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第19話 追憶
リチェルは一人、物思いに沈んだ。
たった今、アルキバとクラリスは馬車で白蘭邸に向かい、それを見送ったところである。
自室の壁に背を預け、深いため息をつく。
「自分で確かめに行くこともできないのか、私は……」
アルキバにキスされた首筋を、リチェルはきゅっと握った。
『可哀想に……。たった一人でこんなとこで、よく頑張ってきたな……』
耳元に囁かれた優しい言葉。涙をこらえるのに必死だった。
母を亡くしてから、リチェルをあのように優しく抱きしめてくれた人も、あんなに優しく口付けしてくれた人もいなかった。ヴィルターは優しかったが、必要以上にリチェルの体に触れることはなかった。
舞い上がりそうになる自分を懸命に諌めた。
剣闘士はとてもモテる。アルキバはただ、そういう行為をし慣れているだけだろう。こんな自分がアルキバに特別に愛されるわけがないのだから。
だがせめて、王となって恩に報いたい。そう思った。奴隷解放を成し遂げたら、アルキバは喜んでくれる。
その為にどんなことでもしようと、やっと自分が生きる意味、生きる目標を見出せた気がしていた。
なのに城に戻ってきたら、この体たらくだ。現場かもしれない白蘭邸の地下室まで、自ら案内することすらできないなんて。
自分が情けなかった。こんな心根でどうやって王になるつもりなのか。
せっかく逃げ出したのに。自分の精神はいつまでも、あの地下室に囚われたままであるような気がした。
リチェルが逃げ出したきっかけは、それが本来は愛の行為であると知ったからだった。
九年前、アルキバ初優勝の御前大会の後あたりから、母ユリアーナは持病が悪化し、 床にふせがちになった。そしてあっという間に崩御してしまった。
母の死の半年後、リチェルが十歳の時、父王は後妻を迎えた。後妻ミランダスには二人の息子、十八歳のジルソンと十六歳のオルワードがいた。二人とも父王の子だという。
新しい母は、リチェルをあからさまに疎んじた。リチェルが幼い頃からそばにいた教育係や侍従は次々と辞めさせられた。公の場への参加は禁じられ、使用人以外との交流の機会も失われた。
文武両道で穏やかな人格を持ち、名君としての将来を期待されていたリチェル。
そんなリチェルへの教育は、ぱたりと停滞することになる。
だが孤立を深めていく中、それでもリチェルは、独学で修練や勉学を続けた。一人で馬に乗り、剣を振り、書庫に篭り本を読んだ。
ただ、性教育を受ける機会は失われてしまった。
無知で無垢なまま、リチェルは愛らしい童の殻を脱ぎ、美しく成長していく。清らかでいてどこか男の欲情を喚起する美少年に。
そんなリチェルに、最初に「性」を教えたのは兄達だった。
それは壮絶な「暴力」だった。
最初の頃こそリチェルは泣き叫んだが、そのうち兄達はリチェルが大声を出せないように、行為前に喉を潰す薬を飲ませるようになった。
声の出せないリチェルへの行為はどんどんエスカレートした。リチェルが痛がり苦しむほど、兄達は興奮し愉悦した。
血まみれの肛門を容赦なく突かれた。「ゆるんだ」と言ってなじられ、必死に直腸を締めた。それでも足りないと殴られれば。
「お、締まりが良くなった。痛めつければいいらしい」
「どうすれば一番締まるか試してみよう」
兄たちは挿入しながらリチェルを殴り、首を絞め、皮膚を焼き、指の骨を一本づつ折っていった。
凶行が終わると必ず、ある魔術師がやってきた。非常に年老いた、両眼に銀色の義眼をはめた、不気味な魔術師だった。罪を犯し逃げて来た、異国の大魔術師の成れの果てだという。
その者は、大変な治癒魔術の使い手だった。
行為の最中に負わされた、怪我も骨折も火傷も、いつも最後、奇跡のように跡形もなく治された。悪事がばれぬために。悪事を続けるために。
また明日破壊するために、修理する。
その地獄としか形容できない狂気の日々は、一年前まで続いた。
一年前のその日、リチェルは書庫で本をめくっていた。
城に住む亡霊のように。ただ、夜が来ることに怯えながら。
兄たちは気まぐれで、毎晩のように犯されることもあれば、一か月何もないこともあった。
(今夜は地下室に連れて行かれるだろうか?どうか今夜は、兄上たちが来ませんように)
ぼうっとした頭でめくっていたそれは、古い詩集だった。
男女の性愛をテーマにした詩で、愛と性の素晴らしさを情熱的に描いた作品だった。
リチェルは文字を目で追ううちに、やがて雷撃に打たれたように固まる。
その詩に何度も出て来る「愛」という言葉が深く突き刺さった。
兄達にされている行為が性的な行いであることは理解していた。だが。
(あんな拷問が愛?)
