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エピローグ
目の前に正座した老夫婦の頭上で、恭しく大幣を振る。サッ、サッと涼やかな音が本殿のがらんとした空間に響く中、隣に座していた黒波が音もなく立ち上がり、首を垂れた老夫婦の背後に回った。
そして、彼らの肩に乗っかっていた五つほどの悪霊をむんずと引き剥がす。……ここへ来て黒波を見た瞬間から『鬼……? 鬼だよねあれ……。え、なんで……なんで鬼……?』と戸惑いの表情を浮かべていた彼らは、『ぎゃぁ』と一声喚いてあっという間にどこかへ消えていってしまった。
すると、それまでずっと蒼白な顔色で項垂れていた夫婦が、ふと我に返ったように顔をあげた。それこそ憑き物が落ちたような清々しい顔で。
「あ、あれ……ずっと痺れていた肩が急に軽く……」
「ほ、本当だわ。……あら、どうしたのかしら、頭痛もさっぱり消えてるわね……」
二人で顔を見合わせたあと、希望に満ち満ちた明るい瞳で俺を見つめる。そして、また深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……!! すごく楽になりました……!!」
「胡散臭いなんて思っててごめんなさいね! ああ……すごいわねアナタ、若いのにすごいわ!」
ここへ来た当初、奥さんのほうは俺に対する警戒心がマックスだった。しかし、俺の背後にいた黒波(ツノと爪は隠した人間タイプ)の派手さに目を奪われ、「さあ、中へ。つらかったやろうが、ここへ来ればもう大丈夫やからな!」と、爽やかに招き入れられ……なんだかあっさりお祓いを受けてくれることになった。イケメンはどんな場面でも強い。
「恐れ入ります。もうおかえりになって大丈夫ですよ。もしまた不調が出るようでしたら、遠慮なく相談してください」
穏やかな口調でそう告げると、老夫婦は俺に向かって合掌して深々と頭を下げた。そして、夫婦の横にいつの間にか正座していた黒波にも、「ありがとうございます、ありがとうございます」と手を合わせている。
やや居心地悪そうに黒波は小さく頭を下げ、肩を寄せ合って本殿を去ってゆく夫婦の背中を見送った。
そしてその場に俺と二人になると、「はぁ……」とため息をつきつき肩をぐるぐる回している。
「お疲れさん、今日もありがとな」
「なに、あれくらいどうもない」
黒波の仕事は悪霊を引き剥がすだけでは終わらない。
はじめて黒波をお祓いの場に同席させたときに気づいたことがある。
ここへきたときから、悪霊たちは黒波の存在に戦々恐々しはじめる。どうやら彼らは『取り憑いていた人間から剥がされる=黒波に喰われる』と思い込むようで、黒波怖さに自ら成仏の道を選んで消えていくのだ。
それから何度か黒波同席でお祓いをしてみると、やはり同じことが起こった。この謎システムによって、俺は霊力のほとんどをお祓いに使うことがなくなって……なんだか、毎日ものすごく体調がよくて、以前よりもぐっと顔色や肌艶が良くなった。それは夜毎繰り広げられる黒波とのらぶえっちのおかげかと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。
「うん、それはあると思うよ。柴家のみなさんは優しいから、豊富な霊力を世のため人のために使おうとして積極的にお祓いとかしてたみたいだけど、それってかなり術者の身に負担がかかることだからねぇ」
と、黒波に淹れさせたお茶を渋そうに啜りながら、静司さんはそう言った。この人、週に二、三度は母家の方へやってじいちゃんと碁を打ったり、黒波が喜びそうな茶菓子を持ってやってきては、「僕とも一緒に仕事しようよ。ね? 楽しいよきっと。ね?」と黒波の手をいやらしく握って口説いているのだ。
そのたび、「気色悪いねん触んな」と黒波にすげなく振り解かれる手を、後からくんくん匂いを嗅いだり頬擦りしているので、確かにかなり気持ちは悪い。
そして今日も、以前黒波が珍しく気に入った抹茶味の羊羹(わざわざ京都からお取り寄せしたらしい)を再び持参し、のんびり縁側でお茶を啜っている。
「じゃあ、ばあちゃんも母さんも、お祓いのせいで早死にしてたってこと?
