9 / 33
第9話 護衛騎士
その口を塞ぐことすらできず、アルキバは放心したように、絶叫するリチェルを見つめた。
長い咆哮の末、その声がやっと枯れ、リチェルは体を弓なりにそらせたまま、ひーひーと息をはいた。
その大きく開けた口からはまだ、聞き取れぬ叫びが放たれているかのようだった。
やがてドアが乱暴に開けられた。背後から、護衛の怒鳴り声が降ってきた。
「サイル様!アルキバめ、サイル様に何を!」
リチェルはその声にはっとしたように、口を閉じた。
アルキバは気まずく顔をしかめながら、リチェルの両手を縛っていた帯を解く。来たか、と思いながら。そりゃあ来るだろう。来るのが遅すぎるくらいだった。
アルキバはベッドから立ち上がり、両腕を広げ肩をすくめた。
「あー悪かったよ、未遂だから安心しろ」
リチェルが上体を起こし、護衛を見て涙ぐむ。その目には生気が戻っていた。
「ヴィルター……!」
ヴィルターと呼ばれた護衛は無言でベッドの傍らに歩み寄る。
リチェルは泣きながら、ヴィルターの腰に抱きついた。
「来てくれた……。お前はいつも、私を守ってくれる、私が信じているのはお前だけだ、ヴィルター……」
アルキバはやれやれ、とそんな様子を眺めていたが、不意に眉をひそめた。
ヴィルターの様子が明らかにおかしかった。
(なんだ、その表情は)
ヴィルターの顔は緊張にこわばっていた。その額から冷や汗が流れている。
ヴィルターは身をかがめ、左手をリチェルの背中に回してあやすようにさすりながら、右手を後ろに引いた。
右手に握られているのは、ガラス戸棚の上に置いてあった、あの果物ナイフ。
アルキバは息を飲んだ。
「逃げろリチェル!」
叫んだのと、そのナイフがリチェルの腹に沈められたのは同時だった。
リチェルの青い瞳が飛び出さんばかりに見開かれる。
ヴィルターはリチェルの腹からナイフを引き抜くと、後ずさる。
リチェルが震えながら自分の腹を見た。どくどくと血を流す己の腹を見て、顔を上げる。
絶望の表情でヴィルターを見つめ、囁いた。
「お前も、なのか、ヴィルター……」
ヴィルターはかたり、と血塗れのナイフを落とした。
主君を見下ろし、嗚咽を漏らした。その両眼から涙を流す。
「申し訳ございません殿下、母を……!兄君達に母を人質に取られました……!」
リチェルはその美しい顔を哀しみに歪める。
「そうか……」
と一言。そのまま横ざまに倒れる。目をつぶり、動かなくなった。
アルキバはクソ、と小さく悪態をついた。
はめられた、と気づいた。リチェルのみならず、自分が。
ヴィルターは手で涙をぬぐうと、剣を抜きはなち、その切っ先をアルキバに突きつけた。
「我が主人を殺した貴様を、この場で処刑する」
アルキバは半笑いを浮かべて、両手を高く頭上にかかげた。
葡萄酒に媚薬が入っていなかった理由。こいつが差し替えたのだ。そして誘うようにナイフを置いてみたか。プライドの高い人気剣闘士のアルキバならば、リチェルに反抗するだろうと確信して。
この護衛は最初から、アルキバがリチェルをぶちのめしに来たと分かっていたのだ。
リチェルの叫びは広範囲に轟いただろう。
(ああ、完璧な状況証拠だ。どう考えても俺が犯人だ)
アルキバはふと沸いた疑問を聞いてみた。
「俺が来なかったらどうしてた?」
ヴィルターは虚ろな表情で、独り言のようにぶつぶつと呟く。
「母は既に囚われている。今夜、殿下を刺すしかなくなった。ずっとお前を待ち望んでいたが、ほとんど諦めていた。まさか今宵来るとは僥倖だ。お前が殿下を殺してくれれば完璧だったが。私だって本当は刺したくなかったのだ……」
ヴィルターはぐっと涙を飲み込む仕草をして、アルキバを切り捨てるべく、剣を右上に掲げた。
その瞬間を逃さなかった。
アルキバはヴィルターの腰に飛びついた。その長身を床に沈め、あごに頭突きを食らわせた。
「ぐはっ!」
喉仏を晒し悶えるヴィルター。アルキバは即座に立ち上がり、倒れたヴィルターの右手を思い切り踏みつけた。その手から剣の柄が落ちる。剣を蹴飛ばし床の向こうに滑らせた。
「くっ!」
ヴィルターが悔しげに顔をゆがめ、下からアルキバの脚をつかんできた。アルキバはヴィルターの腕を振り払い、その頭部を蹴飛ばした。鈍い音がする。
アルキバはヴィルターのふらつく頭を鷲づかみにした。
「クソ外道が……!」
膝を折って、その顔面に膝頭を叩きつけた。
鼻の骨が折れる音と共に、その顔が血に染まる。アルキバは何度も、膝頭を打ちつけた。
やがてヴィルターの腕が、ぴくぴくと痙攣しながらだらりと垂れる。
事切れた。
アルキバは、はあはあと息をつき、ヴィルターの頭から手を離した。額の汗をぬぐいながら、部屋の惨状を見渡す。
血まみれの王子と、血まみれの従者。そして一人生きている、剣闘士。
(畜生!ずっと俺を待ち望んでただと?)
主君殺しの外道に、こんないいように利用されたことがただただ悔しく、腹立たしかった。
アルキバはベッドの上のリチェルに近づいた。裸体の腹を血で染め倒れている。身を屈め、その鼻先に耳を寄せた。心の中で神に祈った。
アルキバの目に光が宿る。かすかな呼吸が聞こえたのだ。
まだ、生きている。
アルキバは安堵の息をつく。このまま放置したら大量出血で死んでしまう。
アルキバは急いでシーツを切り裂いた。傷口の上にかぶせ、手で圧迫する。シーツはすぐに真っ赤に染り、血が滲み出した。止まれ止まれと念じながら、アルキバは圧迫を続ける。
やがて、血が滲まなくなった。止血成功だ。よしと呟くと、その腹を別のシーツの切れ端でぐるぐるに巻き、かたく結んだ。
早く治療を受けさせなければ。死なせるものか、絶対に。
(罠にはまって殺しの手駒にされるなんて、俺のプライドが許さない。だからなんとしてでも生かさねば)
言い訳のようにそんなことを考えながら、その体にガウンを着せてやる。
リチェルの体を背中に背負い、自らにくくりつけた。ここにも裂いたシーツを使った。
アルキバは先ほど脱いだ灰色のローブを羽織った。大きなローブなので、背中のリチェルもすっぽり覆った。
フードを目深に被り、床に転がる剣を拾い、ヴィルターの腰から鞘を奪う。アルキバは寝室の扉を見据えた。
準備完了。あとは逃げるだけだ。
◇ ◇ ◇
ともだちにシェアしよう!