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4、黒波の過去
「じいちゃんは……いないな、よし!」
玄関から家の中を覗き込み、じいちゃんの草履が見えないことに安堵する。今日は囲碁仲間のご老人たちと宅飲みをすると言っていたはずだから、きっと帰りは遅いはずだ。そっと気配を窺いながら、コソ泥よろしく気配を消して玄関の中へ……。
——鬼なんか連れて帰ってきたって知られたら、ぶん殴られるにきまってるしな……。
今日は朝からツイていなかったけれど、まさか鬼を拾って帰ってくることになるとは思わなかった。だが、俺はもともと世話焼きなところがあるため、どうしても放っておけなかったのだ。
黒波を縦抱っこしたまま家に上がると、出汁の匂いがふわりと鼻をくすぐる。今日の夕飯当番はじいちゃんだ。料理上手なじいちゃんの作る煮物はいつも絶品で、ご近所へのお裾分けメニューの中でも特に人気がある。きっと、今日の宅飲みにも手土産として持っていったのだろう。
黒津地神社の裏手にある古い日本家屋が俺の自宅だ。じいちゃんが若い頃に建てた家で、敷地面積は百坪ほど。
一階には、広々した玄関から伸びる廊下の脇に八畳の客間があり、その隣に居間がある。廊下を隔てた向かい側には台所だ。ちなみに、俺の部屋は二階にある。
雅やかな透かし模様の入ったガラスの嵌まった引き戸を開き、台所で黒波の食べられそうなものを探すことにした。
「生肉とか? ……いや、でも弱ってるちびっ子に生肉なんてダメか。やっぱおかゆとかのほうがいいのかなぁ」
ぶつぶつひとりごとを呟きながら冷蔵庫を物色していると、ぴく、と黒波の身体が揺れた。そして、すん、すんすん、と鼻をひくつかせている。
「……うまそうなにおい……」
「ん? なんか食いたいもんある? 人間の食べ物しかないけど……」
腕の中で目を覚ました黒波は目を擦りながら辺りを見回したあと、一直線に煮物の鍋のほうをじっと見ている。じいちゃんが煮物を炊いた土鍋の蓋をぱかっと開けると、黒波の目がキラキラと輝いた。……なるほど、こういうものも食べるらしい。
「今日のうちの夕飯。お前も食う?」
「く、食う! はらが減って死にそうや……」
「鬼ってこういうのも食べるんだな。米も食べるか?」
「米!? た、たべる!」
ぱか、と炊飯器の蓋を開けると、黒波は大きな目をこぼれ落ちそうなほどに大きく見開き、金眼をまばゆくきらめかせた。「人肉を要求されたらどうしよう」と考えたことに罪悪感を抱かせるほど、その表情は無垢で可愛らしく、ますます毒気を抜かれてしまう。
「よし、じゃあすぐ準備するから待ってろ」
居間の座布団にぽすんと黒波を座らせ、台所で手早く夕飯の支度を整える。こんもりと白米を盛った茶碗と味噌汁、そして大皿いっぱいにイカと里芋と大根の煮物を盛り付け、居間の座卓にでんと置いた。
出し忘れたペットボトルの緑茶を取るべく、一瞬台所に立っていた間に……黒波はがつがつとすごい勢いで白飯にがっついていた。時折思い出したように煮物に箸を伸ばしてぐさりと里芋に突き立てて、ばくばくと口へ運んでいく。湯気のたつ味噌汁も一気飲みだ。あまりの食欲旺盛さに、俺は呆気に取られてしまった。しかも……。
「ううっ……う、うっ……」
「えっ、泣いてる!?」
小さなほっぺたを膨らませてもりもりガツガツ食事をかき込みながら、目からはポロポロと涙を流している。
「こんなうまい飯、はじめてやぁ……う、ううっぅ……」
「そ、そうなの?」
「うぇっ……うう、うまい、めっちゃうまい……ぐすっ……」
涙で頬をべしょべしょにしながら鼻を啜り、黒波は嗚咽を漏らしながら食べ続けている。俺は苦笑して頬杖をついた。
「封じられてた間、何食ってたんだよ」
「……なにも……なにも食うてへん」
「えっ!? うそだろ!?」
「空腹も眠気も、暑さも寒さも感じず……静かで誰もいない、そんな世界にいた」
「ええ……?」
「屋敷の庭から外に出ようとしても、気づいたらまた屋敷の中に戻ってた。……白い霧におおわれて、庭から向こうはなにも見えへん。……時がどれくらい経ったのかも、わからへんかった」
なんという地獄だ。どこまでも穏やかで静かな場所で、本能的な欲求をも全て奪われ、囚われる。快適そうに聞こえるけれど、刺激という刺激を全て奪われた世界だ。死ぬこともできないまま、ただただ八百年のあいだずっとそんな場所に存在せねばならないなんて……。
「お前……そんなとこに閉じ込められるなんて、マジで何したわけ?」
食べ物をあらかた腹の中に収めた黒波は、ようやく握りしめていた箸を机に置いた。そして、どこか虚な眼差しで遠くを見つめながら、ぽつぽつと語り始める。
「おれな、もとは人間やってん。歳の頃は覚えてへんけど……たぶん、幼い童やった」
「へぇ……」
「戦で荒れた時代やった。貧しくて……食うや食わずの日々がずっと続いて、大人からは暴力と罵声ばかりを浴びる日々や。なんの役にも立たへん汚い鼻ったれやったおれは……はよう死ねとばかりに、毎日折檻されとった」
「っ……」
