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11、切り裂く鉤爪

「う、あ……っ!!」  俺は咄嗟にじいちゃんを突き飛ばし、その場から距離を取った。  じいちゃんを庇いながら後ろを振り返ると、遠藤さんの肉体が見えないほどの勢いで黒煙が噴き出している。  黒煙の正体は瘴気だ。俺は目を見張り、愕然とした。  ——憑き物は祓えたはずだ……!! なのに、なんで!!  さっき憑いていたものとは比べ物にならないほどの禍々しさを秘めた何かが、姿を現そうとしている。それは見る間に蛇のような身体を黒煙で構築し、ぐるぐるととぐろを巻いた。見上げるほどに大きく、本殿の天井にまで達しそうな巨躯だ。そして鎌首をもたげた先に、カッと丸いものがふたつ、赤く光る。  血に濡れたような、赤いまなこ。見覚えのある血濡れの赤。……ぞっ……と全身が戦慄する。 「陽太郎! どうしたんだ!? 何がそこにいる!?」 「じいちゃん……逃げて。こっから出た方がいい」 「何を言っとるんだ! お前だけ残してわしが逃げるわけにはいかん!」 「けど! ここにいたら……」  ——間違いない、こいつは……アレだ。  この気配、この臭い。形状は違っているが、これは幼い頃、陽太郎を洞穴に引き込んだ妖に違いない。俺は、こいつに喰われかけた。  ——なんで。なんで今になってこいつがここに現れる? この十年近く、なにもなかったのに。気配さえ感じなかったのに。昔よりも大きく禍々しい姿になってここに現れるなんて……どうして……!?  あの日のように、赤い眼がニタリ……と半月状に歪んでゆく。声が聞こえなくてもわかる。こいつは、再び俺を見つけて喜んでいる。とうとう俺を喰うことができる。より強い力を手にすることができる——……と。  つう……と、冷たい汗が背筋を伝う。奥歯を噛み締めても手足が震えて、その場から微動だにすることさえできなかった。  こんな妖を追い払う術(すべ)を、俺は持っていない。人に取り憑いた悪霊くらいしか、俺は祓うことができないのだ。  でも、この場にはじいちゃんも遠藤さんもいる。俺が何もしないでいたら、こいつはじいちゃんたちにも悪さをするに違いない。 「じいちゃん……!! 逃げてくれ、早く!」 「だから、それはできんと言って、」 「じいちゃんがいたって何にもなんねーだろうが!! 早く、なんでもいいから早く逃げろ!!」  じいちゃんを怒鳴りつけた声に誘われてか、妖の目がカッと見開かれ、赤黒い光を宿す。俺が身構えた瞬間、蛇のような形を取っていた妖の身体から無数の触手が生み出され、一直線に突き刺すように俺の方へ向かってきた。  ——くそっ……!! 俺、この歳で死んじゃうのかよ……!!  二十歳にもなれず、愛し愛される幸せも知らず、この若さで死んでしまうとは。さすが、短命で有名な柴家だ。  まぁいい。俺がこの先生きていたって、母さんのように子孫が残せるわけでもないし。俺が生きてたっていう爪痕も残せないわけだから、もういいや——……。  諦めの境地に達した俺は、全身に降りかかるであろう痛みや衝撃を覚悟して、せめて視界から恐怖を締め出すように目を閉じた。  だが、痛みの代わりに、くぐもった断末魔の悲鳴が、俺の鼓膜をおぞましく震わせる。 「グぎャァァァぁぁぁァ————!!」  弾かれたように目を開くと、さぁ……と涼やかな風が瘴気を切り裂く。  視界の端で、サラリとした長い黒髪がしなやかに揺れる。恐る恐る視線を上げると、黒衣に包まれた広い背中が、俺にの目の前に立ちはだかっていた。 「フン。俺の目の前で陽太郎に手ぇ出そうとするとは、ええ度胸やな」 「く、黒波……!」  ビチャビチャ……ッ……! と湿った音の方に目をやると、黒波の手から赤黒いヘドロ状のものがボトボトと崩れ落ちた。あの妖の目玉だ。片目を抉られた妖は、本殿を揺るがすほどの気迫で黒波を威嚇している。  睨み合うこと数秒。黒波は指を曲げて太く鋭い鉤爪を軋ませると、トン、と軽い足音と共に地を蹴った。  黒波に向かって咆哮し、次々に触手を襲わせる妖の攻撃を身軽にかわし、触手を蹴ってさらに高さを取った黒波の鉤爪が、鋭く振り下ろされる。  脳天を真っ二つに裂かれた妖が、ピタリと動きを止めた。  そして、声を上げることもなく、ドロドロとその場に崩れてゆく。  目の前で繰り広げられた妖怪大戦争の凄まじさに呆気に取られるうち、本殿の中を満たしていた黒い靄が晴れてゆく。最後まで恨めしそうに周囲を睨みあげていた妖の目玉が、ボロボロと風化するように消え去ってゆく様を見守っていた黒波が、ゆっくりとこちらを見た。  こちらを見据える金眼が、ギラリと妖しく光り輝く。 「黒波……」 「どうもないか、陽太郎」 「……ああ……うん。お前、強いんだな……」 「ふ、俺を誰やと思ってんねん。あんな小物、相手にもならへんわ」  ふんぞりかえりそうな勢いで得意満面をしている黒波の笑みを前にしていると、恐怖で竦んでいた身体から力が抜けた。膝が萎え、かくんと前のめりになった俺を、黒波が逞しい腕でさっと支える。 「ええことしたか? 俺」 「うん……うん! いいことした! ありがと……助かった。まじで……」 「ははっ! これでひとつ徳が積めたぞ」  本当に助かった。マジで助かった。黒波がいなければ、俺はもちろんじいちゃんや遠藤さんまで死んでいたかもしれない……。 「……おい、陽太郎? 陽太郎」  だんだん、黒波の声が遠ざかる。  間近で邪悪な妖気を浴びてしまった反動か、俺はそのまま気を失ってしまった。

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