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第107話

 病院の外に出るとまだ5時半なのにすっかり夜のとばりが降りていて、空には飴細工のように細い月とその破片のような星が散らばっていた。  すれ違う人々や町のいたるところに、クリスマスイヴという媚薬の粉がふりかけられていてキラキラと輝いて見えた。  旭葵だけ神さまが粉をかけるのを忘れてしまったかのようだった。  旭葵はお婆さんが編んでくれたマフラーをぎゅっと巻き直した。  帰ると家は真っ暗だった。  明かりをつけていないのだから真っ暗なのは当たり前なのだが、夜より家の中は暗かった。  家の中の闇はブラックホールのようにわずかな音さえも呑み込んでしまっているかのようだった。 「ただいま」  旭葵の声をすぐに闇は呑み込んだ。 「婆さん?」  闇は答えずに、沈黙を放って投げてきた。  旭葵は闇に手を取られ玄関を上がると、お婆さんの部屋の襖を開けた。 「婆さん?」  窓から入ってくる明かりが部屋を薄ぼんやりと照らしている。  昔ながらの鏡台の前には薄っぺらい座布団が1枚。桐のタンス。老人会でもらった造花。天井の照明器具の引き紐にさらに紐が括り付けられ、畳に向かって長く垂れ下がっている。  旭葵はお婆さんの部屋の前に座り込んだ。  上着の襟を詰め、マフラーに顔を沈めた。人気のない家の中は寒かった。廊下がひんやりと冷たい。  台所で物音がしたかと思うと闇の中からよもぎが現れた。よもぎは寝ぼけた顔をして、旭葵に1度大きく擦り寄るとそのまま毛繕いを始めた。せわしく動くよもぎの頭を撫でる。 「よもぎ、婆さんもお前の猫風邪みたいにすぐに元気になるよな。あの婆さんに限って、なんかなんて絶対にないよな」  旭葵は体操座りした膝の上に顎を乗せ、ぼんやりとよもぎの毛繕いを眺めた。  今にでもお婆さんが玄関を開けて帰ってくるような気がした。それとももう元気になって、病院から直接老人会のクリスマスパーティに行っているかも知れない。 「婆さん」  旭葵は顔を膝にうずめた。  どれくらいそうしていただろうか。玄関の外で砂利を踏む音が聞こえた。旭葵は弾けるように頭を上げる。 「婆さん?」  玄関から一直線に伸びる廊下から、磨りガラス越しに長い人影が見えた。と、同時に玄関ブザーが鳴り、ガラス戸がやかましく叩かれる。  誰? 今晩旭葵の家を訪ねてくる人などいないはずだ。  旭葵が玄関の鍵をかけていないことを思い出した時、ガラス戸がひかれた。長い影が玄関に入ってくる。  旭葵は家の闇に紛れるように息を殺した。が、長い影が真っ直ぐにこちらを見ているのがその気配で分かった。 「旭葵?」  どんな人混みの中でも分かるその声、いつも旭葵の1番近くにいた声、そしてそれは、今晩絶対にここで聞くはずのない声だった。

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