(本来、あれは愛の行為だったのか?)
その時初めて、リチェルをずっと支配していた恐怖が、怒りに変った。
何かを踏みにじられた感情が、身のうちから湧き上がった。
押しとどめていた涙が溢れるように出てきた。
(本当は愛のための行為だったんだ)
もう絶対にあんな拷問を身に受けたくない。受けてはならない。心からそう思った。
でも、愛とはなんだろう。
幼い頃は愛されていた気がするが、今はもう幼くもなく、母もいない。誰もリチェルを愛していない。
リチェルは気が付けば、その詩集をズタズタに破っていた。舞い散る紙片の中、虚ろだったリチェルの瞳に決意の火が灯る。
リチェルはこの日、首をくくり自殺を図った。
発見が早かったため一命はとりとめた。だが当然、大騒ぎになった。
久方ぶりに顔を見た父に、とても心配してくれた父に、リチェルは一つの願いを告げた。
あの屋敷を出たい、兄たちと離れて暮らしたいと。
父王はうなずいた。詳しくは何も聞かなかったが。それでも父は、城の敷地の中、使われていなかった別邸にすぐにリチェルをうつしてくれた。
そしてこの屋敷に絶対に近づくなと、兄たちに言い含めてくれた。
やっとリチェルに平穏な日々が訪れた。が、今度は身辺に妙なことが起こり始めた。
壁際を歩いたら上からレンガが落ちてきたり、乗っていた馬が突然暴れだしたり。食事に毒を盛られたこともあった。
ある日、朝食のパンの味がおかしかったので一口で食べるのをやめた。
味がおかしいので食べてみてくれ、と使用人に言ったが、「申し訳ございません」とだけ言って片付けようとした。
リチェルはその妙に冷静な様子に眉をひそめた。見慣れない下男だった。リチェルは下男の持つ皿からそのまずいパンをひったくり、窓からばらまいた。
すぐに一羽の鳩がやってきてパンをついばんだ。
が、そのうち挙動がおかしくなった。ふらついたかと思えば、泡を吹いてひっくり返った。
「毒だ!」
リチェルは下男を睨みつけた
「お前、毒入りだと知っていたのか?お前が毒を入れたのか?」
剣幕を聞きつけて他の使用人たちがやってきた。
「いかがなされましたか」
「聞いてくれ、こいつが私に毒を盛った!」
先の下男は、窓をかっちり締めカーテンを引きながら言い放った。
「リチェル様がご乱心を起こしているだけです、被害妄想を」
「妄想だと?お前だって今、窓の外を見ただろう!確かに鳩が死んでいる!」
若いメイドたちは、恐れるような哀れむような視線をリチェルに向ける。年かさのメイドはリチェルの背を優しくさすり、手を優しく握った。
「お疲れなのですね、さあお庭でお散歩などどうでしょう」
その様子に、リチェルはあることに気づく。
「お前たち、まさか私の頭がおかしいと思っているのか?」
リチェルの手を取るメイドは口元に笑みを浮かべ、優しげに首を振った。
「そんなわけがございませんでしょう、さあこちらにおいでください」
リチェルは愕然とした。兄たちがリチェルは精神病だと言い触らしたのだろう。リチェルが何を訴えてもこの者たちは虚言と思う、おかしな王子の妄言だと思う。
こんな所にいることは耐えられない。
リチェルは翌日、一人馬を駆って王城を飛び出した。
城は大騒ぎになり、近衛騎士たちがリチェルの捜索に駆り出された。
その時リチェルを見つけたのが、ヴィルターだった。元、リチェルの母の護衛騎士だった男。
リチェルは運河に架かる橋の上から身を投げ出そうとしていた。
懐かしい顔を見て、リチェルは泣いた。橋の上で、ヴィルターに全てを話した。ヴィルターはとても誠実に耳を傾けてくれた。
「少し遊びましょうか」
そう言ってヴィルターは、リチェルを闘技会に連れて行った。
リチェルは一目で剣闘士たちの虜になった。
そして、自分が金の冠を授けた少年剣闘士が、そのまま戦神のごとき美丈夫に成長していたことも知った。九歳の頃の鮮烈な印象以来、ずっと心の片隅で思慕していた少年。
アルキバは大人になった今、より強く、より美しく、より神々しかった。自分とは真逆の、人間の理想の姿のように思われた。
アルキバは王族である自分より、はるかに本物の王者らしかった。
