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第18話 狂王子

 リチェルの住む屋敷は、雑木林を縫っていったところに、隠されるようにひっそりと存在していた。  玄関広間では、執事らしき初老の男と、侍女頭らしき中年女性がうやうやしく「お帰りなさいませ」と頭を下げた。外泊への文句ひとつ言わず。時刻は既に午後を回っていた。  だが執事は当然、アルキバを怪訝そうに見た。 「殿下、その者は?」  アルキバは観客向けのとびきりの笑顔を向けてみたが、執事の眉間のしわがますます深くなっただけだった。  リチェルはアルキバのほうにちょっとすまなそうな視線を送った後、説明をする。 「街で私の用心棒として買った……奴隷……だ。アルキバ、こちらは執事のルパードと侍女頭のクラリスだ」  奴隷、という単語を使いたくないようでそこは小声だった。侍女頭のクラリスは信じられない、という顔をする。 「リチェル殿下!いくら殿下でもそんな、街で買った奴隷など王城内に持ち込まれては困ります!陛下のお命を狙う賊だったらどうするのです!」  リチェルはむっとして反論する。 「アルキバが賊のわけないだろう!史上最高の剣闘士だ!」 「剣闘士アルキバ?まさか、あの……?」  その言葉に、せわしなく働いていたメイドたちがぴたりと止まる。  台座に載せた食器を運んでいた者も、正面の赤絨毯敷きの両階段を掃き掃除していた者も、巨大な花瓶の水を替えていた者も。くるりと振り向き、黄色い声を上げた。 「ほんとだわ、本物のアルキバよ!」 「あ、握手してください!」  仕事を放り出してアルキバの周囲に寄ってくる。愛想よく手を握ってやるアルキバ。 「今日から同僚だ、よろしくな」 「えっ!?どういうことですか!?」 「毎日アルキバさんと会えるんですか!?」 「きゃああっ」  若いメイドたちの大騒ぎに、クラリスは目を白黒させた。 「なんなのですか、はしたない!持ち場に戻りなさい!」  侍女頭の一喝でメイドたちは蹴散らされる。リチェルはおかしそうに笑いながら執事に言う。 「そいうことなので、アルキバの鉄輪を頼む、ルパード。私の名入りの鉄輪に交換してやってくれ」  執事のルパードは変らぬ渋面で、アルキバの鉄輪を確認する。 「確かに、バルヌーイ剣闘士団と刻まれておりますが……。なにゆえ剣闘士などを用心棒に?ヴィルター・ダウネス殿の代わりの護衛騎士なら、また近衛の者から引っ張ってくれば良いではありませんか」  そこでリチェルは目を見張った。 「ヴィルターのこと既に知ってるのか!?」  ルパードはうなずく。 「ええ。お母様と一緒に田舎にお帰りになると。農園を営む叔父様が倒れて、ヴィルター殿が農園を引き継ぐことになったそうで」  リチェルは青ざめ、唇を振るわせた。 「だ、誰に聞いたそれを」 「城の者は皆、知っております。掲示板にも貼られております」  リチェルは声を荒げた。 「そんなのは嘘だ!ヴィルターに叔父などいない!不幸が続いて親戚は皆亡くなり、母一人子一人だと言っていた!」 「しかし殿下」 「ヴィルターは既に死んでいる!ヴィルターは私を裏切った!ジルソン兄上に母堂を人質に取られ、私を殺そうとしたんだ!私はこのアルキバに命を助けられた!」  執事と侍女頭は顔を見合わせ、ため息をついた。  侍女頭は、優しげにリチェルの背中をさする。 「夜遊びでお疲れでしょう、さあお部屋のほうにお戻り下さい。お召し物も着替えねば」 「本当だ、信じてくれクラリス!私はヴィルターに腹を刺されたんだ!グリンダス通りのホテル・グラノードに行け!そこにヴィルターの死体がある!」  クラリスは首を振った。 「あまり困らせないでください、殿下」  ルパードがぱんぱんと手を叩き、通る声で呼ばわる。 「殿下をお部屋へ!」  すると使用人らしき男達が三名やってきて、激昂しているリチェルを取り押さえる。  そこでアルキバは「おい!」と割って入った。 「黙って聞いてりゃ、いい加減にしろ!どうして信じてやらないんだ?あんたらの主人だろ?