「それは十分に考えられることだね」
「でも、二人とも事故だったんだよ? 俺、てっきり何かに呪われてるとか、そういうんだとばかり……」
だが、確かに思い当たるところはある。
記憶にある母さんはとても儚げな人だった。お祓いのあとはとても疲れて、しばらくぼうっと遠くを眺めていて、子ども心に「お母さんはすごく大変な仕事をしているんだ」と思っていた。
そういえば、車の運転は母さんの担当だった。母さんは車で出かけるのが好きで、若い頃はしばしば車で一人旅にでかけていたと聞いたことがある。そして、都会育ちの父さんは免許を持っていなかった。なので、どこへ行くにも運転は母さんの担当だった。
お祓いの直後はさすがに運転を控えていたようだけど……ふとした拍子にプツンと気力の糸が切れて注意力が散漫になり、事故を引き起こした——ということは十分に考えられる。
「……お祓いのせい、か……。確かにめちゃくちゃ精神力持ってかれる感じするもんな……次の日きついし」
「そうだろうね。陰陽師 みたいに式を使えば少しは負担が減るんだろうけど、式を持つにもそれなりの知識と覚悟がいるからねぇ」
「なるほどな……」
「だが君の場合、それを黒波くんがやってくれるようになったわけだ。闇雲に力を使うことがなくなったわけだし、普通に健康に気を使ってりゃ長生きできるんじゃない?」
静司さんの言葉を聞き、生まれてこの方ずっと心を覆っていた暗い靄が、さぁっと晴れてゆくような気がした。
そうか、俺は早死にしなくても済むのか。いつなにが起こるかとビクビク不安を抱えながら生きなくてもいいってことなのか……!!
それってつまり、黒波とも長く一緒にいられるってことじゃないか。どうせ俺はそのうち死ぬから……なんて卑屈な考えに囚われなくても良くなるってことだ。なんだろう、胸の底からむくむくと希望が湧いてくるような感覚だ。心も、身体も、すべてがすごく軽い。頭まで冴え渡っているような気がする。
「陽太郎。肉屋のじじいからまた肉の塊もらったで! ……て、まだおったんか貴様。茶ぁ飲んだら帰るて言うてたやろ」
長身を屈めて居間に入ってきた黒波が、静司さんを見て露骨に嫌な顔をする。今日もツノを隠した人の姿だ。じいちゃんが黒波のために仕立てた神職の装束に身を包んだ黒波は、今日も惚れ惚れするほど男前だ。
褐色の肌や彫りの深い顔立ちは、どうやっても町内では目立っている。だが、顔の広いじいちゃんが「こいつは海外から神道の勉強をしにきた留学生だ」とあちこちで黒波の紹介を済ませているため、さほど妙な騒ぎにはなっていない。
しかもその都度、じいちゃんは「こいつは背も高けりゃ腕力もある。なんか困ったことがあったら使ってやってくれ。うちの陽太郎より役に立つからな! わははは」と付け加えているらしい。この町は老人が多いこともあって、ちょっとしたことでも若者の手があると重宝される。
やれ町内会の祭りだ大掃除だ蚤の市だとイベントごとに黒波は駆り出され、持ち前の腕力で老人たちを助けている。そして、「お兄ちゃんかっこいいねぇ」「外国の人? エキゾチックですてきねぇ」「ほら、おみかん持って帰ってねぇ」などとお婆さま方にチヤホヤされ、いろんなお土産を持たされて帰ってくる。
俺よりも格段にこの町に溶け込み、日々誰かの役に立っている黒波だ。本人はあまり表情には出さないけれど、そういう日々にやりがいを感じているのもわかる。
こうして善行を重ね、徳を積んでいけばきっと、過去に黒波が犯した罪は赦されてゆくに違いない——……俺は、そう信じている。
「……やれやれ、ようやく帰ったか」
いつまで花屋をほったらかすつもりだ、と黒波に叱られ、静司さんは嬉しそうに帰っていった。ようやくふたりきりになった昼下がり、俺たちは並んで縁側に腰掛けている。
すっかり袴姿も板についてきた黒波にそっと寄り添い、俺はにこにこしながら黒波を見上げた。
「どうした、ご機嫌やな」
「ふふ、へへっ……うん、ちょっとな。ああそうだ、またもらいものだって?」
「そうやねん。ちょっと店の電球を取り替えただけやねんけどな。年寄りというのは、人に物を贈るのが好きな生き物のようや」
と、なんとなく不思議そうな表情でそんなことを言う。俺は笑って、黒波にこう教えてやった。
「それはさ、黒波がこの町で好かれてるからだよ! 肉屋の松坂さんだって、誰にでも肉の塊プレゼントするわけじゃないんだからな」
「好かれている……? 俺が?」
