「それは苦しかったね…それで?」
「家に帰っても痛くて、怖くなって、確認してみようと思って…」
「…」
医師は、真剣な顔で僕を見つめていた。
「下着を脱いでみたら…血がついてて…それで、脚の間を見てみたら…」
僕は、視線を腿の拳に落とした。
「女の、その、ジョセイキが、あって、血が、ついてて…」
「そうか」
医師はデスクに向き直ると、キーボードを叩いてカルテに記入を始めた。
「僕、パニックになって、怖くて…どうしたらいいかわからなくて…」
「ご両親には?」
「なんて言えばいいか、わからなくて…」
首を横に振って、続けた。
「それで、お医者さんなら助けてくれるかもしれないと思って、次の日、ここに電話してっ…」
そこまで言ったら涙が出そうになって、喉にこみあげるものを必死でこらえた。
「大丈夫だよ、落ち着いて…少し待っててくれるかい?」
医師は席を立つと、診察室を出て行った。その様子に、焦りや不穏さが伺えないのはいいことかもしれないと思った。それでも彼を待つ間、心臓が怖いほどドキドキして、体の震えを抑えるのに精一杯だった。
しばらくして、紙のカップを1つ持って戻った医師は、デスクの左端、僕の前にそれを置いた。カップからコンソメスープの香ばしい匂いが漂っていた。
「よかったら飲んで、お腹がすく頃だろう」
「…ありがとうございます」
「それで君は、君の女性器が大丈夫か知りたいのかい?」
「…わかりません、どうしたらいいか、わからなくて…」
「わかったよ、じゃあいくつか質問していいかな?答えられることだけでいい、無理はしなくていいからね」
医師はPCのディスプレイに向かい、キーをタイプしながら続けた。
「君は、月曜日に、本当に初めて、女性器を知ったんだね?」
「はい」
「ご両親も、君の体のことはこれまで知らなかった?」
「たぶん…」
「そうか…それで、その出血は、今も続いてるかい?」
「いえ、あの時だけです…」
「わかった…それで、月曜日の出血以外に、これまで股間から出血があったことは一度でもあったかな?下着に身に覚えのない血がついていたとか…」
「いえ、ありません…ないと思います」
「そうか」と呟く横顔は静かで、険しくも陰りも見えないことに、僕は少しだけ安心していた。
「これは真面目な質問なんだけど、君は、自慰の経験はある?もちろん、ペニスの」
「…はい」
「じゃあ、女性とのセックスは?」
「…あります」
「男性とは?」
「…ない、です」
「そうか…それで、そういったタイミングでも、君の女性器に気づけるようなことはなかったんだね?」
「……はい」
「いいんだよ、責めてるわけじゃない、何もおかしくないからね」
「…はい」
質問はそれが全部だったのか、医師はしばらく黙っていた。
パタパタと滑らかにキーボードを叩く長い指を眺めながら、僕はカップに口をつけた。冷め始めたスープは、それでもまだ美味しかった。そしてスープを半分飲んだ頃、彼は僕に向き直った。
「シールズさん、君の過去のカルテを見てみたよ、幸い君はここで産まれてるから、出生の記録も残ってる」
「…はい」
「出生時にはそういった記録は残ってないから、確かにご両親も知りようがないね…」
「…はい」
「恐らく、産まれたばかりの頃は女性器が目立たず見過ごされてしまったんだろう、そして、体の成長に伴って君のように気づく…これは、ごく稀にあるケースなんだ」
ハイそうですかと受け入れがたいおとぎ話に思えたけど、状況を見ればそうと考えるのが妥当なんだろう。
ぼんやりとカップを啜っているうちに、いつの間にかスープはなくなっていた。
「君が混乱しているのはわかるよ、そして恐らく、君は、今の君の体の状態を正しく知りたい…そういうところなんじゃないかな?」
「…そう、です…」
「僕も同じだ、君の男性器と女性器、それぞれ検査して状態を正しく知っておくのが最善だと思う」
医師が“検査”と言った時、ついにきたと心臓が縮み上がった。
「シールズさん、よく聞いてください」
彼の声が改まって、僕はまた、心臓がきゅっとなった。
「検査は簡単で、今日この後できます。男性器は精子を調べます。女性器は直接女性器を確認し、内部をエコーで見ます。どちらも生殖能力の有無や、病気がないかを確認できます。」
「…はい」
「初めに言った通り、検査は僕が嫌であれば、女性医師の日に再診してもらうのがいい…君が決めてください」
僕を見つめる医師の顔は、真剣なのに、慈しむような笑みを浮かべているように見えた。
そして僕は、彼でも構わない、そう思った。
「…あの、テイラー先生」
「なんだい?」
「先生は、毎日その…ジョセイキを見てるんですよね?」
「当然、それが仕事だ」
「…そう、ですよね…」
「シールズさん、僕が嫌なら無理は言わない、女性医師を勧めるよーーー」
「…先生は…その、これまで、男のジョセイキを見たことがありますか?」
僕の問いに、先生は少し難しい顔をした。
「あるよ、正直に言えば、数える程度だけどね」
「………」
「実はこういうケースは、産まれてすぐ整形処置されていたり、君のように気づいてもわざわざ受診しない人が多いのが現状なんだ…」
「…僕は、その、変に…思われたくないんだ」
「僕は医者だ、変に思ったりしない、それに女性器は千差万別で、どれが正しいとかはないんだ」
「…でも僕は、男だからーーー」
「男も女も関係ないよ、君が任せてくれるなら…君は僕の患者だ」
「…じゃあ…」
「うん」
「…先生、検査、お願いします…」
「はい」と小さく微笑んだ先生は、僕が握り締めていた空のカップをそっと取り上げた。
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