アルキバこそナバハイルの真の王。リチェルは心からそう感じた。
リチェルはアルキバに恋をした。恋と言ってもそれは、天の星に憧れるような、夢幻のような淡い想いだったが。
この恋はリチェルを変えた。
なぜかアルキバに、「生きろ」と言われているような気がした。「王子としての誇りを忘れるな、誰かの奴隷となることを己に許すな」そう言われている気がした。
リチェルは、闘技会にまた連れてきてくれ、とヴィルターに懇願した。さらに、近衛騎士をやめてリチェル専属の護衛騎士として同じ屋敷に住んでくれとも頼んだ。ヴィルターは王に相談しますと答えた。
やがてヴィルターは晴れてリチェル付きの護衛騎士となった。
ヴィルターはリチェルの望むとおり、常にそばに付き従ってくれた。その甲斐あってか、城内で命を狙われることは激減した。
そしてリチェルは現実逃避のごとく、覆面をしてヴィルターと共に街に繰り出すようになった。
特に父王からの咎めもなく。父王はリチェルに愛はくれないが、金はくれた。どれだけ使っても文句は言われない。
闘技会通いをし、青空市の喧騒を楽しみ、よく貧者に施しをした。
街には食うにも困る貧者が大量にいること、子供の奴隷が鞭打たれながら働いていることを知った。リチェルは奴隷たちこそ自分の似姿と思った。初めて他者に、強い親近感を感じた。
そのうちリチェルは夜の味も覚えるようになった。夜の踊り子、夜の歌い手、酒場、賭場。そして娼館。
リチェルはヴィルターに連れて行かれた娼館で、初めて裸の女を見た。だがリチェルは恐ろしくなった。あまりに色香がありすぎた。そのように話したら、ヴィルターは男娼のいる娼館に連れて行ってくれた。
そこでリチェルは、初めて男娼を抱く。
それは強烈な体験だった。リチェルの魂を揺さぶるような。
自分に貫かれる男娼は、かつての自身と重なった。まるで自分自身を犯しているような。リチェルは麻薬に溺れるように、その狂った体感にのめり込んだ。
男娼は媚薬を使えば、リチェルを本当に愛しているかのように乱れた。
憧れていた「愛の行為」がそこにあるように思えた。媚薬が切れれば終了する偽りの愛ではあったが。
リチェル自身は快楽など感じたことがない。苦痛しか知らない。
抱かれる喜びというものを知らない。知りたくても生涯、知り得ないことだと思った。
リチェルは男娼達に、自分の得られないものを代理で得させて、虚無を満たしていたのかもしれない。
それは誠に、倒錯的な行為だった。
そんなある日、ヴィルターが、バルヌーイ剣闘士団の投資主になっては、と提案してきた。一ヶ月ほど前のことだ。憧れのアルキバの活躍のために資金援助ができるならば、とリチェルは快諾した。
だが投資主になって程なく、ヴィルターはバルヌーイ剣闘士団所属の剣闘士を、リチェルの宿泊先に連れてきた。
「あなたは投資主なのだから、お好きな剣闘士をいかようにもできます」
リチェルは驚き、戸惑ったが、元男娼というその剣闘士も積極的で、流されるようにこれを抱いた。
ヴィルターはそれから定期的に剣闘士を呼ぶようになり、リチェル自身もその恥ずべき行いから抜け出せなくなった。
そして昨日、アルキバに出会った。最悪の形で。
勿論アルキバを閨に呼ぶつもりはなかった。アルキバが己のあの倒錯的行為の対象になるはずもなかった。リチェルはいつも自分のような、中性的な容姿の男娼を望んでいた。己の分身、身代わりとして。
当初、ヴィルターに「最初にアルキバを指名したが断られた」と伝えられた時は衝撃を受け、とても焦った。断られたことに心底、安堵した。
しかし昨夜、やって来てしまった。昨夜のことはもう考えたくなかった。
あの時浅ましくも、アルキバに触れたいと思ってしまった事も。
(私という人間は)
汚れた体、病んだ心、狂った頭。
リチェルは羞恥でいたたまれなくなり、思考を閉ざしてベッドに身を投げ出した。腕で目を覆い、掠れた声でひとりごちる。
「無理だ……。私が王になんてなれるわけがない……」
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