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ep1- 01
アラン・フィーは空を飛んでいた。
正確に言えば、空から地上へ向かって急降下していた。
これがスカイダイビングの類ならば良かったが、生憎パラシュートは装備されていない。身一つで空高くに放り出されている状況だ。
夢でも見ていたかのような気分で目を覚ませば、針葉樹が生い茂る森の中に頭から突っ込もうとしている。
何故こんなことになっているのか。
直前の記憶は無い。
(── 死ぬ、いや死ぬだろ、絶対死ぬ。死ぬ。落ちて死ぬ。終わりだ)
もはや頭の中が「死」という言葉で埋め尽くされ、まともな思考ができなかった。
助けを求めたくてもここは空だ。絶望しかない。
こんな所で訳も分からないまま死ぬのかと半ば諦めていたその時、目の前が光に覆われた。
刹那の出来事だった。
一瞬すぎてアラン自身でさえ何が起きたのか分からない。
眩しさに目を閉じ、再び開いたときには既にアランの体は柔らかい芝生の上に横たわっていたのだ。
落ちた衝撃はない。痛みもない。そもそも本当に落下したのなら目を開けることなく四肢がバラバラになって絶命してだろう。
しかしこうして五体満足で生きている。
まるで空から降ってきたことなど最初からなかったかのように。
(──とりあえず助かった、のか……?)
まだ心臓がバクバクと暴れているがいつまでもこうしている訳にはいかない。起き上がって周囲を確認してみれば、やはり落下中に見えていた森の中のようだ。
場所が分からない。ここはどこだ。
見渡す限り木々しか生えておらず、整備された道路は存在しない。地元の州でも見ない立派な樹林だ。
現在地を特定するため携帯電話を探すがポケットに入っていなかった。
落下中に飛んでいったかもしれないが、そもそも衣服以外の所持品が一つも無いことに気がつく。財布も、家の鍵も、いつも身につけている腕時計も──。
これは失くしたというより最初から所持していなかったと考えたほうがしっくりくる。
「俺、何してたんだっけ」
ここに来るまでの経緯を思い出そうとするが駄目だった。直前に何をしていたかは愚か、昨日の夕食のメニューが思い出せない。今日が何月何日かさえ完全に頭の中から吹っ飛んでしまっている。
幸いなことに完全な記憶喪失ではなさそうだ。試しに自分の名前や年齢、出身と経歴を声に出して言ってみたがスラスラと出てきた。
──夢。
そう考えたアランを嘲笑うかのように胸が痛みを訴える。中心より左、心臓あたりがズキズキと痛みだし、そこからじんわり外側に熱が広がっていった。
打ち所が悪かったのか。
もしかして血が出ているのか。
穴が空いていたらどうしよう。
そんな不安から恐る恐るアランは服をまくる。
「……なんだこれ」
傷の代わりに左胸にあったのは黒い紋様だった。
知人の彫師からカタログを見せてもらったことがあるが、そこに載っているタトゥーと似ている。文字はなく、模様の集合体が螺旋状になって一つの絵を描いており、渦にも見えれば太陽とも言える抽象的な形だった。
もちろん、こんなタトゥーを入れた覚えはない。
確実なのは今感じている胸の痛みと熱はこの奇怪な紋様のせいだということだ。
その時、近くの草むらが音を立てた。
人か、動物か。前者ならば御の字だが熊なら最悪だ。
怖々と振り返ったアランはギョッと目を見開いた。茶黒のブヨブヨとした物体が蠢いていたからだ。
はじめ山犬か子熊かと思った。しかしよく見れば蠢くそれは体毛に覆われておらず、僅かにだが光沢を帯びている。言ってしまえばゲームでよく見るスライムそのものだ。
不定形生物は大きく体を伸び縮みさせたかと思えば見る見る内に姿を蛇に変えた。蛇と言っても成人男性ひとりを丸呑みするに容易い巨大な蛇だ。それが今、目の前で蠢きながらアランを見下ろしている。
マズい。
喰われる。
死ぬ。
