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ep1- 02
「……死んだ?」
「死んだな」
静かになった水面を眺めながら二人が呟く。
「あんなのがいるなんて……」
緊張が緩み、アランは男の手を離れてその場に座り込んだ。
「普段は湖に近づかないんだが……。美味そうな人間を目の前に食欲が抑えられなかったか」
「やっぱり食べようとしてたんだ」
「丸呑みからのゆっくり消化コースさ。外から見えるから中々にグロテスクな光景だぞ」
男は至って冷静だった。
この男──否、この世界にとってあのような化け物に襲われることは珍しくないことなのか。
改めてとんでもない世界に来てしまったと実感する。
大蛇もといスライムの攻撃を受けた箇所が今になって再び痛みを訴え出した。
「薬だ。少年にくれてやる」
男が腰のポーチから小瓶を取り出し、アランに手渡す。蓋を開けて確認してみると中身は黄色い軟膏のようなものだった。
「何から何までありがとう。アンタがいなかったら死んでた」
「これも何かの縁さ」
アランは服をめくり、腹部を確認する。左脇腹が鬱血して変色していたが、骨は折れていないようで安心した。
「この森に人は入れない筈だが、君はどうやって来た?」
独特の匂いを放つ軟膏を打撲傷に塗り広げていると男が尋ねてきた。
「上から……」
「上?」
「嘘みたいな話だけど、知らないうちに空を飛んでてここに落ちたんだ。自分でもなんでこうなったか分かんない」
「ではそれまではどこに?」
続けて尋ねられた質問に開きかけた口を閉じる。
ここが異世界だとして、果たして異世界人だと正直に明かすべきなのだろうか。
そんな話を信じてくれる保証などない。頭がおかしい奴だと不審がられるか、もっと酷いことになるかもしれない。
「その、それが憶えてなくて……。所謂、記憶喪失ってやつらしい」
自分の置かれた立場が分からない以上、下手なことは言えない。
違う世界から来たことは隠しておこうと決めてアランは誤魔化すように首を横に振った。
「名前も分からないのか?」
「あ、それなら言える。俺はアラン。アラン・フィー」
「憶えているようで何より。……私のことはイーサンと呼んでくれ」
イーサン。
異世界というからもっと発音の難しい名前でも出てくるのかと思えば、馴染みのある普通の名だ。
そんなことを考えていると、湖の方からパシャリと水が跳ねる音がした。
「え、女の子?」
水の中に女の子がいた。
目を見張るほど可憐で美しい、まだあどけなさが面影に残る美少女だ。
どうして水の中にと思ったが、答えは直ぐにわかった。湖畔の近くまで泳いできた少女の下半身が人間の脚ではなく魚の尾鰭だったからだ。
つまり、お伽話でよく見る人魚そのものだった。
「メィリー、さっきは助かったよ」
伝説の生物を前にアランが驚嘆して固まっているとイーサンが人魚に近づいていった。
メィリーと呼ばれた人魚はアランを瞥見した後、水中から引き上げた剣をイーサンに差し出した。スライムと一緒に沈んだ彼の剣だ。
「拾ってくれたのか、ありがとう」
イーサンがしゃがみこみ、メィリーの濡れた頭を優しく撫でる。メィリーは嬉しそうに微笑み、大きな尾を揺らした。
剣を渡し、続いて反対の手に握りしめていた物も差し出す。
「さっきのスライムの魔石か。ふむ……これは君にあげよう。助けてくれた礼と湖を騒がせた詫びだ」
アランには黒い石ころにしか見えないそれをメィリーが口の中に放りこむ。まるで子供が飴玉を舐めているように美味しそうに食し、ごくんと喉を上下させて飲みこんだ。
食事を済ませると彼女はお礼だと言わんばかりに身を乗り出して男に抱きつく。
「メィリー、頼むからまた私を引きずり込まないでくれよ。そのせいで初対面の少年に変態呼ばわりされたんだ」
「──、──!」
「ダメだ、君はもう帰りなさい。私ももう行かないと」
「────!!」
「分かった分かった。また来る、また会いにくるから引っ張るな」
二人は仲良さげに会話を交わしているが、アランには人魚が何を言っているのか全く理解できなかった。種族が違うと話す言語も違うのだろうか。
ふとアランは気付く。
違う世界なのにイーサンとは普通に会話ができている。
そういえばイーサンの着ている衣服も古風なセンスだが違和感はないし、アランの服装を見てイーサンは何も疑ってこなかった。
異生物こそ存在するが、文化や文明はアランの世界とそう大差ないのかもしれない。
最初に出会った人が言葉の通じる相手だったのは不幸中の幸いだ。
メィリーは別れ際にイーサンの口にキスをして水中に姿を消した。
「人魚のキスはロマンがあるなぁ」などと心の中で呟きながらアランも傷の手当てを終えて服を整える。
「これはもう使い物にならないな」
戻ってきた剣を見ながら男が呟く。
剥き出しの刃は溶けてしまっていて形が崩れていた。あのスライムの体液がそうさせたのだろう。実際に食べられていたらアランも同じようになっていたかと想像すると背筋が寒くなるのを感じた。
「さて、これで二人きりになった」
鞘に収まらなくなった抜き身の剣を肩に担ぎ、イーサンが独り言のように言った。