「しかしまぁ……痛みよりも飢えのほうがしんどかったな。痛みってのはだんだん慣れてくもんやし、堪えていればいつかは終わる。……せやけど、飢えだけは耐えがたい」
ふ……と、いやに大人びた笑みが幼い唇に浮かぶ。
突然語られ始めたのは、聞くに堪えない過酷な過去だった。
現代社会にも貧困や虐待の問題は数多く存在しているけれど、俺は運良く、何不自由なくここまで成長することができた。
……だが、黒波の生きた時代は違う。知識として、当時の時代背景のことは教科書で学んできたけれど、実際その時代を生きていた黒波の口から語られる過去は、あまりにも痛々しい。
「えらく寒い日ぃやった。おれはいつものように折檻されて……たぶん、死にかけたんやろう。動かへんもんやから河原に捨てられて……そのとき、おれの身体になにかが宿った」
「……宿った?」
「それがなにかはわからへん。でも……おれはそのときから人ではなくなった。力が漲って、気持ち良うてな。おれはおれを捨てた大人をその足で追いかけて、殺した」
す……と小さな手を見下ろす黒波の眼差しは、ひどく昏く悲しげだった。
「ずっとずっと感じていた理不尽な不幸や苦しみが、すべて力に変わっていくような感覚やった。血が沸き滾るような感覚で、脳みそまで燃えるようで……そのあとのことは、ぼんやりしか覚えてへん。……気づけばおれは、人間どもに追われる身になっていた。おそらく、たくさん人を殺したんやろ。逃げながらまた殺して、その生き血を啜って生き延びては、また襲われて、殺して……の繰り返し。その頃は、人やった頃のことなんてすっかり忘れとったんやと思う」
「じゃあ……今はどうなんだ? 今のお前は、すごく落ち着いてるっていうか……理性があるっていうか」
勢い込んでそう尋ねてみると、黒波は翳りのある眼差しで俺を見上げた。
「……封じられている間に、おれは神のようなものに説教をされた」
「えっ、神……?」
「あれが仏なのか、神なのか、おれにはわからへん。ただ、お前はあまりにたくさんの命を奪いすぎたと、言われた」
「仏か、神……」
「これまでの行いを悔いる気持ちがあるか否か、問われた。おれはある、と答えた。そしたらな、少しずつでも善い行いをしろ、徳を積めば、悪鬼としての過去を断ち切り、新たな道を歩むことができるかもしれない……そう言われたんや」
「……」
「せやからおれは……これからは悪いことはしたくない。もう、人も殺したない。善い行いをして、徳を積んで、生き直したい……そう思う」
何から何まで想像を絶するような話が続き……俺のほうも、だんだん夢でも見ているような気分になってきた。
封印された巻物の中で神仏と対話し、悔い改めたからこそ、黒波はこうして再び現世に蘇ることができた——と、そういうことなのだろうか。
まるでおとぎ話のようだ。だが現に、目の前にいるのはツノを生やした子鬼だし、感じ取れるのは明らかな妖気である。黒波の姿が見えてしまう俺にとって、彼が語る過去も、こうして今彼がここにいる現実も、全てが真 だ。
「……そうか。お前は、これから生まれ変わるんだな」
俺がそう呟くと、黒波はちょっと面食らったように目を見開いた。きら、と金眼に光が差し込み、少しだけ表情が明るくなる。
「生まれ変わる……?」
「そう。巻物の中のなーんもない世界じゃ、徳の積みようがないだろ? でも、改めて人の世に産まれ直したんだ。これからは、この現世で善い行いってやつを積み重ねていける」
「うん……」
「そうすりゃ、神様だって許してくれるんじゃないか? 鬼が何歳まで生きるのかは知らないけど、そのうちいいことあるかもだし」
「うん……うん、そうやんな! お前、なかなかいいことを言う!」
くるりとした目をきらきらさせながら、黒波は座卓に手をついて立ち上がった。
「そうや! おれは生まれ変わりたいねん! だからもう、人を殺したり傷つけたりはぜったいせぇへん!」
「うん、いい心がけだと思うぞ」
「だけどおれは、善い行いというのがいまいちようわからへん。お前さえよければ、しばらくおれを見張っていてくれるか」
「み、見張る? ……ああ、善い行いがどんなものかってのを教えて欲しいってこと?」
「そのとおりや」
黒波は細っこい腕を組み、うんうんと深く頷いている。
——ちょ、ちょっと待て。ってことは、黒波はしばらくここに居座るってことか?
神社に鬼がいる——……そんなの、誰が聞いても大問題だ。だけど、黒波はこれから先、一切の悪事を働かないと心に誓っている。ひどい悪さをすることはないだろうし、封印を解いてしまった責任もある……。
——今ここで放り出すわけにいかないしなぁ……。
先行き不安ではあるが、ここは一つ腹を括るべきだろう。俺はひとつ息を吐いて笑顔を見せると、決然とした口調でこう言った。
「うん、わかった! 俺が教える」
「そ、そうか……! よろしくたのむぞ!」
居場所を得て安堵したのか、黒波はため息とともに肩の力を抜き、八百歳越えの鬼とは思えないようなあどけない表情を浮かべた。
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