リチェルは本当のことを言っている!ヴィルターは俺の前でリチェルを刺した!」  執事はじろりとアルキバを睨んだ。丁寧な口調を豹変させる。 「殿下を呼び捨てとは何事だ!口の聞き方がなってないな、奴隷。ここは闘技場ではない。お前には即刻立ち去ってもらおう」  執事の言葉に、リチェルが悲鳴をあげた。 「やああああああああああっ!」  突然の金切り声に、皆がびくっとする。 「いやだルパード頼む、アルキバを追い出さないで!アルキバを追い出したら自殺してやる!お前は私を自殺に追い込んだ咎で処刑されるぞ、いいのか!」  騒々しかった玄関ホールがしん、と静まる。リチェルの過呼吸のような荒い息遣いだけが聞こえた。  執事はうんざりしたように、長いため息をついた。 「……畏まりました殿下。そこまでおっしゃるなら、この剣闘士めを殿下の用心棒として受け入れましょう」  リチェルはほっとした顔をして、男達に連れられていった。連れられながら大声で礼を言った。 「ありがとうルパード!この恩は決して忘れない!」  執事はもう一度ため息をつく。 「さあ来い、奴隷。殿下の名入りの鉄輪をはめてやる。だが下手なことをしたら、すぐ追い出してやるからな」  アルキバは険しい表情で、目の前で繰り広げられた一連のやり取りを見つめていた。 ◇ ◇ ◇  アルキバは事務室のような所で椅子に座らされ、ルパードに左腕の鉄輪の交換をされる。交換されながら釘を刺された。 「王城内は下級使用人もほとんどが自由民、奴隷などわずかしかいない。くれぐれも粗相のないようにな。後で護衛用の兵服と剣を支給するから着替えろ」  アルキバは無視してまた同じ質問をした。 「なんで主人の言うことを信じないんだ?」  ルパードは不快そうに顔をしかめる。 「お前も見ただろう、リチェル殿下の先ほどの錯乱を。いつも被害妄想にとらわれて、夢とうつつの区別がつかなくなっていらっしゃる」 「錯乱?本当のことを言っても誰にも信じてもらえなかったら、声を荒げたくもなる。毎日ああやって追い詰めてるのか?そりゃ夜遊びだってしたくもなるな」  執事はふんと鼻で笑った。 「一緒に暮らしてみれば、用心棒、お前だってすぐに音を上げよう。ヴィルター殿の代わりになってくれるなら、ありがたいことだがな。実際のところ、ヴィルター殿も狂王子についに付き合いきれなくなって逃げ出したのだろう。みんな分かっている、ヴィルター殿に同情している」  アルキバは舌打ちをする。 「主君殺しの外道騎士に同情だと?ヴィルターは俺の目の前でリチェルを刺した」 「そんなことを言っているのは、殿下と殿下が連れてきた奴隷のお前だけだ。殿下にそう言うように命令されているのだろう?」  何を言っても無駄だと分かり、アルキバはただ不快げにため息をついた。  想像していた以上に、リチェルの王城での立場は弱い。最も身近な臣下と言える屋敷内の人間すら、リチェルの言葉に耳を傾けようとしないとは。  隠し子王子達の根回しによるものだろう。リチェルは狂人だと皆に信じさせれば、暗殺を謀ってリチェルに訴えられても、狂人の被害妄想の一言で片付けられる。 (ヴィルターは母と田舎に帰る、か)  リチェルが戻ってきて余計なことをしゃべる前に、随分と迅速な対処をしやがる、とアルキバは苛立ちを覚えた。  その時ふと気づく。今、自分がリチェルのそばにいてやれていないことに。アルキバはいきなり立ち上がった。 「リチェルは今どこだ!」 「だから殿下とお呼びしろと……。先ほど言ったであろう、お部屋にお戻りだ」 「部屋はどこだ!守ってやらないと命が危ない!」  ルパードは呆れ顔になる。 「お前、本当に殿下の妄想を信じてるのか?それともお前も狂っているのか?まあいい、護衛したければ好きにしろ、二階の南側の部屋だ」  アルキバは事務室の扉を乱暴にあけ、屋敷内を駆け抜けた。正面玄関の階段を駆け上り、途中で通りすがりのメイドの腕を取って聞く。 「リチェルの部屋はどこだ」 「あらアルキバさん!そこの青い扉のお部屋ですよ」  指差された扉に駆け寄り、どんどんとノックする。 