「少年に尋ねたいことがある」
「ん?」
「君の左胸には印のようなものがあるんじゃないか」
「え、なんで分かるの?」
確かにアランの胸には入れた覚えのないタトゥーが刻まれている。
しかしそれを何故イーサンが知っているのだろう。
「俺もよく知らないんだ。気がついたらあって──」
そこまで言ってアランは息を呑む。
ぞわり、と悪寒が全身を駆け回った。
いつの間にか至近距離にいたイーサンが莞爾と微笑んでいたからだ。
「そうか」
ヘーゼルの瞳が不気味に光りを放ち、射抜くように細められる。
「お前、別の世界の人間か」
刹那、戦慄が走る。
全身の毛が逆立ち、恐怖のあまり全く動けなくなった。
(──なんでバレた)
(──俺が別の世界から来たって、どうして分かった)
いや、バレたなんて今はそんな事どうでもいい。
とにかくこの場から逃げないと。
この男から離れないと。
そう思ってもアランの体は竦み上がってその場に凍りつく。
何を恐れることがあるか。
イーサンはただ笑っているだけだ。
敵意も、悪意も、殺意も、憎悪も、怨嗟も、悔恨も、妬心も、彼からは何も感じられない。
それなのに、まるで自分の存在そのものがイーサンにとって害だとでも言われているかのような錯覚を起こさせた。
見た目はアランと同じ人間なのに、絶対的な『死』を感じ取る。
背骨がギシギシと軋み、アランの本能が眼前の男を敵に回してはいけないと警鐘を鳴らした。
イーサンの手が迫ってきた。
このまま彼に殺されると悟ったアランはせめてもの抵抗で目を瞑る。
だが、アランの予想に反してイーサンの笑みは苦笑に変わり、困ったように首を傾げて肩に手を置いてきた。
「そう怖がるな。君をどうこうする気はない」
「え……?」
イーサンからは畏怖を感じられなくなっていた。
アランはポカンと口を開けて放心する。
「少年は感性が鋭いようだ。この世界でそれは大いに役に立つ。心に留めておくといい」
「えっと……つまり俺は今死なずに済んだってこと?」
「ハハハッ、俺に殺されると思ったのか」
最早さっきの出来事が夢だったと思うほどイーサンの纏う雰囲気は柔らかくなっていた。
「……イーサンって何者?」
純粋な疑問をぶつける。
「ただの人間だよ。少年が感じた気配は連れのものであって私じゃない」
嘘を言っているようには見えないが、なんだかはぐらかされた気がする。
けれどそこに深入りする気にはなれず、アランは別の問いを投げかけた。
「じゃあ俺って何?」
イーサンはアランが異世界の人間であると見抜いた。
彼ならアランが置かれた立場を知っているかもしれない。
「大いなる存在に対抗するために連れてこられた戦士──。この世界において召喚者と呼ばれる異世界の民、それが君だ」
そう言ってイーサンは自分の左胸をトントンと叩く。
「召喚者は胸の刻印の他に戦士としての力と使命を与えられる。本来なら契約を経て召喚されるから本人に召喚者としての自覚はあるんだが、……どうやら君はそうじゃないらしい」
アランに召喚者としての自覚はない。
どうやってこの世界に来たのか。契約とは、力とは、使命とは何なのかさっぱりだ。
イーサンの話が全て本当なら、アランには特別な力が宿っている。それこそ先ほどのスライムの化物を簡単に倒せるくらいの力をだ。
けれど現実はそうはいかず、ただの無力で無知な青年が死と隣り合わせの異世界に連れてこられただけの結果になっている。
(──俺、これからどうすればいい)
あんな化け物が当たり前にいる世界に身一つで放り出された。
知識も無く、力もない。
こんな状態でどう生き残ればいい。
どうやって元の世界に帰ればいい。
「受け止めきれないか?」
「受け止めようとしてる。けど、まだ夢であってほしいと願ってる。こんなの……こんなの突然すぎる」
「まぁ、不安になるのも分かるさ」
先ほどよりも落ち着いた調子でイーサンが呟く。
「同情するよ少年。……本当に、心の底から君に同情する」
彼は湖の方へと歩いていき、陽の光を反射する水面を眺めた。
「迷子をこのまま放っておくのも忍びないが、正直なところ私自身もどうすべきか悩んでいてな。だから少年の考えを聞いておこうと思う。少年はこれからどうするつもりだ?」
「そんなの……、そんなの分からないよ」
「では質問を変えよう。──私にどうしてほしい?」
イーサンが振り向いた。
逆光で表情ははっきりとは見えなかったが、問いかけてくる声音は優しかった。
イーサンが何者なのか分からない。
本人ははぐらかしていたが、先ほど感じたドス黒い気配はアランの勘違いでなかった。間違いなく彼は危険な何かだ。
けれど嘘を言ったり騙しているように思えないのも事実だった。
彼の言葉に偽りはない。アランはそう確信する。
だから──
「助けてほしい」
嘘偽りなく、アランは今の気持ちを正直に言った。
自分の直感を、彼を信じてみようと思った。
「なら、助けてやる」
イーサンが右手を差し出し、アランもその手を握り返す。
改めて見えた彼の顔はやはり優しく微笑んでいた。
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