「そうだよ。黒波はみんなに親切だし、嫌な顔ひとつせずに手を貸して、役に立っててさ……そういうの、みんな嬉しいんだよ。だからこの町のじじばばはお前に色々お裾分けしたくなるんだよ」
「……そ、そうなんや」
黒波の頬が、じわじわと紅色に染まってゆく。ひたとこちらを見つめる金眼は薄い涙の膜でキラキラと輝いて、ものすごく嬉しそう。それに、すごくきれいだった。
「……そうか、そうなんや……そうか」
「俺も嬉しいな。町のみんなが黒波のこと受け入れてくれて」
「……うん。お前とじじいのおかげやな」
「へへ、確かにじいちゃんの宣伝効果すごいよな。俺たちのことも、なにも言わないけど認めてくれてるみたいだし、すげー気が楽、」
溢れて止まらない笑顔のまま黒波を見上げると、ちゅ、っと唇にキスをされた。こんな真っ昼間から、しかも人目のありそうな母家の縁側でキスするなんて……と文句を言いかけたものの、目の前にある黒波の笑顔があまりにも幸せそうで、俺はなにも言えなかった。
「好きやで、陽太郎」
「へっ……」
「お前のおかげで、俺はこんなにも穏やかで幸せな日々を送れるようになった。……陽太郎が毎日飽きもせずに好きや好きやと言うてくれるおかげで、ここに力が湧いてくんねん」
黒波はそう言って、大切そうに自らの胸にそっと手を添える。……そして、もう片方の手で俺の手をきゅっと優しく握りしめた。
「お前のためならなんだってしてやりたい。お前が笑ってる顔を見るのがほんまに好きや。……そんなふうに思えるようになった自分のことも、今は、嫌いじゃない」
「そ……そっか、そうなんだな! 黒波……!」
静かな口調で噛み締めるようにそう語る横顔があまりにも尊くて、俺は思わず黒波に飛びついて抱きしめた。そんな俺の背中を片腕でしっかりと抱き止めて、黒波はやわらかく微笑んだ。
「こんなとこでいちゃつくとやらをやってしもたら、じじいに怒られんねやろ?」
「……いい、いいよちょっとくらい! 今は黒波をぎゅっとしたい気分なんだ。今しないでいつするんだ」
「陽太郎……そんなにべったりひっつかれると、こっちまで物足りひんくなるやん」
そう言って、黒波は俺の顎をすいと掬って、もう一度軽いキスをした。さらに二度、三度と唇を甘く啄まれ、物欲しそうな瞳でしっとりと見つめられてしまうだけで、身体の芯にあっさりと火が灯る。
確かに、こんなキスじゃ物足りない。まだ昼間だけど、まだこんなに明るいけど、こうも官能的なキスをされてしまうと、今からベッドで思いっきり抱いてほしい気分になってしまう……。
だが、世の中そう甘くはないらしい。
「こらぁ!! なにをやっとるんじゃこんなところで!!」
「げっ……じいちゃん」
「ったくお前らは……あ、陽太郎! お前は午後から静司さんとこだろうが! それに黒も、ぼさっとしとらんで儀式の支度を手伝わんか! 夕方に厄除けの予約が入っとるんだぞ」
そうだった、午後から『トモリバナ』でバイトがあるのを忘れていた。そして黒波も、じいちゃんのアシスタント業務が入っているらしい。
じいちゃんが目の前に現れても俺の腰に回した手を離さない黒波の手からそっと逃れて、俺は「ごめん、つい……」と頭をかく。そしてじいちゃんに「締まりのない顔をしよって!」とまた怒られた。
どすどすと足音もやかましく台所へと立ち去ってゆくじいちゃんを見送りつつ、俺たちは顔を見合わせて苦笑した。
掃き清めたばかりの庭に、ぴちち、と可愛らしい小鳥の声が響いた。さらりと吹き抜けてゆく風の匂いを確かめるように、空に向かって目を閉じる黒波の横顔は、かつて悪鬼と呼ばれていたことが信じられないほどに穏やかだ。
風に乗ってかすかに届く花の香りに、春の訪れを予感する。
咲き乱れる桜や芽吹く若葉、天高くそびえる雲や果てしない海、そして燃えるような紅葉——黒波に見せたいものがたくさんある。四季の移ろいをその目に映した黒波は、どんな反応をするだろう。思い描くだけでもわくわくする。
——八百年前に封印を施した陰陽師たちは、黒波にこんな未来が待ってるなんて思いもよらないだろうな……。
数百年という時の流れに想いを馳せる。
うららかな陽の光のぬくもりに包まれながら、俺はそっと黒波と手を繋いだ。
まろやかに揺れてきらめく金色の瞳に、俺は満面の笑みを返すのだった。
『徳を積みたい鬼が俺を溺愛してくる』 おしまい♡
最後までお読みいただき、まことにありがとうございました!ヽ(;▽;)ノ
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