「リチェル!俺だアルキバだ!」  返事を待ちきれずドアノブに手をかけた。体重をかけたとたん、向こう側に扉が開いて誰かにぶつかる。 「わっ……!」  小さな声と共に、開け放たれたドアの向こう、リチェルが床にしりもちをついた。どうやらちょうど、ドアを開けようとしていたところだったらしい。 「す、すまん!」  アルキバは入室してすぐドアを閉めて鍵をかけ、倒れたリチェルの手をひいて立たせる。 「無事か!?刺客は来てないか!?」  問われたリチェルはきょとんと、しかし泣きはらした目をしていた。  服はもう着替えている。青地に朱子織で光沢の装飾を施した長い上着、その中はレースをふんだんに使ったシルクシャツで、下肢にはぴったりとした白い脚衣。王子様らしい装いになった。 「ぶ、無事だ」 「そうか」  アルキバはほっと肩で息をつく。リチェルは驚いた様子だ。 「私を、そんなに心配してくれるのか……」 「当たり前だ!」 「誰も私の心配などしていないのに」  アルキバはその濡れた頬を親指でぬぐう。 「泣いてたのか?」  リチェルはおどおどした様子で顔をそむけた。 「ああ、これは、私のいつもの錯乱だから気にしないでくれ」  アルキバはその言葉に引っ掛かりを感じた。 「自分で錯乱なんて言うな。あんな態度を取られたら、誰だって泣いて当然だ」  リチェルはほうけたようにアルキバを見た。 「当然……?私は頭がおかしくは、ないか?」  アルキバは眉間にしわを寄せる。 「何を言ってるんだ?なんでいきなり、そんなことを言いだすんだ。帰宅した途端に」  リチェルは弱弱しく髪をかきあげた。 「ここにいると、自分は本当に狂っているんじゃないかと思えてくる……。どうしても彼らと冷静に話すことができず、いつも大声を上げてしまうし、皆が言うように、私は異常者なのではないか……」 「リチェル!」  叱りつけるように名を呼ばれて、リチェルは怯えたように眼を丸くする。  アルキバはリチェルを抱きしめた。その髪を撫でながら、声のトーンを落とした。 「ああ、俺も大きな声出しちまったな、悪かった……。リチェルは正常だ。ここは蛇の巣だ、あんたは蛇の巣に紛れ込んだたった一人の人間だ。そう思っておけ」 「私は……私だけが……人間」 「そうだ。リチェルはまともだ、自分を信じろ」  アルキバはリチェルの髪をかき分け白い肌を晒すと、首筋に唇を落とした。リチェルの肩がぴくりと震えた。  首筋に押し付けられたアルキバの口から、囁きが漏れる。 「可哀想に……。たった一人でこんなとこで、よく頑張ってきたな……。俺が蛇退治してやるから」 「アルキバ……」  リチェルの手がきゅっとアルキバの上衣を握った。微笑みながらアルキバを見上げたその瞳には、街にいた時のような生気が戻っていた。 「分かった。私が私を信じねば、戦えないな。来てもらったそなたに申し訳が立たない」  言って、アルキバの左手首の鉄輪に触れる。 「またこんな物をつけさせてすまない。本当はそなたに鉄輪などつけたくないのだが、これがないと王城内で不審がられると思って」  アルキバは呆れて笑った。 「俺のことなんて気にしてる場合か。さあ試合開始だ。ヴィルターの件は先手を取られた。なんとしてでもヴィルターの母親を助け出すしかない。母親の居場所、見当は付かないか?」  アルキバの質問に、リチェルは考える。 「ヴィルターは尊父を既に亡くしていて、母堂のミセス・ダウネスはメイド長として城に住んでいた」 「ほう。じゃあ王城内にいる可能性が高いな。城の外に人質を連れ出すより簡単だ。どこだと思う?」  心当たりを探すように首を傾げていたリチェルの顔つきが、つと、青ざめた。 「もし……かしたら……」 「なんだ?心当たりがあるのか?」 「い、いや、可能性だけ……」 「どこだ!」 「……」  なぜかリチェルは、固まったまま答えない。その様子のおかしさにアルキバは気づき、どきりとする。  顔面蒼白になり、珊瑚色の唇がみるみる青紫色に変っていく。そして目つきが、どこか遠い虚空を見るような色を帯びていく。  