不安と恐怖でパニックになるのをどうにか耐え、アランは反射的に身を翻して全速力で逃げた。案の定アランを狙って追ってくる大蛇を見て冷や汗が止まらない。
森の中を駆け回る。
後ろを確認するまでもなく追ってきていることは背後から聞こえる地面を這う音で分かった。
足を止めてはいけない。
けれどどこに逃げればいいのかも分からない。
このまま当てもなしに走っていてもいずれは体力が尽きてしまう。
ふと、目の前を光る何かが通った。
虫かと思ったが違う。光そのものが小さな球状になって浮遊している。
アランの視線に反応するかのようにゆらゆらと揺れたかと思うと、それは光の筋を残しながら移動を始めた。
アランはその光芒を本能的に追いかける。理由は自分でも分からない。ただ体が勝手に動き、直感で追いかけるのが正しいと思ったのだ。
光彩を放つ謎の存在は明確にアランを誘導する動きをしていた。倒木を乗り越え、坂を滑ってはまた登ってを繰り返す。
そうこうする内に辿り着いたのは岩肌が剥き出しの丘だった。
光はアランを差し置いて上っていく。幸いなことに後方に大蛇の姿は見当たらないが、念の為にアランは丘を登った。
頂上に着いたアランが目にしたのは美しい湖だった。空の色より鮮やかなブルーの水面がキラキラと光っていて何とも幻想的だ。
そんな穏やかな風光に気が抜けてしまい、うっかり足を踏み外してしまった。段丘を滑り落ちて湖側へと転がる。
「いっっっってぇ……ッ」
何とか受け身はとったが体のそこかしこが痛い。
情けなく呻きながら地面でのた打ち回っていると、頭上から声がした。
「大丈夫か、少年」
男の声だ。まさかこんなところで人に会えるとは思わなかった。
アランは驚きと喜びで頭を上げ、こちらを覗きこむように見下ろす男と目が合う。
褐色の肌と柔らかなブルネット、そして透き通ったヘーゼルの瞳が印象深い男だった。整った目鼻立ちから首を傾げるその仕草さえも絵になる。
「よかった、人がいた──って、はぁ!?」
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、視線の先で飛び込んできたとんでもない光景に声が裏返る。
男は白いシャツを着ているが下半身は何も履いておらず素足が曝け出されていた。シャツでギリギリ隠されてはいるが、間違いなく下着もない。
「うわああああああ! 服、服着ろ変態!」
「なッ…、人を露出狂みたいに言うな! 私がいた場所に勝手にお前が落ちてきて勝手に見たんだろう!」
「外で下半身剥き出しの時点でアウトだって!」
「それは……ッ」
言葉に詰まった男が視線を横に逸らす。
「…………まぁ、確かに」
今更恥ずかしがって顔を赤らめる変質者にアランは後ずさる。男の背後の木に下着とズボンが干されているのを見つけるが、何故脱ぎ捨てられているのかは敢えて聞かなかった。聞きたくなかった。
「少年、決してそういう趣味じゃないから安心しろ。本当に、本当にタイミングが悪かっただけなんだ」
「なら早く服を着てくれ」
「くそッ、初対面の子供に変態扱いされるとは……」
男がいそいそと衣服を身に着ける。
ゆったりと膨らんだ長袖の白シャツは袖口にあるカフスを除けば装飾は施されておらず、細めのボトムを入れても全体的にシンプルで素朴な服装だ。しかしながら却ってそれが男の麗容を際立たせていて野暮ったさを感じさせない。
けれどアランにとっては馴染みのない洋服だった。
実物にお目にかかるには博物館か演劇に足を運ばなければならず、アラン程度の教養なら絵画やテレビの中で見るくらいだろう。
決め手は腰のベルトに提げられた剣だ。鞘に収められていて刀身は確認できないが作り物には見えない。
(──全部『本物』なんだろうなぁ……)
時代錯誤も甚だしい──なんて嘲笑できれば良かったがそれは無理だ。これがこの世界のスタンダードなのだろう。
そう、アランは理解してしまったのだ。