それはまさに、アルキバに犯されそうになった時のリチェルの様子と同じだった。 「どうした?」  リチェルは自らの胸の辺りを押さえ、消え入りそうな声で答えた。 「白蘭邸の……地下室……」 「白蘭邸?」 「兄上たちの……居住邸だ……。一年前まで私も住んでいた……」  なるほど、とアルキバは理解した。リチェルが陵辱を受けたの現場なのだろう。 「分かった、俺が確かめて来よう。リチェルは来なくていい」  リチェルを一人置いておくのも非常に不安だが、そんな場所まで案内させるわけにはいかない。リチェルは苦しそうにアルキバを見た。 「いや、しかし」 「無理するな」 「しかし、そなた一人で行っても中に入れてもらえないかもしれない」  ふむ、とアルキバは考える。確かにその通りだ。 「この家で一番信用できる使用人は誰だ?誰も信用できないのは分かってるが、その中であえて選ぶとしたら?」  リチェルは困惑の表情を浮かべる。 「そんなこと考えたこともなかったが……」  とつぶやき、しばしの逡巡の後に答えた。 「クラリスだ、侍女頭の」  アルキバは眉根を寄せる。 「さっきのあのおばちゃんか?リチェルのこと全く信じてくれなかった」  リチェルはうんとうなずいた。  賛同しがたい人選だと思ったが、それがリチェルの選択だ。 「分かった。じゃあクラリスに頼もう」 ◇ ◇ ◇  侍女頭のクラリスは衣装部屋にいた。  アルキバを伴って現れたリチェルに、クラリスはにこやかに対応した。作り物めいたにこやかさではあったが。  一つできっちり縛った金髪と、痩せた体に細いあご。神経質そうなその容姿には、しかし若い頃の美しさを忍ばせるものもあった。 「いかがされましたか、殿下」 「そなたに頼みが……。こんなことを頼むのは、きっとまた、そなたを困らせることになるだろうが……」  言いよどむリチェルに、クラリスはまつげを瞬かせる。リチェルがこのような物言いをするのは初めてなのかもしれない。少し、今までとは違った声音で問う。 「どうされました?」  リチェルは言いにくそうに瞳を揺らしながら言葉を繋ぐ。 「白蘭邸の地下室に、ヴィルターの母堂が隠されているかもしれないから、アルキバと共に確認して欲しいのだ。私は行きづらいから、そなたに」  クラリスは、困ったように眉根を下げた。 「殿下、まだそのような……」  アルキバが割って入る。 「確認するだけだ。いなければそれでいい。あんたはリチェルのためにはそんな小さな労力すら割けないのか?」 「なっ……!」  クラリスは目をむいて、反論の言葉を探すかのように口を開けて、前に掲げた手を落ち着きなく開閉させた。  だが、言葉が見つからなかったらしい。ふん、と大きな鼻息をつくと、悔しげにアルキバを睨みつけた。 「分かりました、ご案内しましょう!」  アルキバはにやりと笑う。リチェルは深々と頭を下げた。 「恩に着る、本当にありがとうクラリス」  そんなリチェルに毒気を抜かれたのか、クラリスはいいえ、と静かに首を振った。  いつもの困ったような顔をして。 ◇ ◇ ◇  アルキバと侍女頭が連れ立って屋敷を出るのを、他のメイドたちは不思議そうに眺めた。アルキバはそんな彼女らにウィンクをした。 「クラリスさんとデート行ってくる」  途端にどよめきが湧く。 「わ、私とも今度ぜひ!」 「羨ましいですクラリス様!」  クラリスはアルキバを睨みつけ、「いい加減になさい!」と一喝した。  白蘭邸までは馬車で行く。  アルキバはそつなくクラリスをエスコートした。クラリスは不機嫌そうな顔をしながらも、アルキバの手をとって馬車に乗り込んだ。  見送るリチェルは二人に頭を下げた。 「アルキバを頼んだ、クラリス。アルキバ、本当にありがとう」  馬車の中からアルキバは微笑んだ。 「じゃあな、いい子で待ってろよ」  リチェルは眉を下げ、複雑な表情でアルキバを見上げる。馬車が鞭の音と共に出発した。  沈鬱な面持ちで、リチェルは馬車を見送った。 ◇ ◇ ◇

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