ここが自分の知る世界とは全く異なる世界だということに──。
(──馬鹿の俺でも流石に夢じゃないって分かる)
夢を見ているわけでも死んで天国に行ったわけでもなく、空から落ちたこともスライムの大蛇に襲われたのも、ここにあるもの全てが現実であると確信する。
「なぁ、アンタ──」
目の前の男に向けて口を開こうとしたその時、崖を滑って何かが二人の間に落ちてきた。
先ほどアランを襲ってきた大蛇だ。まだ諦めずに追ってきていたのか。
再び現れた化け物にアランは焦った様子で後ろに後退する。
「肉食スライムとは、また面倒なヤツを連れてきたな」
「アンタなんでこの状況で冷静なのさ! 襲われるって!」
「だがこいつは少年に釘付けのようだぞ」
男の言った通り、大蛇はアランだけに狙いを定めており後ろの男には目もくれない。大蛇越しに見える男の余裕そうな顔が今は腹が立つ。
「うわ……ッ!」
大蛇がその長い巨体をバネのように跳ねさせて突進してきた。
間一髪のところで転がって避けるが、今の攻撃を食らっていたらと思うと体の震えが止まらない。
「その程度の輩、一発ガツンと吹き飛ばしてしまえ」
「ナイフ持ってんだからアンタがやってよ!」
「スライムにただの刃が効くわけないだろ。あと私の戦闘力はスライム以下だ! 期待するな!」
さも当然のように自身の戦力外を自慢げに告げる男にアランは泣きそうになった。
「俺だってこんな化け物どうこう出来ないって!」
「なに? しかしお前は……」
男が訝しげに眉を動かす。
今の会話のどこに疑問に思うところがあるというのか。ほんの僅かに意識を逸らした刹那──
強い衝撃がアランの脇腹を殴打した。
諸に大蛇の一撃を受けてしまった体は簡単に地面へと転がり、遅れて痛みがアランを襲んだ。吐き気を催して酷く咳込む。
「湖に向かって走れ! そいつは水に弱い!」
流石に厳しい状況だと判断した男が叫ぶのが聞こえた。
(──水)
ここが湖畔だったことを思い出す。
湖に向かって、その後はどうする。あの大蛇が水に弱いと言うのなら飛び込めば良いのか。
何をすれば良いのかも分からず、それでも背後から這い寄る大蛇から逃げるためアランは男の言われるがまま湖に向かって走った。強打した腹部が痛むがそんなこと構っていられない。
「ああやばい、やばい。頼む待ってくれ。嘘だろこんなの」
丸呑みするつもりなのか、大蛇が口を大きく開けたのを見て情けなく尻込みしてしまう。
完全に終わったと思ったが、視界の端で振り下ろされた何かが大蛇の首を斬りつけた。
男が剣を抜いて乱入してきたのだ。しかし振り下ろされた刃は大蛇の首を切り落とすには浅く、途中で止まった箇所から粘液に取り込まれようとしていた。
「これだからスライム系は相手にしたくない」
男が笑う。焦慮の色が見えるがどこか余裕そうにも見える笑みだった。
大蛇の動きが鈍くなった隙に男は刺さったままの剣を離してアランに駆け寄ってきた。体を支えられながら二人は大蛇から距離を取る。
男が言った通り、大蛇に刃は然したるダメージになっていなかった。蠢く茶物体の頭部が細長い舌を動かしながら振り返る。
突き刺さっていた剣は今や完全に大蛇の半透明な体の中に取り込まれてしまった。こちらの戦う手段は無い。どうするのかとアランが男の反応を窺えば、彼は先も変わらず笑っていた。
「やれ、メィリー」
男が声を上げた刹那、湖の水面が大きく揺らいで飛び上がった。
それはまるで生き物のように動き、あっという間に大蛇の体を一呑みして水中へと引き摺り込む。
水中に落ちた大蛇はもがき苦しむようにバシャバシャと水飛沫を立てて暴れている。
「え、なに、何が起きた?」
水に落としただけでどうにかなる相手かと思ったが、アランの心配は杞憂に終わる。
大蛇は次第に衰弱していき、最後は跡形もなく溶けて消えてしまった。
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